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魔法の鏡〜「脳梁マーケティング」


「魔法の鏡を持っていたら、あなたのくらし映してみたい」
(「魔法の鏡」:荒井由実作詞)

「魔法の鏡」は昭和のニューミュージック界を席巻したユーミンこと荒井由実のヒットソングなのですが、最近の若い人に言っても知らないことがオジサンにはショックでした。昔はそれこそ、ラジカセ、カーステ、ウォークマンで聴いたものです。

さて、前回は「行動」を見ることでニーズがわかるという話でした。「行動を見る」というと「観察」が基本だということになります。確かに、本田氏達のやったことは「観察」でした。しかし、「観察」ということになると、まず、その行動が行われている現場に行かなければなりません。実験室の中で観察するという方法もありますが、そうなるともはや実生活とは遊離、分断された行動となっている可能性があります。つまり生活工学ではなくなるわけです。

また、とにかく現場に行ったとしてもそのタイミングでヒントとなるような行動に出くわすともかぎりません。何よりも、何らかの仮説が無ければ、いったい何に着眼して観察すればよいのかということが行き当たりばったりです。

例えば、洗剤の開発の為のホームビジットとかエスノグラフィー調査と言われるような観察調査において、洗濯機周りの行動しか観察しなければ、部屋干しや取り込むときに臭いが気になっているとか、衣更えのときに色あせや傷みが気になっているとかの事実が発見されません。しかしそもそも、何らかの仮説がないと衣更えを観察しようという動機もアイデアも生まれません。その結果、部屋干し臭をなくす洗剤とか、衣類のアンチエイジングをする洗剤という商品のアイデアも生まれないわけです。

したがって、相当数を長時間をかけて観察しないと成果が偶然にしか得られないということになります。つまり、着眼点に関する何らかの仮説がない限りは非常に効率が悪い方法だということになるわけです。一方、本田氏たちが志向したような独創的新商品の開発においては明確な仮説もない手探りの状況であることが多いわけです。

マーケティングというのは収益が最終目的であるわけですから、調査の手段が非効率であってはなりません。短時間に無駄なく有効な情報を多数得なければならないのです。サラリーマンならなおさらです。天才創業者たちは何を見てもヒントにしてしまうのかもしれませんが、凡夫の身ではそうもいきません。そこには何らかの問題意識というか、フレームというか、パラダイムというかが必要なのです。

改めてこのように考えてみるとインタビュー調査には他の定性調査手法にはない以下のような非常に優れた点があります。

1、様々な体験を持つ対象者を集めることで、多様な「生活現場」の情報を一か所に集約できる。つまり「空間」を超える
2、それぞれの対象者の過去から現在までの「生活体験」を調査時間内に集約できる。つまり「時間」を超える
3、調査の目的に応える対象者に調査の目的に応える話をしてもらうことで、調査の目的に応える情報に絞って集中的に収集できる。つまり、目的適合性が高い

これらは当然至極なのですが見落とされがちなことです。

一方、「観察」という観点から言うとインタビュー調査には課題もあります。それは「言葉」を介することで、得られる情報から生活現場のリアリティ、ディティールが失われがちだということです。これは対象者の記憶力や表現力などによることですが、それによって特定の体験が抽象化されたり一般化されたり省略されたりして表現されてしまいがちなのです。つまり、いかに具体的に話してもらえるかということが課題なのです。

たとえば、「キムタクはカッコいいから好き」と言った場合、なるほどカッコいいなということくらいまではわかりますが、そのカッコ良さとはどこから来ているのかとか、どのようなカッコ良さなのかということは実のところ不明です。それが実はわかっていないのにわかったと思い込んでいることがあるということです。外見のカッコよさを言ってると一人合点しても、対象者は実は彼のある行為を想起して生き方や価値観をカッコ良いと言っているようなことがあります。しかしキムタクがカッコいいと思ったまさにその刹那の生活体験や前後の物語が聴取できていないとそこまでの理解はできないわけです。

また、対象者の「意識」を介することで、話される体験は必ず対象者の主観を通したものになります。つまり、客観的事実とは言えないということです。しかしそれ自体は問題とは言えません。マーケティングとは結局、顧客の主観に依存するものだからであり、マーケティングリサーチとはその顧客の主観を把握するものであるからです。問題なのは、主観によって体験が都合よく再構成されたり、時系列ではなく印象の強い部分から話が始まったり、物事の因果がすり替わったりすることです。例えば、「おいしくないから買わなくなった」と言った場合、本当はトライアル購入当時はおいしいと感じたし今もそれだけを食べているとおいしいのだけれども、たまたま競合品を食べたらそちらの味が気に入ったことをそのように表現している、というようなことがあります。これは正確には「買わないほどまずいわけではなくおいしいのだけれども、今はほかの商品の味のほうが気に入っているので最近は買う機会が減っている」というのが正確なところです。しかし、それを「おいしくないから買わなくなった」と端折っているわけです。このような場合、自分が言ったことですから「おいしくないから買わないんですね」とインタビュアーから確認されても対象者は「そうだ」と答えてしまうに違いありません。ご自分の体験を思い出すと、職場や学校や家庭などでそんな話し方をしている場面が必ず思い浮かぶと思います。生活者にとってはそのようなストーリーや因果関係を明確に意識や表現しなくても、おいしいものを食べることができれば良いわけです。

梅澤先生と並ぶ私の恩師である油谷遵先生はこれを「粗雑な合理化」(油谷、1984、『マーケティング・サイコロジィ』、弓立社)と呼んでいますが、要は対象者の主観的な発言から事実を見抜くことが課題であるということです。

これは、「言葉を媒介に対象者の生活を具体的にイメージ化する」ということです。言葉という「魔法の鏡」に対象者の生活を映してみるわけです。これは対象者の生活を魔法の鏡を介して間接的に観察しているようなイメージなので私は「間接観察」と呼んでいます。間接観察ができると、インタビュー調査は言葉と行動、あるいは意識と事実の壁も超えることになります。「空間(3次元)」に加えて「時間」、「意識と事実」の壁も超えるのでインタビュー調査は「5次元をカバーする手法」であると言えるわけです。

この事例として思い出されるのは、私が駆け出しのころ初めてインタビュアーをした健康器具のニーズ探索目的のグループインタビューです。バブル崩壊の直後だったのですが、次は自分がリストラされる不安におののきながら部下のリストラを行っているような中年の中間管理職の人たちが対象者でした。なのに彼らは一様に「自分たちには健康器具を使うような問題もニーズもない」と強く主張しながら、「ストレス解消や疲労回復はスポーツで行いたい」ということを言っていました。発言された具体的体験は「スポーツが好きなので、ジョギングシューズとスポーツウエアを買った」、「休みの日は朝からスポーツウエアを着用して過ごしている」、「スポーツは見るのも好きなので、休みの日は朝からゴルフや野球の中継を見て過ごしている」、「疲れてはおらず、毎日長時間残業、休日出勤」、「ドリンク剤は飲んだこともあるけど砂糖水みたいなものとしか感じなかった」などなどで、最後には「私たちを健康器具のターゲットにするのは間違ってますよ」という発言まで飛び出したものでした。これで駆け出しの私は頭を抱えて七転八倒することになったのですが、その挙句に気が付いたのは、この人達が実際にスポーツをしている情景はその中にはないということであり、代わりにイメージされたのが「たまの休日に疲れて朝からジャージを着てテレビの前で栄養ドリンクを飲みながらゴロゴロしているオッサン」の姿でした。本当は心身ともに非常に疲れているのだけれども、そう言ってしまうことによって自分の社会的ステータスが下がること、すなわち雇用の継続可能性が下がってしまうことに大きな不安を抱えているからこそ、「取りたい深刻な疲れはあるが健康器具にお世話になるような人間だとは見られたくない」、というのが隠されたホンネのニーズだというのが結論でした。これは相当に深層にあるニーズなので、本人達ですら自覚はしていないのですが、そう考えると2時間で聴取された6人の言動が例外なくすべてつじつまが合ったのです。「スポーツが好き」、「疲れてなどいない」、「健康器具など不要だ」、「バリバリ働いている」という言動は、すべて無意識のうちにも自分のステータスを維持するためのものであったわけです。スポーツ以外の疲労回復手段としては「クラシック音楽を聴くのが良い」とか「お香を焚いたり抹茶を飲むのが良い」といったことも表明されていましたが、これを発言した人は実は3LDKのアパートに家族4人住まいであり、これも実際にはその情景はなくステータスを別の形で求めている発言だと解釈できました。

しかしそもそも栄養ドリンクを飲むのは疲れているからに違いありませんし、それが効かないというのは相当に疲れているからだとも考えられます。またステータスが問題にならない温泉や銭湯ではここぞとばかりにマッサージを楽しむという行動もありました。疲れていないのならそれも不要です。

つまり、この人たちにおいては疲労回復ニーズがステータスニーズと葛藤し阻害されているということであり、疲労回復ニーズとステータスニーズが両立する商品・サービスを提供すればよいというのがマーケティングに対しての提言となったわけです。事実その後の市場はそのように動きました。

この事例で私が得た学びは、言葉を真にうけるのではなく、言葉とイメージを橋渡しして、その人たちの生活を統合的に理解することが必要だということです。言語脳が左脳であり、イメージ脳が右脳であるとすると、その両者を橋渡しする脳機能が必要だということになります。その働きをしているのが、両者を橋渡しする「脳梁」と呼ばれる部分です。マーケターやリサーチャーは「間接観察」ができるようになるために、この脳梁を鍛える必要があります。

このように言葉とイメージを橋渡ししながら間接観察を通じて生活者の理解を深めていくことを私は「脳梁マーケティング」と命名しています。

「脳梁マーケティング」においては「観察」という方法の優位性と、「インタビュー」という方法の優位性というのは対立するものではなくなり、対象者の体験をできるだけ具体的に話してもらえるようにしながら、その主観的な発言内容から事実を見抜く、即ち、想像することによって、両立できるということになります。

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