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「◯◯こそ正義」

マーケティングでお世話になっている友飛くんがnoteにちょこっとわたしのセッションについて書いてくれていたのを読んで
「あぁ、この感じ、懐かしいなぁ」と久しぶりに感じたので、今日は「◯◯こそ正義」について書きたいと思います。

彼が書いていたのは
「仕事こそ正義」

これを読んで
あぁ私にもこういう時期もあったなぁとも思ったし
人生でこう考える時期は、あってもいいよね。いや、一度はあったほうがいいよね。って思った。

「仕事こそ正義」

なんだか、懐かしい気持ちになったのは
今のわたしは、もうそういうフェーズではないから。

わたしも20代のときは
「生産性こそ正義」と思っていた。
だから、何も生み出さない時間は、徹底的に省いていた。

・意味のない友達との付き合い
・意味のないテレビ鑑賞、漫画
・お金が発生しない部活やサークル活動

とにかく働いてお金を稼ぐ→20代前半は、ブランド物を買っていたし、20代後半から30代後半は、勉強と経験に投資を繰り返していた。

手にしたお金を使う先が
物→勉強や経験
になったとはいえ、結婚するまでの間
とにかくわたしは「生産性こそ正義」だと信じ、殆ど何も変わらない、無味無臭の魅力のない毎日を送っていた。

とにかく働いて働いて働いて
貯めたお金で鞄か靴か服を買うか
数ヶ月のインド滞在で使うか
違いはそれだけ。

ブランド物とインドでヨガ。
全く違うようで、わたしの毎日の生きかたは
全く同じだった。

結婚してからは、
「生産性こそ正義」から
「いい妻、いい嫁であることこそ正義」
にすり替わる。

ここまで読んでくれた方は
もうわかってると思うが

「◯◯こそ正義」
と思ってるときは

自分とは
仕事ができる
生産性がある
いい生徒である
いい先生である
いい妻である
いい親である

役割や立場やできることが
自分自身だと錯覚してしまう。

そうなると、
もう自分の人生を生きてるようで全く生きてない人生、
魅力のない人物の出来上がりだ。

この世の中と言うのは、
複雑で曖昧で無駄ばかりで
(なんなら無駄しかないんじゃないかな?)

そんな淡くて繊細で無駄な世界を
私たちは生きている。

その繊細で淡いレイヤーを感じれる、無駄を楽しめるひとこそ
魅力的で、自分の人生を生きれるひとだとわたしは思っている。

そして最近は
わたしは眼の前にある世界を事実として受け取るとき
身体は「フィルター」で
心は「その事実を認知、認識するもの」
なのかなー、と感じている。

フィルターの感度が鈍くなっていると
心が正常に機能していても目の前にある事実をありのままに受け取れない。
身体が機能していても、「認知、認識する」心の機能が壊れていても、また然り。

身体と心。
努力と根性では変えられない世界も、ある。


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