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石、草、木、猫、他人

 ネコに話しかける。彼は私の話を理解しているように見える。じっと私の顔を見ている。そしてニャーと鳴きながら近付き、私の足に頭をこすりつけ、膝に乗ってくる。そして、また私の目を見る。私は彼の頭を撫でる。すると彼は喉をゴロゴロ鳴らして体をくねらせる。手を甘噛みしてくる。私は、痛いじゃないか、と少しきつく言う。だが、おそらく私は微笑んでいる。すると彼は、小声でまたニャーと言う。私は彼と遣り取りができていると思い込んでいる。彼が私の言うことを理解していて、ニャーは私への返事だと思っている。甘えてくるのも、私の心が分かっているからそうするのだと思っている。

 六月のこの季節になると、いや、今年は少し遅くなってしまったが、いつもだったら五月のゴールデンウィーク辺りに、私は庭の草を刈って、夏に向けて野菜と花の種を植える。
 庭にはヒマラヤ杉も生えている。金木犀もある。金木犀の幹はもうだいぶ太くなっている。ヒマラヤ杉よりも金木犀の方が大らかで優しい感じがする。私は、時々その金木犀の太い枝にぶら下がって、背を伸ばしたり懸垂をしたりする。そして、あー重かったね、ごめんね、と呟きながら金木犀の木肌を撫でる。撫でる掌に伝わってくるその肌の冷たさ、冷たいのだが柔らかい感じ、それが、金木犀の方から私に何かを返しているような気にさせる。何かを言っているのだろうか。そうだよ、重かったよ、とでも言っているのか。それとも、いいよ大丈夫だよと言ってくれているのか。ヒマラヤ杉には触らない。それは、何かツンとしている。俺に触るな、と言ってるような気がするのだ。大分葉が茶色になり、枝も老いて枯れたのがある。だが、そのように傷付き体の一部が落ちかけていても、まっすぐに上に伸びている姿が凛と超然としていて、その雰囲気もまた、私に何かを語りかけているように思う。
 地面にはドクダミの草が一面に生えている。ドクダミは可哀想だ。その可憐な白い花はとても愛らしくて美しい。それなのに、人から嫌われる。そもそもドクダミという名前が良くない。先人は何故そんなに厳しい名を付けてしまったのだろうか。確かに匂いがきつい。しかし、それとても好き嫌いであろう。私などは、その匂いを嗅ぐたびに、この季節がめぐってきたことの喜びを毎年感じる。私は、一杯のドクダミの花を楽しむ。しおれて、枯れてきたら刈る。何やら、ドクダミの方から、嫌われ者の私を愛でてくれてありがとう、と言われているかもと勝手に思い込みもする。
 私は石も好きだ。水晶やら、黄鉄鉱やら、ラピスラズリやら、そうした鉱物を少しばかり集めている。そういう類の石は専門店もあるくらいで扱いとしては宝石にも近いのだが、占いにも使われるようなそうした石にはある種の生気がこもっているとみなされる。古代からそうだったのだ。実際に私も、そういう石を見、触る度に、そういうことを思いもする。石の占いの本や、或いは、石をモチーフにした小説などを読むのも好きだ。だが、庭に転がっている雑な石にも何かしらの気配を感じる。庭のベンチに腰掛けて、足元の石を拾って握り締める。そして、横になってうとうとすることもある。石を握りしめていると安心する。
 思えば、子供の頃、目の前に広がる田んぼの一角に高さが2メートルくらいの大きな岩があって、平らな広い斜面を見せて、デンと立っていた。その斜面を手を付かずに一気に登り切るのが、子供達の一種のステータスであった。私は、小学校低学年の頃には半分も登れず、手を使っても上まで届かなかった。しかし、おそらく五年生ぐらいだったと思うが、助走を付けて一気にてっぺんまで登り切った。その時の達成感は今でも覚えている。まだその岩は同じ所に同じ様にある。実家に帰ると、近くに寄って触ってみる。今では、あの時のようには、それが巨大に見えない。割と表面がザラザラしていて、柔らかい。だが、あの時は、その同じ表面がつるつるに感じられたのだ。苔が生えているからだったのか。それもあるだろう。だが、それを登り切ることの難しさがそう感じさせていたのだろう。今触れるザラザラさは、あの時とは違って、馴染み深いものを私に感じさせる。私も年を重ねたわけだが、この岩は、私の年など比べ物にならない、気の遠くなるほどの昔から、そこにあるのだ。その年の重ねが、そのザラザラに込められていると感じる。斜面に背中を持たせかけると、陽に当たって暖かくなった岩肌が心地良い。私が来るのを予め分かっていて、自らを暖めていたような気がする。そう、私を待っていてくれたような気がする。

 さて、私は人と付き合う。家族と、仕事の取引先と、近所の隣人と。雑踏の中ですれ違う人もいる。どういう人とであれ、私は気持ちが通じると思っている。もちろん、雑踏ですれ違う人とよりも家族との方が、深く通じると思っている。家族と諍いをすることもある。どうして分かり合えないんだと思うこともある。だが、そう思うことそれ自体の中に、私と相手は分かり合えるものだという思いが含まれている。だが、これは、私が猫や木や草や石に感じる気持ちとは違うものだろうか。
 私は、人ではない物を相手に気持の通じ合いを感じる。それは愚かで滑稽なことではある。しかし、なかなか根本的な否認はできない。愚かであると分かってはいてもそのような感じを持たざるを得ないのだ。
 そして私は、人に対してはいつも抜き差しならぬ真剣な交感をしている。だがそこには、或る滑稽さがある。この滑稽さもまた、いつも付き纏い、なかなか消えてはくれない。

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