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「仮の人生」を生きてきたと気がついた話  *今を生きるということ

ヴィクトール・フランクルと言えば,「それでも人生にイエスと言う」という言葉で有名だ。


今日,講演会を聞いていて,ヴィクトール・フランクルのエピソードが紹介されていて,最近の自分についてものすごく腑に落ちたことがあったので,記録しておこうと思う。

そのエピソードとは,収容所の中で「これは仮の人生で,収容所を出られたら元の本当の人生に戻る」と考えていた人と,「今この瞬間も本当の自分の人生だ」と考えていた人とでは,「収容所にいる今この瞬間も自分の人生だ」と考えていた人の方が,生還率が高かった,という話だ。

私はこれを聞いていて,ここ数年の自分の「なんか本当の人生じゃない」「いつか戻る」と感じていた感覚をリアルに意識し,ここ数年,目の前の今の人生を生きていなかった,と,めちゃくちゃ,ハッとしたのだ。

私がこの言葉に「おおおお!」となったわけ

ちょっと説明が必要だと思う。
私は,ちょうどコロナが流行り始めた3年前の春に,一旦職場を離れて大学院に入学した。すぐにコロナでリモート授業に。隔離された生活が半年続いた。飲み会もなかったし,社会人として現役院生との距離も教員との距離もなんか遠いままだった。そのあたりのエピソードはnoteの記事に書いている。

それまで,仕事がめちゃくちゃ忙しくて,すっごく大変だったけど,すごく楽しくて充実していた。けど,一気に時間を持て余した。
同時に,大学院生活は2年間限定で,学生時代が終わったら職場に戻ることが決められていた。私にとっては「かりそめの時間」でもあった。

それまでの職場を離れただけでなく,コロナになったことで,私の人間関係は一変した。元の職場の人や友達とはなかなか会えない。かといって,新しい人間関係もコロナで充分に築けない。
そんなまま,2年間が過ぎた。

昨年春に職場に戻ると,そこは元の職場ではなかった。人も7割くらい入れ替わり,コロナで一気に仕事のスタイルが変わっていた。
戸惑いながら馴染むのに必死だったけど,夏頃に異動の打診があった。
ここで人間関係を作っても,異動しちゃうんだなぁ・・・そんなことを思っていたから,やっぱりここでも「かりそめの生活」の意識が続いた。

結局,この春に異動した。
気がついたら3年前とは全く違う人間関係の中にいる。


おかえり。自分。


なんだか私の中で,しっかりと「生きていた!!」実感があったのは,やっぱりコロナ前だった。息切れするくらい楽しかった。
だから。
ずっと,”コロナ明け”を楽しみにしていた。
そしたら,元に戻る気がしていた。「元の本当の生活」に。

でも,そうではなかった。

私はずっと「コロナ」の生活は「仮の人生」と感じてきた
その間も,間違いなく私の「本当の人生」だったのに。
こんなはずじゃない,と思って,「元の生活」を見つめて生きてきた。

でも,

それは過ぎ去ってしまった,「過去」

なのだ。

こんな単純なことに気がつかないでここ数年生きてきた。
なんか,いつも「ここじゃない」「いつか本当の自分の生活に戻れるはず」とどこかで感じていて,周囲の人たちときちんと関われなかったし,目の前を生きられていなかった。

このことに気がついて本当に「目から鱗」だった。
そりゃ,苦しかったわけだ。

当たり前だけど,「元に戻る」わけでもないし,「かりそめの生活」でもない。
いつ,どの瞬間も,間違いなく自分の人生なのだ。

ようやく私は,自分の人生を取り戻せそうだ。こんなの,私だけかもしれない。
ちょっと笑っちゃうけど。
「おかえり。自分。」


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