Satomi AKAGI

あね6歳といもうと1歳の、こどもの母親。 彼女たちがみるみる育つので、息つく間もないこ…

Satomi AKAGI

あね6歳といもうと1歳の、こどもの母親。 彼女たちがみるみる育つので、息つく間もないこの日々を書き留めておくことにしました。 たとえ乱文でも。 食べものを仕込むのがすき。 書くこと、伝えることを仕事としています。

最近の記事

ひっそりとした部屋に、ふと梅が香る

書き留めておきたいことは山ほどあるのだが、優先事項が多くて間が空いてしまった。 このごろは普通でないことばかりだったが、気がつくと、いつもと変わらず梅の季節はやってきていた。 そんな自然や季節の巡りの、揺るぎなさにはほんとうに安心する。 梅が好きだ。 好きで好きでしかたない。 毎年梅仕事をしているけれど、毎年飽きもせずうっとりしている。 なんといってもこの香り、このかたち、色、触感、すべて好きで、 またそれが絶対続くことのない、ああ終わってしまう、とどめられない、とどこ

    • 機嫌よく生きる

      積み木を積んで、手を離した瞬間のあの嬉しそうな表情。 いい絵が描けたね、と言うと、「そうかな」と最近の口癖で照れ隠しするときの表情。 こどもたちの豊かな豊かな表情に、それはごく一瞬のものではあるが、 ときどき涙すら出そうになる。 喜ぶこと。嬉しいと思うこと。 機嫌よく生きること。 こどもたちに潜在的に備わったこのちからを、 どうか失うことのないまま、育っていってほしい。 そして、 好きなものと好きな人にきちんと出会い、 好きなものと好きな人にきちんと愛されるちからと、

      • くり返す、朝

        窓のそとでじんわりと広がって空の色を変えていく朝焼けを見るたびに、1日の巡り、そのあっという間さに毎度やっぱり驚いて、きっちり4時半に新聞配達のバイクがブロロロ……と通り、鳥がちゅんちゅんと泣くと、今日がはじまった合図。 そしてくり返す、朝。 このごろの朝のルーティン。 書いておいたらいつかの思い出になるかな。 日中こどもたちと過ごしていると、仕事がほぼ進まないので、早朝にするスタイルに変えてから今でひと月くらい。 ずっと深夜に作業していたのだけど、どうしても延びてしま

        • 慣れる、というはたらき

          気がつけば、この暮らしにも慣れている。 心とからだのはたらきとして、慣れる、というのは人間の重要な機能のひとつなのだとおもう。 新しいことにも、不都合なことにも、じぶんをある程度フィットさせていくということ。 それはそれでいい、とじぶんをだいたい満足させられること。 個人差はあれど。 こどもたちを見ていると、まだじぶんですべての行動を選べないぶん、与えられたシチュエーションで、それなりにやる、ということに長けているようだ。 家にいるならいるで、外に連れて行かれたなら連れて

        ひっそりとした部屋に、ふと梅が香る

          青が平たい

          途切れなく 青が平たい 翼さえ 静止したかと 淡い錯覚 鳥が抵抗を楽しんで、宙に止まったように見える。 穏やかな風と戯れて、そのまま遠くへ行って見えなくなった。 あまりにも空が平坦で、陽気が満ちて、病気が蔓延しているなんて思えなかった。 このごろは毎日そうだ。 そのぶん、雨で暗い日は世紀末のようで胸が詰まる。 今はただ雨の季節を恐れている。 家のすぐそばに登山口があるので、朝ごはんのあと、すこし山を歩く。 尺取虫が見えないほどの細い糸を出して、木からたくさんぶら下がっ

          青が平たい

          計り知れない、おおらかさ

          ほんのすこし前からだが、ゆるういゆるういグルテンフリーの食事とおやつを心がけてみたら、どっぷり米粉にはまってしまった。 わたしも家族も小麦アレルギーがあるわけではないのだが、冬にじぶんの肌の調子がすこぶる悪く、からだの乾燥と湿疹に悩んでいたときに、知り合いの方が「ぼく、小麦抜いてるよ」とさらりと言ったのがきっかけだった。 その方の言うのには、以来、なんとなく不調ということがなくなった、と。 1ヶ月半ほど前のことだ。 ためしに、小麦の加工品を摂るのを控えてみることにした。

          計り知れない、おおらかさ

          りっぱな、という形容

          料理がすきでよかった。 このような状況になってから、ひしひしと感じている。 人間活動がこれほど制限され、できるかぎり不要不急なものを削いでいって、シンプルに残ったものを見つめてみたとき、そこにあるのは、食べて眠ってとにかく生き続ける、という、 まるでたまねぎの皮を剥いて剥いて、真ん中の白くて柔らかな芯の部分が現れるように、あるいは贅肉がすっかり落ちて、筋肉が透けて見えるように、コロナがやってきたことで、いのちの基本的な活動というものがまざまざと浮かび上がってきた。 突然

          りっぱな、という形容

          すべて見てる

          いもうとが、一人前すぎて可笑しい。 もちもちとしてやわい、短い手足で、なんでも模倣しようとするし、あながちできていなくもない。 あまりに一人前なので、わたしたちも思わず普通に声をかけてしまう。 あ、それごみ箱にすてといてやーとか、お茶飲んどきんちゃいよ、とか、ちゅっちゅ(おしゃぶり)外しとこうね、とか。 わりと指示通りに動く1歳半。 はっきりした言葉はほとんど話さないが、だいたいのことは通じるので、聞き取りはできるけど会話はできない外国のひとと話している気がしてくる。

          すべて見てる

          またきょうも

          こどもたちがみるみる成長していく。 気が付いたらまた、寝かしつけをしようと薄暗い部屋で絵本を開いている。 その瞬間にいつも、ああ、きょうも一瞬だった。 この場面、ついさっき見たような気がするのに。 もう1日が終わってしまったのだ、と。 世の中にコロナありきのいまの暮らしでは、わたしたちは、生きるために生きているのだ、としみじみと実感するようになった。 こどもたちを見ているとなおさらだ。 目覚めて、食べて、排泄して、動き、食べて、また食べて、排泄して、眠る、の繰り返し。 食

          またきょうも