ことばを「間」に置けるようになりたい 〈言葉の企画2020 第三回 後編〉
先週、ひさしぶりに大学時代(広告研究会)の友人と会った。
大阪駅で待ち合わせをして中崎町まで歩いて、美味しいスパイスカレーを食べた。
定期的に誰かの結婚式があって、みんなで会えた6年間を経て、今年は結婚式がない。積もりに積もった近況報告。
既婚者の二人から、「すず、結婚式してよ〜」と冗談めかして言われる。
まったく予定なくて、ごめんやで。結婚式を絶対たのしくする自信だけはあるから、待っててほしい。忘れんといて。頼む。
年甲斐もなく、店員さんに声の大きさを注意されるほど盛りあがる中で、ふと引っ掛かった言葉があった。
「すず、たまにSNSから消えるもんな」
そうなのだ。わたしは、自分の「ことば」を紡げなくなる時がある。
社会人になってから数回、いわゆる「見る専」の時期があった。徐々に更新頻度が落ちて、パタリと止まると、友人から生存確認の連絡が入ってくる。それまでに、友人たちで連絡を取り合ってくれてることもあるらしい。ありがたいけど、迷惑かけてるよなあ。
「言葉の企画」に参画して半分が過ぎて、ずっと考えてきたこと。
自分の「ことば」って何だろう。
わたしは何を目指して、鍛錬しているのだろう。
今必要な気がして、「ことば」を紡げなくなる状態を言語化してみることにした。(二人が聴いてくれたおかげです。ありがとう。)
相手のモノサシに寄りすぎた「ことば」
「仕事めっちゃ忙しくなると、プライベート0にしてしまうねんなあ」
返事しても返事しても溜まっていくメール、LINE。調整、調整、調整。
誰かの一言、表情が気になる。
正解を探して、少しでもイメージ通りに進まないと納得できずに、過剰にストレスを感じてしまう。
寝る時間も食べる時間も(ほとんど食べなくなるけど)、頭の中でずっと「ことば」を紡いでいる。
誰かを納得させるためだけの「ことば」を。
休みの日は疲れきって、泥のように眠って、目を開けたら、また連絡連絡連絡。
「自分の感じたこと」の優先順位はどんどん下がっていって、見失ってしまう。
相手が喜ぶ「ことば」。
相手が必要としている「ことば」。
それだけに意識を集中しないと、全てをこなすことができない。
大量生産の工場の中で、どんどんどんどん無機質な何かを吐き出す機械になっている自分が、嫌で仕方なくなってしまう。
スピードも量も、誰かに決められていて(今思えば、他人のせいにして自分で決めてなかっただけだと分かるのだけれど)、全く愛せないものを生み出している虚無感。
「相手」の比重が最大化した時、わたしはわたしを消してしまう。
気づいたときには、呟くことも写真を撮ることもなくなってしまっていたのだった。
すべてを「嘘」のように感じるとき
今までのわたしは「頑張っていないとたってられない病」だったとおもう。
休むのが苦手。予定を詰め込みまくって、誘われたら断れない。
もうどうしてもベッドから起き上がれないという状態で初めて、頑張れたかなあと感じられた。
大学時代、「すずは止まったら死ぬマグロ」と言われた時期もあった。
関わる人たち全方位に「いい顔をしたい」から、タチが悪いのだ。
いい意味で適当に、無理なく付き合っていれば問題ないものの、初めからダッシュしてしまうから、途中で息切れする。
期待に応えられない、やると決めたことを手放さざるを得ない、ということがよく起こった。
あたらしいことを始めるとき、いつも爆弾のような不安を抱えている。この数ヶ月をかけて、そこに向き合ってみて、ようやく奥底にある感情を見つめられた。
どれもこれも、自分でありのままの自分を認めてあげられていないからだった。
だから「誰かに頑張ってるね」と言われたい。「頑張り」でだけは、誰かに負けたくない。他人の期待に応えることを最優先にしてしまう。
それ良いように使われてるだけやで、という友人の忠告の意味が、やっとやっと分かった。(今まで理解はできても実感できてなくて、だから何度も言わせてごめん。)
自分で自分を認めていないときに、自分の「ことば」を発するなどできない。
たとえ何か伝えたいことがあっても、「こんなわたしに何か言う資格はない」「こんなこと言って、あれが出来なかったら筋が通らない」と、マイナスのループが始まって、自信が壊滅する。
ちょうど一年前の春も、そんな状態だった。そして、この文章に出逢った。
阿部さんのnoteを読んで痛いくらいに湧き上がってきた気持ち「自分を信じてあげたい」。
それは今も変わっていなくて、だから途中何度も挫けそうになっているけれど、なんとか歩みを進められているのかなとおもう。
「ことば」の居場所はどこだろう
今のわたしは、人と人をつなぐのが「ことば」だとおもっている。
あなたとわたしの真ん中。
ちょうど良い「間」に置かれた「ことば」は心地よい。
差しだす感覚。
受けとる方も自分の意志で手を伸ばすことができる距離感。
その感覚を掴みたくて、沁みこませたくて、日々「ことば」を紡ぎ、人と関わっているのだとおもった。
この数月間、いろんな人の「ことば」に対する思考に触れてきて、どうすれば「ことば」を人の間に置けるのか、について考えた。
誰も傷つけない「ことば」は、本当に誰にも届かないのだろうか。
わたしは、人を傷つけたくない。
だって、散々傷つけてきたし、傷つけられてきたから。
「ことば」の力って、なんだろう。
強くなりたい、という切実な気持ちは?
みんなの感動メモやnoteにハッとして、考えるヒントをもらいながら、ときに一緒に話をしてもらいながら、でもまだ、すっきりしない気持ちを抱えている。
「何を言うか」から相手を想うこと
言葉の企画の第三回の講義で、伝わった企画書や「ことば」を生みだした企画生のインタビューがあった。
共通していたのは、誰かとその人の物語を感じられること。
誰かを想う気持ちは、きっと人に共通することで、共感も感動もする。
伝えるときのポイントは、いかにそれを素直に表現できるかだとおもった。
1) 自分自身の奥底にまで向き合っていること。
2) 向き合って見つけた想いを離れて見て、どこに光を当てるかを決めること。
3) どう表現するか、相手との文脈を踏まえて考え抜くこと。
4) どう見られるか、どう見ているか。時代を常に意識すること。
「何を言うか。どう言うか。」大学時代に先輩から教わった、キャチコピーを考える際の2段階の思考法が好きだ。
ハッとしたのは、「何を言うか」から相手の存在が大きく影響すること。
自分が感動しても、相手も感動するとは限らない。
自分が嫌だとおもっても、相手が嫌だと感じるとは限らない。
わたしの「ことば」は、投げつけるまでではなくとも、まだ放り投げてる感じが残っているよなあ。
何のために、どんなゴール(矢印の先)を目指して、伝えるのか。その前提から、相手を想うということなのかもしれない。
なかなか「後編」が書けないでいる数週間、阿部さんのあるnoteに出逢った。
「間(あいだ)」に立ち続ける決意と覚悟。
弱さと握手して挑んだ先に、わたしや多くの人が救われたり、背中を押してもらったりしている阿部さんの「ことば」がある。
そのつながりを実感したとき、ああ、今の悩みにもきっと意味があるんだとおもった。
同時に、おなじく悩みを吐露している企画生の仲間たちに「それはあなただけの弱さ」だから大切にしてもらえたら嬉しいな、とおもった。
それは本当に”書く”ことなのか
わたしが、書くときに特に怖いと感じるのは、身近な誰かを傷つけないかということ。
学生時代に実際にしてしまって、相手はもちろん、自分もものすごく傷ついたからだ。
読んでくれるだろう見知らぬ人だけを想像して、まさか読まれるとおもっていなかった身近な人の存在を無視してしまっていた。
その恐怖感を、ずっと持っていて。
書くか、書かないか。
その基準は何だろうと考えてきた。
わたしの大好きなアートディレクターの森本千絵さんは、学生時代に聴いた講演で「小学校のクラスを思い浮かべる」とおっしゃっていた。
クラスメイト全員の気持ちを想像して、誰も傷つくことがないか確かめる、と。
それからわたしも、同じように意識してきた。それでも、まだ怖さは拭えない。
書いたものは、残る。言う「ことば」よりも、ある意味センシティブだとおもうから。
最近、わたしは一つの新しい基準をつくった。
もし、大切な人に「書いてほしくない」と言われたとき、それでも書くか。
実際に「書かないでほしいこと」を身近な人から言われたとき、ハッとした。「分かった。書かない」と言えることは、書くべきことではないのかもしれないとおもったのだ。
光の当て方を変えて、他の方法で伝えるべきことなのではないかと。
誰かを想って、何かのために、どうしても書きたいことなら。そう言われても「こう書きたい」と主張するし、何とか分かってもらおうと何度でも話をするだろう。
この基準が完璧だとはおもわないし、それでも傷つけてしまうとおもうのだけれど。そんなときに、素直に謝って、関係性の修復に向き合えるような自分でありたい。
だから、これからもずっと考え続けるのだとおもう。
わたしは、ことばを「間」に置けるようになりたい。
相手が必要なときに、自ら手にとれるような余白を残して、差し出すように紡ぎたい。
だから、残り半分の「言葉の企画」にも、自分たちの企画にも、わたしのペースで向き合っていきたい。
書きはじめてたら、まるで2回目の決意表明のようになっちゃった(笑)すぐ揺らいでしまうんだから、何度もことばにしよう。
もし、また書けない日がやってきても「やあ、ひさしぶり」と言えたらいいなあ。
長い旅路にお付き合いいただき、本当にありがとうございます。
引きつづき、どうぞよろしくお願いします!
photo by 写ルンです│
豊岡のフルーツパーラーで食べた、ちいさなベリーのパフェ。こんな佇まいの「ことば」が憧れで、魅力的だなあ。
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