コラム

〈小林秀雄 試論〉
  1.はじめに
    作品は何処へ帰着するのか、という問いが、批評にとって重要に思えるのは、そのことが、批評の言葉の帰趨を決定するように思われるからだ。だが、もともと作品は(ということは批評も)、どこかへ帰着する必然性を備えた存在なのだろうか。こういう疑念は、詮じつめれば言葉というものが、一体、誰の所有に帰属するのかという困難な問いに収束していくように思われる。現在まで、この問いに幾つかの立場から、幾つかの答が提出されてきた。いわく、それは、現実の社会に。いわく、それは、言葉を用いる当体に、すなわち人間に。だが、最も優れていると思われる答は、いつもその問いかけ自体を包括し、無化するように差し出される。いわく、言葉は誰の所有でもない、あえてその帰趨する場所をあげるとすれば、言葉は、自分自身に帰趨するだけだ、つまり、言葉の歴史的な現在に属するだけの存在であり、それがすべてだ。
   おそらくこのささやかな試論もこの問いと答えの間を行き来しながら、途方に暮れることになるのかもしれない。もともと大それた野心があるわけではない。でき得れば豊穣でみずみずしい不安に遭遇したいと願っているだけである。

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