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この社会の安全を諦めない【理想的な安全な国づくり#2】

こんにちは、Studio Topiaです!
私たちは理想郷を本気で「想像」「創造」するサークルと称し、毎月テーマを決めて語り合い、議事録をアップロードしています。
ぱっと聞いただけでは「?」かもしれませんので、どうぞ是非、自己紹介をご一読いただきたいです。
(常連さんは、いつもありがとうございます!)

Studio Topia 10月
第2回「この社会の安全を諦めない」

StudioTopiaでは、10月は「理想の安全な国づくり」について、話を深めていきました。

是非コンセプトについて記載している前回の記事も読んでいただければと思います。

さて、国際情勢や、国内で増える突発的な強行事件などから、もはや「安全」とは言い難くなっている日本社会。
辞書上の定義では、「安全」とは「リスクをコントロールできている状態」のこと。「国」が主体的にリスクをコントロールしにくくなった状況ということから、改めて、「安全な国」となる方法を考えるに至りました。
以下、議事録になります。

第1回:日本人は「安全ボケ」なのか?

第1回目は、自分達の身の回りから。
「日本は安全な国か?」について再考してみました。

その中で出てきたのは、日本は「相対的に安全な国」という言葉。
街中の至る所に自動販売機がある、電車で何も考えずに眠ることができる、などが安全の証拠、とはよく言われる話でもあります。スペインに行ったことのある参加者からは、「スペインでは信号機が守られていなかった」という目撃体験をもとに、「その時と比べて、日本は安全だと思った」という視点も共有されました。
安全の基準は国ごとによって違うものの、例えば銃規制が徹底されている点など、確かに日本は世界の平均に比べては安全そうではあります。

とはいえ、自然災害の発生確率、とくに地震の発生件数に対しては他国より多いという点も指摘されました。
「絶対的に安全、というわけではない」という発言がされました。

それも踏まえ、日本人の「安全ボケ」「平和ボケ」について、セキュリティに十分気を付けている人も多く、「安全に対して、単純に基準が違うだけでは?」という言葉も。テロや紛争面に関しての「安全」が語られることが多いですが、それ以外も考慮しなくては「安全」を捉え切れないことをあらためて確認しました。

また、これに伴って日本の軍事力に関しても話が振られました。
日本が「軍」あるいは「攻撃のための戦闘力」を持つべきかどうかについては、「持つことのリスクも考える必要がある」「今更持って、他国から批判を受けるのではないか、ただ、ある程度軍事力を持つのは必要ではないか」という意見も出されました。

軍事力に関しては、教育も大きな影響という話になりました。
「日本は安全」「非核三原則を絶対に守り抜く」といった教育を幼い頃から受けてきて、日本を安全かどうか考えるきっかけはなかったのではないか、ということでした。

第2回:その安全は誰かの安全ではない

第2回では、日本国内の話にフォーカスを当てていきました。
話されたのは主に「同じ状況でも安全を感じられるかどうかは、人や場合によって違う」という話です。

始め性暴力、性被害について話が広がっていきました。
多くの場合「女性と男性」という2軸が設定され、特に女性の被害が多くなっています。そうすると、同じ状況に対して、男性と女性では感じ方が全く違い、例えば同じ夜道を歩くにしても、男性と女性では感じる危機感が違ってきますね。
そうした時に、必要なのは、弱い立場に回ってしまう人が、その時に安全でいられるようにすること、何よりそれを想定できることです。

また、女性↔︎男性間のみならず、女性間、男性間においてもその違いは現れますし、性暴力にも限りません。
例えば、状況によって違うということもあり得ます。
最近では電車内等での凶行にも注目が当てられています。冒頭で「日本では電車で眠れるほど安全である」と書きましたが、そうはいかなくなっている現状。
電車に乗っている時の「安全」、 リスクコントロールは、過去と今、今とこれからでは大きく違ってくるかもしれません。

つまるところ、安全を感じられるかは立場によって違う、ということです。
誰かの安全が、誰かにとっては安全ではない。その時に、国民全てを満たす「安全な国づくり」というのはとても難しくなります。誰もが「安全」でいられるよう、常にドローンで監視、少しでも怪しければ拘束、、というのも考えられなくはないですが、今度それはそれで、誰もが見張られている気になって嫌だ、というのが人間心でしょうか。あるいは、秩序を守らせる警察的立場や、これからの時代でいうと機械が暴走する可能性を考えれば、「絶対的権力」は全く安全ではない…ということも指摘できます。
会では常に国民の多数決をとりながら調整しながら進めていくべきであるという声も出ましたが、皆さんはどう思いますか。

第3回:秩序と安全

すこし抽象化して、国家権力、警察や法律に焦点が当たったのが第3回。
自分達が権力を持ち、支配する側だったら、どう「安全な国」を作るか、という点についても話しました。
「完璧に監視をして、秩序を守らなければ戒め/懲らしめて、ガチガチにして、安全を崩させないようにする」という完全監視タイプの意見、「人間の習性に従って、150人程度の集団をつくり、その中で生活することで争いを引き起こさない」という生物学的習性に則った意見、「全ての人が幸福で豊かであれば、少なくとも安全を乱そうという人はいない」という予防型の意見などが出されていきました。

そして、国民という、「支配される側」、「秩序を守る側」についても話が及びました。
これまでの回と同様、「完璧な安全」を絶対的権力によって作り上げる社会では、自分が安全に守られることよりも、自分へもその矛先が向けられてしまう不安感が勝つ、ということで、否定的な意見が出されました(警察もある種その一部であるという指摘もされました)。
警察にしても、法律にしても、ただ存在すればいい、順守すればいいというものでもなく、「安全」と「自由」のバランスも非常に重要になってきます。

第4回:安全≠平等、一人ひとりのための安全を。

最終回で話題になったのは、その「守る側」の中で、「基準から外れてしまう存在」について。ひいては、秩序定めを越えたり、「安全と自由」を崩してしまう存在です。

最初に話されたのは、カンニングの話。
一見安全とは関係ないようにも思えますが、「カンニング」とは、秩序を乱す行為であり、大きく見れば「社会の安全」を乱す存在ともいえなくありません(少々大袈裟ですが)。
これもまた、ガチガチに秩序立てて、少しでも怪しい行動が見受けられれば即拘束、にするのか、ある程度自由の余地を持たせて、真面目にテストを受ける人が作り出す評価基準へのフリーライドをも許容するか、という選択になります。真っ当に真面目にやっている人が馬鹿を見るようになってしまうのもどうかということで、自主的に秩序を守ろうとする「善人」がより良い目を見れるような社会にしていく(=そうなることを推奨し、奨励する)ことも重要であるという話になりました。

とはいえ、全ての人が「善人」たれるか、というのもあります。
先ほどカンニングの例を挙げましたが、多くの人が実は経験していたり(!?)、あるいは見逃していたりという経験があるのではないでしょうか。また、「気づいたらカンニングしてしまう人」「したくないけどしてしまう人」もいるかもしれません。
カンニングは一例ですが、犯罪にしても何にしても、特定の基準を定め切ればそこからあぶれる人が出てきたり、フリーライドする人が生まれてきます。大勢の安全を求めて世の中の異質な存在を排除すればするほど、その人にとっての安全は侵害されますし、また、残った世界の中で新たな異質な存在も生まれていくでしょう。そして、異質とされた人は、どんどん追い詰められていった結果、安全を乱す意思を持って行動してしまう可能性もあります。
一人一人を尊重するという意味でも、結果として安全を果たすという意味でも、誰もに適用される「秩序」を作らず、逆転の発想で、それぞれに守れるレベルの秩序を用意し、適用していく、全ての人が善人として存在できる社会を作り上げていく、という発想もされました。

まとめ

今回は、「理想的な安全な国づくり」について、1ヶ月を通して考えてきました。とくに国内統治について話が及びましたが、全4回を通して、「安全であること」と「秩序立てること」、「支配する側」と「される側」の両面のバランスを常に感じ続けることになりました。
安全=リスクをコントロールすること、ですので、国家単位で安全を確保しようとすれば徹底監視が最も効率良さそうですが、一歩間違えれば国民の安全を脅かしまくる危険となるというもの。効率ばかりを追い求めてもいけませんね。「自由」や「幸福」、あるいは個人ごとに「安全」は変わってくることを忘れずに、リスクに対処していく必要がありそうです。
また、世界情勢についても今一度考えるきっかけになりました。
20代前半の私たちは、「世界は平和となりつつある」「これからも平和を目指して発展していく途上にある」という教育を受けてきた世代ではないでしょうか。オバマ元大統領の「核なき世界」は2009年でしたが、いま世界は、その反対側へと進んでいっているようです。
綺麗事は真っ先に排除されていきますが、こんな時こそ理想を忘れてもいけません。
一人一人の安全を基準として、追求し続けようとすること。国内においても、国際社会においても、大事なことだと言えそうです。

編集後記

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

初めは日本や世界情勢から始まり、抽象的なところも話して、最終的には国家も踏まえながら個人レベルにまとまっていった議論でしたが、いかがだったでしょうか。

「安全」というのは目には見えず、また、「安心」とは違って、気持ちの上で納得していれば良いというものでもないので、その実態を捉えるところから多少苦労したという感じはします。
とはいえ、これからの社会を考える上で、また、国づくり、という観点から考えた際に、「安全」という客観的な視点は重要になってきます。

立場によって違う「安全」のあり方を、模索し続ける必要があるのだと思います。
StudioTopiaではよく、「〜すること」ではなく「〜しようとすること/し続けること」という形のフレーズが出てくるのですが、今回もそれが当てはまりそうです。
時代に無力感を感じてしまうことも多いのですが…安全のためにいまいちど、私なりにできることを探して、果たそうとし続けなければいけない、と思わされた回でした。(奈都)


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