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インタビュー調査の分析入門〜新世代のインタビューに必要な革命的認識

人間は形あるものに囚われ、固定観念に陥ります。インタビュー調査や定性調査というものには手垢のついた固定観念がこびりついており、それが品質向上の妨げになっているのです。

その一つが、意識マトリクス理論でその問題を明らかにした「インタビュー」とは「アスキング」=「質疑応答・一問一答」であるという固定観念です。行われなければならないのは「アクティブリスニング」=「傾聴」です。「傾聴」とは「行儀よく聞いている」という程度にしか認識されていませんが、そうではなく、対象者の興味・関心に対して、最大限の興味・関心をもって話を聴かせていただく、ということです。聞きたいことを訊くのではなく、話したいことを話してもらうのです。そのためにNEC法でリクルートを行い、話したいことが聴きたいことである人を選別するわけです。

また、「意見聴取」であるという固定観念もクオリティを高めない大きな要因です。聴取されなければならないのは意見ではなく、ナラティブ=生活体験です。

グループインタビューにおいてはホイール型の進行が固定観念です。偶然ではなく必然として完全連結型の進行を行うことで情報量が圧倒的に異なってくるわけです。

インタビューフローについても、多くの例で目にされている質問項目の列記式ではアスキングになってしまうわけです。

発言の分類を分析と称しているというのも同様です。それでは発見は生まれません。

このような問題は今までに繰り返し指摘してきました。つまり、現在一般的に行われている、FGIやIDIと呼ばれているインタビューには多くの欠陥があるわけです。しかし、それを言い出すと自分の首が絞まるので、私のようなテロリストでなければ(笑)業界関係者はそれを決して言い出さないわけです。しかし、決して口に出しては言えないホンネでは、上手く行かないと思っているからこそ「エスノ」だの「MROC」だのと目先の変わった新手法に「逃げる」のではないかと私は批判的に見ています。しかし、エスノであろうがMROCであろうがS/C領域に侵入することが行われている限り、期待された成果は出せないでしょう。あるいはNEC法のように客観的に見て「話したい人・話せる人」を呼ぶという合理的なリクルートが行われていない場合も同様です。例えばエスノと称しているホームビジットの訪問先でリサーチャーが「アスキング型」のフローによって対象者が意識もしたようなことのないことを質問責めにしているのなら、ただ対象者のお宅で場所を変えてアスキングをしているだけです。

それらは本稿にて述べているような調査に対しての固定観念が引き起こすものであって、手法によって解決する問題ではないのです。インタビューに対しての考え方を根本的に変え、それらをアクティブリスニングの原理で実施すれば、どの手法においても圧倒的な成果の違いがでてくるでしょう。その意味で、「アクティブリスニング」というのは手法ではなくもはや「原理」とか「哲学」と言ってよいわけです。

それは、インタビュー調査の考え方における「革命」なのです。

さて、分析において、特に要素化と構造化において盲点となりがちな固定観念について触れておきたいと思います。これも、一般的な分析の考え方をひっくり返すようなことになります。

今一度、「魔法の鏡」として紹介した「脳梁マーケティング」の概念について触れておきますが、これは、対象者の「言葉」を通して、対象者の生活情景をイメージし、それをさらに言語化するという作業です。

この作業を分析観点のイメージで表現すると下図のようになります。ここで重要なのは、AさんからFさんのそれぞれが話した彼らの具体化された生活体験には、それぞれに、大文字から小文字の流れ、論理があるはずです。しかし、魔法の鏡に映す像は、その個別の対象者の像ではなく、市場全体の像であるということです。それは、OからTの大文字、小文字の各要素が、人紐づきではなく、市場にある各種の現象とその要因であるという見方をするということなのです。そこにおいてはもはやそれを誰が言ったのか、ということではなく、個別のバラバラの現象としてしか見ない、ということなのです。

それこそが、「要素化」なのです。

マーケティングリサーチとは結局、各個人を個別に見ていても答えが出せるものではありません。なぜならば我々が相手にしているのは、その各個人ではなくて市場だからです。そして、定性調査においては、統計的な処理ができない有意抽出で、統計処理ができない小人数を対象にしているからこそ、その各人の特徴を記述したところで意味がないわけです。なぜならばそうすると、その調査においては「こんな人がいた」という「状態」の記述に留まってしまうからなのです。するとその人がマジョリティなのかマイノリティであるのかが常に議論になってしまうわけです。それは定性調査においてはナンセンスな議論なのですが、そもそもが、各人の各種特徴を各人の紐付きで記述するからそうなってしまうわけです。

一方、各個人の発言を魔法の鏡に映して、その各種要素を取り出すのだと考えると話が変わってきます。発言者の枠に縛られずその各種要素の関係を考えることにより、市場で起きている現象の「構造化」ができるからです。その各種要素は、この調査ではたまたまその人から出たものであるのだけれども、それは市場に存在するものなのであって、市場を見る観点では、特にその人に紐づける意味はないわけです。

すると、各人の特徴ではなく「こういう論理(因果関係や葛藤関係など)でこのような現象が発生しているのだ、という動的な見方ができるようになるわけです。

この構造化を行うと、それこそが「群盲象を評す」のように、全体での大きな市場メカニズムの中で、各個人がその体験の中で見たり感じたりした部分の要素を話していたのだといったことが見えてきます。逆の言い方をすると、それぞれの話したことが補い合って、全体のメカニズムが見えてくるということです、また、その個人が思っていた因果の論理は実は逆であったとか、中間の要素が抜けていたとか、関係ないと思っていた要素が実は関係があるとか、そういった発見もでてくるわけです。例えば、「高いから買わない」と話されたことは実は「買う気が無いから高いと感じる」であったということがわかったりするわけです。つまり値段を下げてもそもそも買う気がないのです。

その要素は誰の発言であったか、という「分類」を行っている限り、そのような大きな市場のメカニズムは見えてこないでしょう。

それは下図の下部の「顕在領域」の話です。上部の「潜在領域」の構造は見えないということです。そして下部の顕在領域だけを見ていた場合には、各人別とか、ポジネガ別という「分類」しかできないわけです。「分類」すると常に「ボリューム」が問題になりますから、定性調査でそれを行うのはナンセンスだというのが上で述べたことです。

さて、要素化、構造化の時点ですでに「推測」の作業は行われているわけですが、「統合化」の段階では、さらに、現在市場で起きている現象の背後に隠れている共通因子とでも呼べるものを抽出していくわけです。例えば、異なった態度の背景にある共通の潜在ニーズといったものがそれに該当します。それに対して、潜在している各種の要因がどのように作用すると態度が変わるのかということを明らかにすることも該当します。それは構造化が終わった時点で、さらにそこからインサイトをしていくという作業が必要になるわけです。「分類」レベルの情報からいきなりそれを行うのには無理が生じるわけです。

この「個人観点ではなく、市場観点で各種要素を抽出して要素化、構造化する」という考え方は、梅澤先生はグループインタビューの分析においては、「グループ全体を一人の人間として考える」という非常に哲学的な言い方をされています。それは、たまたま集まった数人の中ではたまたま正反対の態度の二人なのだけれども、その態度は、背景にある要因の作用の仕方が変わっただけで容易に逆転しうるということです。つまり同じ一人の人間でも、そのおかれた環境、状況が異なると、その態度は変わって然るべきだという当然のことなのですが、人間、誰かが言ったことは誰かの言ったことだと、そこから発想が抜けられないわけです。しかし、マーケティングとは、要は買わなかった人が買うようになるということですから、その見方=買わない人と買う人の比較、では市場は変えられないわけです。

つまりは、マーケティングとは「人は変わる・変えられる」という「無常観」に立っていないと成立しないし、インタビューの分析においても、そのメカニズムを動的に捉えられないと意味がないということなのです。

こう言うと「人は変わらない」と反論する人がおられると思います。確かに人の根っこの部分は容易に変わるものではありません。それはそれで我々の調査で解き明かすことが可能です。

しかし、マーケティングなんてのは所詮、「買うか、買わないか」ということを問題にしているのです。その構造が見えないと、いくら深層の普遍の真理を解き明かそうが、マーケティングの役には立ちません。




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