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うつになる前⑤【自分のこと#5】


30代前半にうつと診断され、現在50代。
40代入ったあたりから、一応無事に生きている高校教員です。
「自分のこと」を、たまにお話しさせていただきます。お時間あればお付き合いください。


前回は、浪人時代、ようやく「自分」を見つけ、大学へと進むことになった、というお話をさせていただきました。

その「自分」とは「教員になる」自分です。

さて、大学でしっかりと勉強して…となるところですが、入って気付かされたことがあります。


何と…、大学の講義が…、全く面白くないんですね…。


なんて我儘な私なのでしょうか。
今だったら、引っ叩きたい気持ちでいっぱいです。

でも……、自分が好きな分野を「教える」ことと「研究する」ことは、方向性がちょっと違うんですね。

せっかく入った大学だし、一度大学を辞めているので、さすがに辞めはしませんでしたが、再び路頭に迷うことになったのです。

そんな時、ふと、思い出したのが、高校時代に入れ込んだ演劇部のことでした。

「そうだ、演劇やろう」(JR東海風)

そんな軽い旅行気分にも似た気持ちで、大学の研究・勉強から離れ、気がつけば大学の演劇サークルに身を置き、演劇三昧の日々でした。
(一応、教員免許は取りました…)

…本当にダメな奴だと思います。

ただ、そこでは新たな「自分」を発見することが出来ました。「演劇やりたい」自分、です、

大学時代が終わる頃、自分で仲間を数名集めて小さい劇団を作り活動を始めました。

若気の至り…。
その頃は本気で、コレで生きていくと考えていたのです。
(ちなみに、その活動の中で、現在の妻と出会い、その後結婚…いろいろありすぎ…。)

しかし、世の中、そんなに甘くはありません。

自分よりもレベルの高い劇団や役者、脚本家を徐々に目の当たりにして、2年ほどで頓挫してしまいました。

そもそも、稼げるものではないので、長くは続かなかったのかもしれません。

呆然としていた私には、もう何も残っていない…、と悩んでおりました。

しかし、教員免許をとっていたこともあり、実は並行して高校の非常勤講師をしていました。

大学を出たあと、本気で演劇の道に進もうと思っていたのですが、それだけでは生活できないので、縁があり、やっていました。
(縁があってと言うものの、なかなか採用されず、やっとのことで採用してもらった学校です。)

「そうだ、先生やろう」(再びJR東海風)

演劇の夢が破れたあと「自分には先生の道がある!」と思い、そちらに力を注ぐ毎日となったのです。

憧れた、あの予備校の先生のように活躍する。

…ただ…そう思うと、学校ではなく、予備校や塾で活躍したいと思うようになりました。

授業をするのは大好きでした。
だから、ずっと授業だけしていたい。

しかし、当時の予備校業界は少子化が始まり、また、講師も需要が少ない上に戦国時代…。

ライバルが多く、なかなか思うような採用に至りませんでした。

結局、予備校講師になれずに腐っていたそんな折、非常勤講師で働いていた高校から、専任(企業でいう正社員)にならないかというオファーがあったのです。


(授業だけする先生が、いちばん「自分」でいられる場所だったのに…、)私は授業だけやる先生を諦めました。


なぜなら、その頃すでに結婚していたこともあって生活上の金銭面での不安を抱えていたからです。

でも……それは言い訳で、今にして思えば、

…自信が無かったんですね。

それだけでやっていく。



30代に入る頃。
そろそろ私のうつ人生が開幕するところに差し掛かってきました。

その頃のお話を次回の「自分のこと」でお話しさせていただきたいと思います。


お読みいただきありがとうございました。

「自分の居場所」は、とっても大切。手放すとメンタルに影響することもあります。是非、ご相談ください。
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