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機嫌よく生きる

積み木を積んで、手を離した瞬間のあの嬉しそうな表情。
いい絵が描けたね、と言うと、「そうかな」と最近の口癖で照れ隠しするときの表情。

こどもたちの豊かな豊かな表情に、それはごく一瞬のものではあるが、
ときどき涙すら出そうになる。

喜ぶこと。嬉しいと思うこと。
機嫌よく生きること。

こどもたちに潜在的に備わったこのちからを、
どうか失うことのないまま、育っていってほしい。

そして、
好きなものと好きな人にきちんと出会い、
好きなものと好きな人にきちんと愛されるちからと、
自分で自分の機嫌を正しく保つことのできるちからを、
これからはしっかりと獲得してほしい。

そのために、学ぶ。
いきいきと、機嫌よく心豊かに生きていくために。
そのために、学ぶ。
それを忘れちゃだめだ。
学びとはそういうものだと、わたし自身の中で定義づけている。


いろいろなことを考える。
特に教育について。

以前から考えていたことではあったが、
コロナの影響による一斉の休校措置をきっかけに、
当事者としての意識がぐぐっと強まった。
まるで、がたん、と何かつっかえがはずれて、
ビー玉がコロコロと転がりだすように、
思考が、スムーズに、あるいは自由に動き始めたような感覚。

もっと、それぞれ生きられる。

おや、と思った違和感は、無視するべきではない。
目をつぶるべきではない。
諦めるべきではない。

そうでありたい、と感じた理想には、極力近づくべきだ。
選ぶべきであり、努めるべきだ。

最近は、賢い人の記事を読んだり、
夫とお互いに読み聞きしたことを共有したりして、
教育において大事なことはなにかを考えている。
難しいことも多いけれど、
自分で動ける範囲のことは、できるだけ動けばいいことだ。
実際それができる時代にもなってきている。

文句は言わない。
文句を言わないといけない環境には身を置かない。
嫌ならやめればいいのだ。
それは、我慢しないのとは違う。
自分で見つける努力をいとわない、ということだ。


最近、6歳のあねが、急にひとりで本を読み出した。

これまで毎日、あねに本を読んできた。
絵本から、だんだん児童文学になって、このごろでは、ある程度の太さの児童書を毎夜1話ずつ読んでやるようになった。

休校期間の間に、ひとりで読むことを覚えたらしい。
「大どろぼうホッツェンプロッツ」とか、「ロッタちゃんのひっこし」とか、「いやいやえん」とか、そういった本を1時間はざらに読む。
漫画も読み出した。

そんな姿を見ても、いろいろなことを考えないではいられない。

まだ一度も行ったことのない小学校からは、課題も時間割も出ていて、
午前中はぎっちりとプログラムされた表をいただいている。
たくさんのことを用意してくださる先生方には、勿論感謝もしている。
ただ、一斉、一同であることは、こども側の話ではないとおもう。

「まだ読む」とか「もうちょっとだけ読む」とか言いながら、
身じろぎもせず本に向かっている娘を見ながら、
またいろいろなことを考えている。

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