りっぱな、という形容
料理がすきでよかった。
このような状況になってから、ひしひしと感じている。
人間活動がこれほど制限され、できるかぎり不要不急なものを削いでいって、シンプルに残ったものを見つめてみたとき、そこにあるのは、食べて眠ってとにかく生き続ける、という、
まるでたまねぎの皮を剥いて剥いて、真ん中の白くて柔らかな芯の部分が現れるように、あるいは贅肉がすっかり落ちて、筋肉が透けて見えるように、コロナがやってきたことで、いのちの基本的な活動というものがまざまざと浮かび上がってきた。
突然に。
食べることに、そして食べるものを用意することに楽しみを見出す、というのは、とても人間らしいとおもう。
人と会ったり、着飾ったり、美しいものに触れたり、という、これまであたりまえだった、人間的で豊かな活動が限られてしまっているいま、よい食事、という貴重な人間らしさを享受するべく、日に三度のごはんをきちんとたのしむのが心身ともによいのだろう、と。
食材の買いものはもっぱら、近所の産直市場的なお店に通っている。
こどもたちとカートを押しながら、これなににして食べる?とかこんな野菜初めて見たね、とか話をしながら買いものをするのも、ひとつのたのしみだったけれど、現状を鑑みて、今はこどもたちを車で待たせて、ひとりでさっと済ませるようになった。
昨日は太い太いたけのこが山のように積んであって、150円とか200円とか。
ああ、わからなくなっちゃうけど、春なんだな。
たけのこの天ぷらが食べたかったので、2本買った。
そういうわけで、今朝はたけのこのあくとりから始まった。
朝ごはんのあと、袋からたけのこを取り出すと、あねが「わあ、りっぱ」と言った。
おお
このたけのこを見て、「りっぱな」ということばが出たとはすばらしい。
6年生きてきて、どれだけのことばと概念がからだの中に溜まっているのだろう。
2週間前に小学校に入学して、でもまだ一度も小学校に行ったことのないあね。
小学校から家庭学習に使えるようにとオンラインでプリントがダウンロードできるアカウントをそれぞれいただいた。
遊んで遊んで遊び尽くせる力をつけましょうがモットーの幼稚園に通わせていたので、まだ座学に慣れていない。
おそらく今後学校の在り方も変容していくだろうとはおもいながら、少なからず訓練は必要だろうから、はじめに、1日の中で机に向かう時間を決めたら、案外きっちり守っている。
あねは生真面目なのだ。
こくごのプリントを出力して眺めてみると、じぶんのころとあまり変わっていなくて驚いた。
おじいさんの気持ちや、たぬきがこれこれした理由というのが3択になっていたりする。
いちばんよいものに○をつけましょう。
あねは立ち上がってやってきて、「これな、わからへんねん。そうやったんかもしれへんし、こうおもったんかもしれへんやろ、わからん」と言う。
そうか。
それでええよ。
さんすうでもこんな問題があった。
えをみて3+5のしきになるおはなしをつくりましょう。
はじめはちょっと促して、するとこんな答えになった。
じゆうにおはなしつくっていいんだと言うと、乗ってきたようで、つぎの問題はこうなった。
おむすび食べすぎたんよね。
あとは好きに任せていたら、世界が爆発していた。
いかにも空想ずきな彼女らしい。
ゆりが4ほんいて ひとりがしゃべるゆり しゃべりました
ひまわりが 1ぽん だれかがひまわりをぬいた
ひまわりはいたくていたくてなきました
だいぶ時間をかけて書き上げていたから、おそらく、文字には現れていないストーリーが頭のなかに相当ひろがっていたのだとおもう。
もはやさんすうではないし、文章はめちゃくちゃだけど、こういう芽はつぶしたり枯らしたりしたくないなあ。
どうにかして守りたいものです。
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