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 〈小林秀雄 試論〉

  

6. Xへの手紙   その(2)
  現代に知識人など存在可能かという〈知的な〉問いはしばらく置くとしても、現在の日本のインテリと自称し他称される者たちに、『書物に傍点を施してはこの世を理解』するような『こしゃくな夢』を持つ者がいるとは到底思えない。何故なら第二次世界大戦後、全世界がアメリカナイズされていったことで、かって近代的知識人の自意識にとってプラトニックな憧れでありかつコンプレックスの対象であった同性(男)としての西欧は老い衰え、彼らの無意識にとって愛憎の対象であった異性(女)としての日本は、強壮となり男性化していったからである。つまり文化の質的な差異が消去され、ニュートラルなある同一性が、世界を覆ってしまったからである。このニュートラルな文化的な同一性の最中では、自意識が実際の現実と幻想の当為の二者に引き裂かれる三角関係など不可能なのだが、小林秀雄が批評家として歩み始めた時期の文化的な環境の中では、いまだ避けられない宿命としてあった。小林秀雄は、三角関係を抜け出たときに、初めておんなという他者がなにものなのかということに気付いて感動さえしている。『惚れた同士』のあいだでは、『いっさいの抽象は許されない、したがって明瞭なことばがいよいよあいまいとなっていよいよ生き生きとしてくる時はない、心から心にただちに通じて道草をくわない時はない。惟うに人が成熟する唯一の場所なのだ。』いささか穿ちすぎた断定がここにはある。以前、恋愛関係のさ中にこれを読んだ時、わたしにもこういう感慨がおとずれてはっとしたが、後に社会の片隅に押し出されたときに、小林のこの言葉がかなり誇張したものであることがわかった。心から心にただちに通じない社会的な人間関係のなかにも、本当に人が成熟する場所があることを体験的に知ったからだ。つまり、小林秀雄は、神経症的な自意識の悪夢から覚醒した体験をここで内省的に記述しているにすぎなかった。だがここではさらに別のことも受け取るべきだ。それは小林秀雄の自意識が、長谷川泰子との恋愛関係を潜り抜けることによって、自分の無意識野に増大しつつある日本の風土性に溶融したい渇望を、明瞭に自覚したことである。この時小林は、かって自意識にとって他者であった母国の精神風土が、本来的な自己の還流する宿命的な場所であると気付き、そのことを明瞭に自覚することによって、若年の彼を苦しめていた自分自身が自分を監視するという自意識の強力を逃れることができることに思い至った。そしてさらに注目すべきことは、ここでなされた[対自己関係に終始する自意識]vs[無意識野に浮かぶあるがままの自己]=[対自意識である自己]vs[即自という他者]の力関係の逆転のメカニズムである。再び「様々なる意匠」から引いてみよう。『彼の批評の魔力は、彼が批評するとは自覚することであることを明瞭に悟った点に存する。批評の対象が己れであると他人であるとは一つのことであって二つのことではない。批評とはついに己れの夢を懐疑的に語ることではないのか!』火急にアドレッセンス晩期を通過しようとしている初期小林の息遣いが、聞こえてくるかのようだ。ここで〈自覚〉とは自意識が目覚めるということであり、〈己れの夢〉とは後に彼が逃れようとした自意識の悪夢のことである。おそらく長谷川泰子をめぐる中原中也との三角関係に陥った現実体験が、初期小林秀雄にこの〈自覚〉とは逆様の契機を与え、「Xへの手紙」を書いたことが「私小説論」に見られるようなシニカルなイメージを喚起させ、かつまた後の小林の思想的な転回への経路を準備させることになった。
           (この項つづく)

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