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「えとき」作品の考察について。

科学的考察、考証考察

昨日今日くらいにTwitterで漫画やアニメに対する科学的考察についての話題がバズっていました。科学的考察の何とかについてはまあ、たくさんの人がよっぽど自分よりしっかりした内容を述べられておられるのを見たので、自分には何も意見はありません。

ただ、自分は「考察ッポイ」事をよくするので少し自分の中での作品考察行為に関するおもいをのべてみたいとおもいます。

漫画やアニメはフィクションなので、それに対して厳密に科学的に考察すると必ずおかしなことが生まれてしまいます。それを茶化したり、いちゃもんつけるのは、ある意味ファンのちょっと悪ノリ、そしてオタクっぽい知的な「お囃子」としての読者視聴者の楽しみの一つだと思います。

「仮面ライダーってどれくらいのキック力があるか知ってる?」などというネタ的科学考察に基づいた突っ込み豆知識も、ファンの間できゃーきゃやってて話すにはまま楽しいものです。

昔『空想科学読み本』というSF作品を徹底的に科学考察する本がありました。それこそライダーのキック力やV3のベルトの回る風力を計算したり、ウルトラマンの身長や体重にかかわるトピックスを面白おかしく科学的な数字を用いて考察して楽しむ本です。


当時結構気に入って、おなかがねじれるかと思うほど笑って読みました。ぼくはそういう「ノリ」の「ツッコミ」が嫌いじゃないのです。

でも、だからといって『空想科学読み本』は元ネタになった作家の仕事や、作品やそのファンを貶めるような書き方はしていなかったと思います。

また、中国の歴史小説かつ当時の歴史書である『三国志』の考証に対する面白考察本である『爆笑三国志』という本も大好きでした。

『三国志』には奇々怪々な表記や不合理な表記が多いので、そういうのを改めて考察してみたらめちゃくちゃ笑えた。という内容の本です。好きすぎて何冊もボロボロになるまで読んでは買いなおしたりしていました、小学生の頃です。


爆笑三国志はそのタイトルからもはや「爆笑」という名が付く通り、真面目に作品の考証を考察したらファンの「爆笑」しかありえなかった!という構造を的確に言い表しています。初めから考察してお笑いとして昇華するために書かれた本です。でも読んでみたらわかりますが、悪意というよりは、三国志という作品に対しての愛に満ちています。だからこそ、読んで大変楽しかった記憶があります。

また90年代は「考察本」のブームでもあり、エヴァンゲリオンやガンダム、どらえもん、それら漫画アニメの有名作品に対する「考察本」もすごく出回っていました。どれも楽しく読めて、面白かったです。

考察は重要な楽しみの一形態

漫画やアニメの考察や感想は、広義の「楽しみ方」の一形態だと思っています。二次創作とも感覚が近いでしょう。考察は文章でやるファンアートみたいなもんです。

ファンは名作を読んで楽しんだ後に、その作品に対する様々な想像を広げて遊ぶことはよくあることです。またいい作品はたくさんの二次創作を生む、読者が生みたくなる余地を持っていたりします。それは、おもしろい作品というのは解釈が一義的でなかったり、表現に幅があっていくらでも読者視聴者がのぞき込めるからです。

作品によっては沢山の「謎」を追う形式がそもそも提示されるフォーマットになっているものもあります。『金田一少年の事件簿』や『名探偵コナン』などは基本的に「謎」を追う形式のお話であり、とても楽しく読めます。そういった作品においてはむしろどの読者も独自の「考察」「謎解き」をして楽しむのが推奨された、というと堅苦しいですが、オプションとして提示された読み方の一つでもありましょう。

また、長編の濃厚なストーリー作品であるならば、作中の大小さまざまなストーリーにかかわる謎なども読み解くことでいろんな作中事実の輪郭がおぼろげながら浮かんでくる作品……というのもミステリーのような楽しさがあるものです。

珍しいタイプですが四郎正宗のように、描いた本人と岡田斗司夫にしか絶対にわからない高度で難解すぎる設定上の「謎」をかすかにコマの隅に配置してくるような作家もいます。

そういう部分をもし読者が読み解けたら楽しいでしょう。

最高の「考察」体験、オカルトを読む

そういう「考察」に最高に適した漫画家?絵師がいます。彼はオカルト出身です。まあ、オカルトって簡単には使いたくない言葉ですが、神秘世界に属する絵師です。

鳥山石燕という江戸期の妖怪絵を描く絵師がいるのですが、『画図百鬼夜行』『今昔画図続百鬼』『今昔百鬼拾遺』『百器徒然袋』という画集を刊行しています。水木しげる以前の妖怪絵師としては最も妖怪の視覚イメージ造形に寄与した人だと思います。というか、水木しげるが妖怪の視覚イメージ造形をほぼひとりで日本で造り切ってしまった大作家なので、彼の下敷きにした石燕の価値がすごく高くなった、という構図なのかもしれませんが……

とにかく、彼の描いた妖怪の絵は「絵解き」として楽しめるようになっています。石燕は現代でいうと荒俣宏レベルの博覧強記のおじさんなので彼の描いた絵はあらゆる角度から徹底的に考証されており、それを読み解くのは最高に楽しい知的体験です。

つまり読者はしげしげと石燕の妖怪の絵図鑑を眺めて、それがどういう背景を持つ妖怪なのか、どういう存在なのか、また当時の社会に対する風刺などを読み解いて楽しんだのでした。

個人的には我が国のエンタメ作品への「考察文化」は、江戸期の絵巻や錦絵、残酷絵や妖怪絵を「絵解き」する楽しさあたりから来ているのではないかと思っています。さらに現代のビックリマンシールやポケモンカード、ポケモン図鑑にも通じるモンスター蒐集スタイル文化を無意識下に確立した表現形態だったとも思います。

妖怪絵や妖怪絵巻はある程度幅があるものの、伝承や民話などを下敷きにしつつもそこに高度な物語、戯曲、歴史、知識、意見、詩歌をちりばめて当時の人が絵解きして楽しむ用途でも書かれています。そういう適切に「仕組まれた」作品であるならばある程度筋道を立てたらいくらでも論理的な「考察」が成り立つのかもしれません。

またもう一つ世界的に見ても非常に面白い読み方のできる玩具があります。これもオカルト(秘されたもの、の意味)の世界に属するものです。

それはカード、タロットです。自分は20年来タロットが大好きでタロットの読み方についての本をいくつも読んだり占いを学んだりするのですが、タロット占いというのはカードに書かれた絵について解釈、考察して読んでいくゲームです。

西洋占術の大家、鏡リュウジ先生は女性なら一度は目にしたことのある人なのではないでしょうか。女性誌の占いコーナーで鏡リュウジ先生の名前が出ない週はないくらいです。

鏡リュウジ先生のおっしゃることを見ればわかりますが、本当にちゃんとカードを読んだり、ホロスコープを読んだりするのは、天体、歴史、言語、科学、宗教、そして神秘学、ありとあらゆる知識と経験が必要となります。それらを駆使した最高の「考察」体験となります。


ですが、それでもやはりどんな考察や解釈を追う行為であっても科学的整合性や正解を追い求めすぎると苦しくなります。

正解さがしはバランスを崩す

もし現代の作品だろうと過去の作品だろうと、作品を考察して楽しむときに明確な「正解」があると思って読んでしまうと、ちょっと苦しい読み方になることが多い気がします。または「こういう答え(解釈)以外は全部間違い」というふうに言うとそれも大変窮屈になっていきます。

なぜならまれに読者の感想なり考察が、作者の意図と全く違う読み方であっても成立してしまうことがままあるからです。もちろん「読み方」の正統は一応作品である場合作者の脳中にまずあり、そして表現のなかに文脈のなかに現れてくるわけですが、それでもそういったこと「も」起こりうるのが解釈の幅の広くて深みがある作品の「考察」の面白いところでもあります。

例にとる話が「明日のジョーです」

その昔岡田斗司夫さんや夏目房之介さんのやっている深夜番組で「BS漫画夜話」というのがありました。そこであしたのジョーが取り上げられていた回のことです。

「明日のジョー」は最期のコマで「真っ白に燃え尽きてしまう」のですが、じゃあジョーはこれ生きているの?死んでいるの?という風に問われたらどう読めるのでしょうか?という話があって。

漫画評論家の夏目房之介さんは、日本の漫画は右から左に読んでいく、だから左を向いている人物には作中の未来や希望、進行に対しての要素があり、右を向いている人物は立ちふさがる、せき止める要素を持つ。だからジョーは最期左を向いて真っ白に燃え尽きているから、これは(生きている)希望がある、というお話をされていました。

ぼくはこれを見たとき唸りました。こんな読み方をするなんて……と。もちろん、解釈や考察はどんな証拠がそろっているように見えても最期まで個人の「~と思う」の枠を出ません。

夏目房之介さんは漫画評論家の第一人者でもあり、この読み方が違うとかそういうつもりは全くないのですが、この解説というか考察はとにかく迫力がありました。

この説得力は……かりに作者のちばてつやせんせいがこの考察を聞いて「違う」といっても作品中の真っ白に燃え尽きたジョーには確かに未来へのニュアンスが含まれてしまっています。これは漫画史に残る名考察だと当時思いました。

作中に全く明確にはかかれていないことについても読者がその知恵と妄想、願望のギリギリの鬩ぎ合いの中に慎重に読み解くなら、それはある意味成立してしまう「余地」があるならば、逆説的に「考察」の正解や正しさはどこにも「ない」ということにもなります。

漫画やアニメは創作物です、現実的な要素を取り上げているとしても現実や歴史そのものでは決してありません。ですから、それをいくら専門性をもって部分を科学的に考察しても、あるいは作劇技法やシェークスピア文学、つまり文学上「正当な」流れに属する読み方をしてみても、出てくるのは創作物としてソフィスティケートされた娯楽作品の、いろんな理に則ってデザインされた部分もあるし、そうじゃない部分もあるという単なる事実にしかすぎないかもしれません。

ですからどんな読者であっても「ぼくは」「こういう理由とかで」「こう思う」というところまでしか踏み込めないし踏み込むべきではないとも思います。それが考察遊びのルールです。同時にだからこそ自由が保証されもします。

「こうである」「こうあるべきである」「その見方は違う」と本気で断定したら一気にいろんなところがガタピシしてしまうでしょう。今回のようにもファンや作り手を巻き込んでトラブルに近い形になる。

でなければ読み方は人文学の「研究」というレベルに入っていきます。つまり研究者たちによる人生をかけた学問という次元まで抽象化された厳密な修羅バトルの道です(笑)論文を書く羽目になります。

ところで、本当にいい作品はツッコミすら受け入れる「器量」を持っています。

キン肉マンとプロレスの包容力

ゆでたまご先生の『キン肉マン』という作品があるのですが、本当に(絶対に!)面白い作品で、日本のある年齢の男子だったら一度は絶対ハマったと思います。そのキン肉マンはファンの間では「いろいろな設定や考証がやや甘いこと」で有名です。キン肉マンは超人と呼ばれる屈強な人たちがプロレスをするバトル漫画なのですが、割とわきが甘いというか、不合理な書き方をしているところがあって、そこも含めてめちゃくちゃ愛すべき作品です。

ファンたちは「あのプリプリマンはどうした?」とか「なんで鎧を奪ったほうが先に落ちるんだ?重力加速度に反している」とかいちゃもんをつけながら笑い合い、作品を楽しんでいます。しかしそれは批判ではありません。

キン肉マンはプロレスを題材にしているので作風にもプロレスの遺伝子が流れています。プロレスとは、ブックつまり試合の「大まかな筋書き」があったりなかったりする環境で、本気だか”つくり”だかなんだかわからない展開で見る人を魅了する格闘技です。

だれもプロレスの技が本気でやってないとかやってるとか言う理由で怒らないでしょう。たとえ文句をつける観客がいたとしても、そのやり取りも込みの場外乱闘で「楽しさ」を提示できてしまうのがプロレスです。

エンタメ、ショービジネスとしてのプロレスはそこら辺がものすげえ懐深いです。

キン肉マンはもっと根本的に想像で「作って」いるわけです。だからプロレスのようにたくさんの不合理や不条理的展開が繰り広げられ、それに対する読者の精いっぱいのツッコミもごんごん飲み込みながらそれでも全体としては紛れもなくカッコいい王道バトルストーリー漫画として成立しています。ぼくが傑作というのすら失礼なほどの素晴らしい作品です。

キン肉マンに魅了された読者は作品が大好きだから、キン肉マンの設定や表現にあれこれ言ってしまいます。いちゃもんやお囃子はキン肉マンという作品に対する悪意の攻撃ではなく、(ちょっと下品ではありますが)むしろ援護に近い構造を持った異色の声援のようなものです。そしてそれもまた大きな流れの読者と作者側との場外乱闘となってキン肉マンが愛されていく歴史を紡いでいっています。

キン肉マンのコアなファンは、ジェロニモが理由なく瞬間移動したりするたびに手をたたいて喜びます。そういう表現で構成されているキン肉マンの「味」を含めて心の底からキン肉マンという作品のすべてを愛しているからです。

敬意をもって発言したり考察する分には、やはり読者が自由に感じたことを考察感想の文脈に乗せて言うのは作品を「生きた」ものにするのではないでしょうか。ですがこの意見は考察好きなぼく自身に寄せてポジショントークっぽく書いてしまっている可能性がありますがごようしゃください。

歴史上最強の考察勢たち

少し視点を変えて考察や二次創作が好きすぎて歴史をかえたり重要な資料として残してしまった人々を紹介します。

陳寿は先ほど話に出した『三国志(正史)』の編纂を行った人物でありむしろ三国志の作者なのですが、彼は史書を編纂することで三国志を作り上げました。これなんか今で言ったら二次創作です。その過程において、三国、つまり魏、呉、蜀を公平に扱いました。陳寿は信ぴょう性の低い記述を排除して簡潔に三国志を編纂したのですが、現在のような形に編纂したことで、当時に対しての後年の歴史観は永久に一変してしまったといってもイイでしょう。彼はもともと蜀漢のでであり、蜀漢をよく扱ったので今のような形の三国志、そして後年の「三国志演技」を作るおおもとになりました。

三国志は別に国の命令で作られた歴史書ではありません。私選なので陳寿本人が勝手に編纂しちゃったものです。

さらに「魏志倭人伝」の中には日本国外における日本についての最古の記録があります。陳寿が勝手に三国志を編纂したことで本邦の貴重な記録が世界史に記録されることになりました。

さらにここで三国志マジで大好きおじさんの裴松之という人物が後年三国志に膨大な注を付けて大変なことになりました。彼はむしろ皇帝の命でもって国家事業として三国志に注を付けたのですが、注というのはいわば考察解説です。彼は明らかな三国志のコアコアなファンだったのでめちゃくちゃ詳細に三国志の世界を彩るストーリー、補足資料、解説、考察≒注をつけまくりました。その内容は楽しく面白いですが大変あやふやなものも多いです。

先ほど紹介した「爆笑三国志」が生まれる素地になったのは間違いなく裴松之が犯人です。彼の恣意的な解説や補足説明が簡素だった三国志を大きく変えました。

裴松之が自分の趣味に激振りして大好きな薄い本を相当厚くした結果、三国志は今の時代に伝わる伝奇的性質を多分に多く含むようになってしまいました。ですがこれは一概にダメなことだったのでしょうか?誰もが素晴らしい三国志の世界に気軽に触れられるようになったのはどう考えても裴松之がいたからです。考察勢の最高峰、裴松之が勝手にいろいろ陳寿の『三国志』に厚みを加えてくれたからこそ、私らは古代中国の物語、そして歴史をいろんな形で知ることができたといっても全く過言ではないと思います。

このように作品に対する考察も徹底的に過ぎればかけがえのない人類の財産になります。いや、これは少々強引な「考察」でしょうか(笑)

考察の楽しさ・ハニワット同人誌について

考察の楽しさをいろんな有名な作品を通じて紹介したような文章を書いたつもりです。

じつは私自身は今まで自分が書く漫画やアニメについての文章に「考察」という言葉を使うのを極度に避けてきました。(感想とかたくなに言い張ってました(笑))

それは考察と銘打つ行為はどのような内容でも言及する作品、その作者、あるいはファン野皆さんに不快な気持ちにさせることがあるため、うかつに言えなかったのです。

ですが、この文章を書いて改めて「考察」といわれる行為は楽しいものであると感じました。ぼくもいつか胸を張って「これが〇〇という作品に対する考察!」といえる文章をまとめてみたいと思うようになりました。

因みに本年を中心に『古代戦士ハニワット』の同人誌を作ることになりました。今のところ自分は「ハニワット考察」を担当すると決めてしまいましたので、「作品の考察をする」と言ういい方から逃げ回るのはやめようと思ったのです(笑)かっこつけた言い方で、恥ずかしくなりますが考察に向き合おうと。

人は良い作品に触れるとどうしてもそれを解釈したくなったり、自分の持てる知識や経験で考察したくなったりすると思います。

考察は好きになった作品に対しての愛情表現です。だからこそ”仕手”は節制のバランスをとって謙虚でいなければいけませんが、考察にもし評価が付けられるとするなら内容の高度さや正確さというよりは、作品に対する愛、考察という行為に対する愛によってのみかもしれません。

考察は波及効果のある表現行為でもあります。さらに楽しい作品をより多くの人と、様々な角度から味わう発掘作業であり、宴のような性質を持っています。日本はほんとに素晴らしい漫画作品、アニメ作品の宝庫であり、それを取り巻く商業非商業の枠を超えたファン活動の環境は世界でも類を見ないと思います。

それらは制作者だけでも、ファンだけでも成り立たない、お互いを巻き込んだ非常に動的なバランスの生き物のうねりのようなものです。その流れの中に二次創作や考察という表現行為を通じてかかわっていけるのはファン冥利に尽きます。だからこそ壊さずに謙虚で豊かに続けていきたいことだとも思います。

非常に長い文章を読んでくださって、ありがとうございました。もし、私の言葉でご不快になられた方がいたら、申し訳ありません。



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