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口話だけで話すように育った私が思う事

私は、

幼稚部~高等部までをろう学校で過ごし、大学は一般の大学でした。

筑波技術大学やアメリカのギャローデット大学(Gallaudet University) と、聴覚障害者、視覚障害者のための大学がありますが、私はそこを選択する気持ちがなかったのです。

その理由として、

◆入りたい学部がなかったこと。
◆ずっとろう学校に行っていたから聞こえる世界の学校を見てみたかったということ。
◆自分は、口話が出来るから大丈夫だと思っていたこと。

しかし、実際には

大学では「口話」だけでは限界があるということを色々と痛感させられました。
特に「自分は、口話が出来るから大丈夫だと思っていたこと。」
これが大きな間違いであることを身をもって知ったのです。

その当時は、

全国の色々なところで「聴覚障害学生懇談会」というような耳にハンディを持った学生たちが、様々な学校へ情報保障を求めるために運動をしていた時でもあって、私も色々なセミナーに参加したり、自分が住んでいる地方の「聴覚障害学生懇談会」でも集まっては話したりして、色々と交流を深めていました。
この集まりで、「学校側が聞こえない人たちにも、リアルタイムで100%わかるようにする」ことを当然の権利として配慮する必要がある、ということがまだまだ不十分でないという高校、専門学校、大学などが多いということもわかり、それに対してどうすればいいのか?が議論になっていました。

今では、

東京大学など色々な大学のHPをみてみると、「バリアフリー支援室」とか、「サポート室」というような名前であらゆる障害を持った人たちが安心して学生生活を送れるようになっています。

ところで、

その当時、クラスメート何人かとお茶を飲みながらたわいもないお喋りをしていた時に、みんなが一切にワーワーと喋るのですが、私には話の内容が最初だけしかわからなかったのです。
最初は、私に気を使ってゆっくり話してくれたのですが、話がヒートアップすると(盛り上がると)だんだん早口になって、しまいには笑ったりして、何がおかしいのかもわからず、一人でボツンとされたような気持になったことが何回もありました。
みんなが楽しく話している空気を壊したくなかったので、私はひたすらお菓子を食べることに集中するしかなかったのです。
その場で、聞けばいいじゃない?と言う人がいるかもしれませんが、とんでもない。
何度か、
「ねぇ、今は何の話してるの?」
と声出して聞きたかったことか、、、、。
その場がしらけてしまう、ということは言わなくてもわかるものです。
説明するのは難しいですが、「いちいち話を止めないでくれる?」という感じでしょうか。

授業でも、先生は、

マイクを持って喋っていますが、教科書どおりに喋るとは限らないのです。
なにか、その日にあったこと、先生が経験したこと、ギャグ、、、など。
学生たちはドッと笑い出すのですが、私には何を話したのかもわからないから、その場所にいるのが辛かったりもしました。
また学生たちとは反対の方を向いて(ホワイトボードの方を向いて)話したりして、唇の動きが見えなくなると、もうお手上げです。

友達にノートを貸してもらったりしていたのですが、友達もノートを見なければならないし、だんだんお願いをすることに気が咎めてきて、そのうちに大丈夫!とごまかしてばかりいました。

授業もわからなくなってきて、

それまで自信を持っていた「口話」「唇の読み取り」がいかに通用しないかを思い知らされました。
テストの結果も実にひどいもので、先生たちも「こんな今まで見たことがないひどい点!!」と話になったもようで、先生たちに呼ばれたのです。

そこで、先生たちは「聞こえない」ことの本質を知ったのです。

先生たちは、私が補聴器を付けていることは知っていたのですが、補聴器を付けているから、聴者のように聞こえると思っていたのです。

本当は、自分で、先生たちに自分はこうです、こうして欲しいです!と言えばよかったのです。
それなのに、先生たちに呼ばれるまで何もしなかったので、自分にも非があります。
このことを、今でも「うわー!もったいないことした!」と後悔しています。

このことがあってから、

先生たちと、どういう風にしたら授業がわかるか?どうしてほしいのか?などを色々と話しあって、マンツーマンでの補習、その日の授業のレジュメをもらって授業を受ける、パソコンでの文字入力をしてもらう、と色々と配慮してもらいながら学生生活を送りました。

本当に、その点については感謝しきれませんし、私が卒業して何年かたったあとに、耳が聞こえない学生が何人か入ってきて、私の経験から「情報保障」がしっかりとついていたことを、風の便りで知りました。

この経験から、

情報取得の大切さを強く感じるようになり、「手話」も大事だと気づかされました。
「口話」が出来るからといっても、情報取得についてどうかとなると、話は大きく違ってくると思います。

聞こえない事の本質については、ねこさんが細かく書かれておられますので読んでみてください。
あなたは誤解してる ~補聴器を付ければ聞こえるということの誤解~

ところで、話は変わりますが、

日本で、ある街に住んでいた時に、突然痙攣をおこして、倒れたことがあります。
その時に、救急車を呼んだのですが、救急車の方が少しだけ手話が出来る人で、それだけでも安心できたのを覚えています。
マスクも外して、「手話通訳者を呼びます」と言って下さったりと、、、。その街で、緊急時の手話通訳派遣制度の第一号になったもようですが、痙攣している中、口話で伝えるのはしんどいものがありましたし、手話の方が楽でした。
病院に到着した時に、先生がマスクをつけたままで話された時に、救急車の方が「マスク外してください」と言ってくれた時にも、先生の方が「あっ!」という感じだったので、聞こえない人たちへの対応の仕方もこれから良い方向へ行けると思います。

最後に、

とても素敵なエッセイを紹介します。
これは、特に「私は口話が出来てよかった!」とか、「ろう学校に行かなくてよかった」とか言っている人たちに読んで欲しいのです。
障害があるなしに関わらず、色々な人たちにも考えてもらいたいエッセイなので、是非ぜひ読んでみてほしいなと思っています。

障害のある人同士の「差別」から学ぶ。
「口話」だけの人も、「手話」だけの人も、お互いがどうすればコミュニケーションがとれるのか?を考えてもらいたいですし、聞こえる人たちにも、変えてほしいこと、理解して欲しいことを一緒に呼びかけていけるようにしたいですね。

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