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障害のある人同士の「差別」から学ぶ。

 これは私が高校時代に経験したことです。

 当時、私は県立高校に在籍しており、クラス委員長を担当したりサッカー部に所属して活動していました。そのことを聞いた地元の聾学校の生徒が、私と話してみたいということで高校に来てくれました。

 彼は日本手話で育ち、私は音声日本語で育ったので、同行した聾学校の先生が手話通訳を担当してくれました。授業参観の後で私と約1時間半ほど対談したのですが、彼にとっては思わぬ方向に向かってしまい、しまいには「差別されている」と感じてしまうほど落ち込む内容になってしまったのです。

 当時の対談した内容(学校新聞「新専タイムズ第2号」1994/6/13発行)の一部をここに転載しておきます。場面1は、私が、「障害」は障害のある人だけが人一倍努力しなければならないものだと語ったものです。

場面1(聾学校生徒:A、松﨑:M、先生:T)
A:ところで、さっき6限の国語の授業を見せてもらったんだんけど。
M:先生の声は聞こえないし、口もほとんど読み取れないから黒板を写し   て、あとは自分で辞書を引くだけ。でも、わからない所は休み時間や昼  休みに先生の所に行くようにしている。
T:先生たちの話では、家でかなり勉強しているのではといってたけど。
M:毎日1時間くらいしかしてません。部活の後、一人で毎日残って自主   トレを7時ぐらいまでするから、疲れ切ってしまって。
A:どうして一人で・・・。
M:やはり、聞こえないのをカバーするには健聴者の倍の努力をして、    やっとチームプレーができると思うから。

上記のような対談がしばらく続き、場面2でお互いの進路について話している時にどのように生きていくかが話題になりました。自分が能力を発揮できるために手話も使える職場で働きたいと語ってくれたAに対し、やはり前述と同じような考えで反論してしまいました。もちろん悪意からではなく、ただ自分自身の苦労を通して考えてきたことを率直に伝えたものです。

場面2(聾学校生徒:A、松﨑:M、先生:T)
A:まだ、はっきり決めてないけど、事務職のような仕事につきたいと思っ  ている。できれば手話の通じる所があればいいんだけど。
M:手話が通じる・・?それは甘いんじゃないかな。健聴者の方がはるかに  数が多いんだし、僕らは、その中に積極的に入っていって「聞こえない  けど、他は同じなんだ」と認めさせるまで努力しなけりゃいけないん   じゃないのかな。
A:・・・君の言うことが正しいのはわかっているけど・・・
T:今は手話も少しずつ広がっているし、卒業生も職場で仕事に必要な手話  を周りの人覚えてもらっているというケースも増えているんだ。
A:じゃ、君は手話を覚える気持ちはないのかい?
M:全くない。

 お互いの生き方について議論が噛み合わず、それぞれの考え方があるのだろうということで対談が終了。そして数週間後。Tが学校新聞を送ってくれました。そこには上記の対談内容とAの感想が載っていたのですが、私にとっては頭を殴られるほど大きなショックを受ける内容でした。「差別」という言葉が目に飛び込んできたのです。

松﨑君の努力はよく分かるけど、自分が健聴者の仲間に入ったからと言って、同じろうあ者なのに、何故、ろうあ者や聾学校を差別するような見方をするのか、やはり、育ち方がちがうからか、それが残念だった。

 当時「差別」とは、障害のない人とある人の間だけで起こるものと考えていました。聞こえる人が「差別」を受ける側になるとは全然思いませんでしたし、障害のある人同士ではむしろ「差別」を受ける側にいるという点で共通していると思っていました。

 ところがこのAの率直な感想からは、障害のある人同士でも「差別」が起きるのだと愕然し、しばらく脳裏から消えませんでした。私は、長年「差別」を受ける側にいたのですが、ここでまさか自分が「差別」をする側になるとは思いもしませんでした。ただ、自分なりに当事者として経験して考えたことを伝えただけだったのに、Aにとっては差別あるいは排除されているように感じたのでしょう。また私も、Aのおかれている状況は何だろうかと尋ねることまではしませんでした。

 「差別」は悪意を持って自覚的に行うものだけではない、今回のように自分でも気づかぬうちに「差別」と受け止められる行為をして「人」の尊厳を踏みにじってしまうのか…、「差別」というのは非常に恐ろしいものだ、と深く実感させられました。Aの「あなたは差別しているのか?」と問われているような強いまなざしに胸が苦しくなりました。自分はもしかしたら「人」を理解する視野がまだまだせまかったのではないか…と深く落ち込み、考え込みもしました。

 この「差別」をめぐる心的経験がきっかけで、聾学校に通う人たちのことを理解したい、彼らと深く語り合えるためには手話を学びたい、そうしなければ聴覚障害教育に携わる資格はない、と決意しました。また、「人」に対する自分自身のまなざしやふるまい(価値判断のありかた)を積極的に省みるようになりました。「人」をつい表面的に見て安易に判断していないか、「人」の想いや苦労に耳を傾けることを忘れてはいないか、自分の価値判断だけを押し付けてしまってはいないか、など。

 しかし今こうして振り返ってみると、Aは、私を目の前にしてそのような想いを語るのは難しかったはずです。Aが感想を書けたのは、AにとってTや聾学校は安全で信頼できる場所だったからでしょう。そして、Tが学校新聞を送ってくれたおかげで、Aの苦悩を知ることができ、自分自身の生き方を深く再考できました。もしTが学校新聞を送っていなければ、私は、「障害のある人だけが人一倍努力」して頑なに生き、大学に入学しても手話サークル、情報保障団体、聴覚障害学生当事者団体を作ることはしなかったでしょう。

 さて、学校新聞をもらってから少し落ち着きを取り戻した私は、Aのことが大変心配になってTに尋ねてみたところ、Aもかなり落ち込んでいたとのこと。しかし、Tと話したり地元の聴覚障害者協会の方からアドバイスをもらったり職場や市役所での窓口手続きなどを経験していくうちに、今後の自分のためにできることは何かを考えはじめるようになったそうです。苦手だという日本語(読み書き)の勉強をはじめたり、聞こえる人に手話を教える経験を自らやってみるなど。それを聞いて少し安堵しました。

 このように今回のエピソードは、障害のある人同士でも「差別」は生まれるのだ、「差別」を受ける側が「差別」をする側にも自分でも気づかぬうちになってしまうことがあるのだ、ということが身に染みて理解できた、悲しい出来事でした。もう二度と繰り返したくないものです。しかし一方で、AとTのおかげで、「人」として多くのことを深く学び、より良い方向へ生き直していくこともできたので、本当に私の人生の中で重要な経験だったと思います。

 ちなみに現在、私は「人」を理解するために「物語」に関心を持っているので、もし二人をつなぐTの立場になったら、聾学校か地域校か/手話か口話かといった「属性」のみで考えるのではなく、AとMがそれぞれそのような生き方をするようになったのかを「物語」から考えるように対談してみたらどうだろうか、そしたら少しでもお互いにわかりあえる対話になれるのだろうか、と思いを馳せることがあります。もちろん、お互いが自分のことを「物語」として語る経験、状況や関係ができていることが前提になるでしょう。