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What Is a Woman? 「ジェンダー」は空虚なラベルなのか?

最近、アメリカの保守派政治コメンテーターの、Matt Walshが、”What Is a Woman?"というフィルムをリリースした。内容は、トランスジェンダーの方やジェンダー問題のアクティビスト、心理カウンセラーや医者、道を歩いている人やアフリカの先住民など、様々な人に"What Is a Woman?"と聞くものである。

さて、Matt Walsh氏のスタンスは、女性は生物学的に女だということ。そのため彼は、トランスジェンダーの女性(生物学的には男)は、女性ではないと言う。これは、私は理解しかねる。ジェンダー=生物的な性ではない。

しかし、フィルムにたくさん出てきた、Matt Walsh氏に反対する多くの声にも、疑問の残るところがあった。このエッセイでは、それらの反対意見を中心にジェンダーについて話を深めたい。

その反対意見とは、”A woman is anyone who identifies as a woman"(女性というのは、自分を女性とみなす人のこと)というものである。

循環定義とラベルの無意味

まず、上の定義は循環定義というものに相当する。それは、ある概念を定義するためにその概念を使用することなのだが、これではちゃんとした定義になっていない。「女性は自分を女性と呼ぶ人」といっても、じゃあその「女性ってなんなのよ」という堂々巡りになってしまう。

また、この定義のままいくと、「女性」というラベルの必要性がなくなる。我々は、あるものをその独自の性質によってほかのものから区別するのだが、社会という場においては、そのラベルの必要性を考慮することが欠かせない。

どんな人でも自分を「女性」と呼べば女性になるなら、そもそもそんなラベルに意味はあるのか?マッチョで、タンクトップを着て筋肉を自慢し、彼女をもち、性格も男性的な(この「男性的な」という議論の的になりそうな言葉については後程述べる)Aさんが、「私は女性だ」といったら、その「女性」というラベルに機能的な価値はあるのか?(ある という人もいそうだが、それだとただの空虚なラベルを基礎とした民族主義的なアイデンティティ政治になってしまうと思う。)

二つの方向性

上の議論を受けて、ここから、二つの方向性を展開できる。

一つ目は、ジェンダーを完全に脱構築する方向だ。「男性」、「女性」、という二項対立をそもそもなくしてしまうのである。そのため、ジェンダーはスペクトラムでもなくなる。そもそも、スペクトラムの端っこにある「男性」も「女性」もなにも意味しなくなるからだ。残るのは生物学的な区別のみである。

二つ目は、ジェンダーをスペクトラム化し、何か客観的な位置づけを求めることである。例をあげると、"What Is a Woman?"の中で臨床心理学者のJordan Petersonが述べている、Temperament(気質)、つまり感情傾向や性格である。男性、女性、(生物学的性別における)が、傾向としてそれぞれ特徴的な気質を持っている、というのは最近の研究で明らかになっている。また、それは傾向にすぎないため、男性の体をもち、女性的な気質を有する人もいれば、女性の体を持ち、男性的な気質を有する人もいる。そうやって、生物学的な性別と、気質(ジェンダー)は異なるのだとし、その気質を一つのスペクトラムのようにして自らの位置づけを図るのである。上で述べた「男性的」なAさんは、より詳しく言うと、「男性的な気質をもつ」のだ。

ただ、その「気質」の議論に対し自分が無知である部分は、その男性的、女性的「気質」というのがどこまで生物学的に作られたものか、どこまでが社会的に作られたものか、というのの区別の判断基準をまだ自分は調べてないことだ。そこは少しこれから論文のほうを見てみないとわからない。

まとめ

なにかにラベルや名前を付けることは、それがなにかしらの機能的な役割を果たすからなのだと思う。そう考えると、「女性」、「男性」という区別が社会でどういった役割を持つのか、たまにしっかり振り返ってみるのも重要だ。

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