a.k.a.の天井

言語的問題点 的 美点

外国へ行って、帰ってくると、よりつよく思うようになる。ことばが通じることの、なんと幸運なことだろうかと。

料理の注文ひとつだって、慣れない言語でするには、ことばを幾重にもかさねなくては、通じない。その点、おなじ言語でしゃべる者どうしなら、どんなに複雑なミッションだってできてしまう気がしてくる。

ところが、おなじ言語どころか、おなじ長い時をすごしてきた仲でも、ことばを交わすうちに、齟齬がでてくるときもある。

おなじ言語じゃなかったかな、と思う。

おなじ言語を話している、という感覚は、一義的にみえる。

あなたも、わたしも、日本語を話している。だから、日本語で通じあえる。という理論。

それは、大阪弁でも土佐弁でも、標準語とされる東ことばでも、かまわない。使われる言葉の大半が、共通しているからだ。リンゴは、日本中どこへいってもリンゴであり、英語圏ならリンゴでは通じず、appleにする必要がある。

「行きます」というのだって、行くわでも、行くけでも、行くやんでも、通じる。自分の地域のことばしか使わないとしても、聞いてわからないものではないから、通じる。

おなじ言語をはなす者どうしは、その言語で、用を足すことができる。

ところが、この一義性がうしなわれる瞬間がある。その背後にあるのが、文化だ。

言語がおなじである、したがって使う単語もほぼ同じである。だから、話している者は、たがいに意思疎通ができている、と思っている。

それなのに、じつは疎通などしていなかった場合。たとえるなら「がんばって」という言葉を、「応援しているよ」という意味でつかうのと、「努力がたりないよ」という意味でつかうのでは、ニュアンスは正反対である。

そう、ニュアンス。

言語がおなじだからといって、らくらく意思疎通ができるかといえば、そうはいかない、その理由が、これ。意思を通じるための第一のハードルを「おなじ言語をつかう」だとすると、そのハードルを越えた次のハードルが「おなじニュアンスでつかう」だ。

ニュアンスは、地域文化で変化することが多い。おなじ地域に住み、意思疎通をかさねると、ある言葉がしめすあるニュアンスも、その地域の人々のあいだで共有される。したがって、おなじニュアンスで言葉が使用される。

ところが、住む地域や、育った地域がちがうと、ある言葉に付随するニュアンスに差があることがある。それで、気持ちがうまく伝わらない、ということになる。

ニュアンスは、また、文化以外にも、そのときの気分や、言いかたで変化させるという技もある。

人間のつかう言葉が、プログラミング言語のように、純粋に定型的であれば、誤解だって生じないはずだ。なぜ、ニュアンスなんていう、人によって受けとりかたのちがう拡張子をくっつける必要があるのか。

それは、この、人間の言語というものが、まだ発展途上にあるから、ということだとわたしは思う。

詳しくはどうかわからないけれど、言語の始まりは、サルからヒトへ、直立歩行になったことで、咽頭部に余裕がうまれ、鳴き声やさけび声より明瞭で、複雑な発音をするようになった、ということだったかと記憶している。

たしかに、動物たちの発音とくらべれば、人類はとても複雑で絶妙な発音をしていると感じる。

しかし、あくまで比較のうえで、だ。カエルの鳴き声と、オランウータンの鳴き声をくらべたら、後者のほうがバリエーションが豊富だ。それとおなじ感覚で、現在の人類言語と、未来の人類言語が、「後者のほうがよりバリエーションが豊富だ」と言われる日が来ない、なんて誰がわかるだろう。

たぶん、最低限の用を足しているだけなのだ、現在の言語は。だから、ほんとうは、発展途上の言語では通じあえない事象が存在している。それなのに、話す言語がおなじせいで、「通じあえないのは、性格のちがいだ」とか「育った環境の差だ」など、さまざまに理由をつけて、疎通を諦めている。

だれもそれを、言語の不備のせいだ、とは考えない。

最低限の用を足す、ということが、この世界のあらゆるものの、得意とするところだ。世界はむだに装飾的だ、と子供の頃は感じていた。しかしそれは世界の表層にすぎない。人目につかないところで、あるいは、見かけを気にしない人々のあいだで、「最低限の用を足す」ものは重宝されている。よけいな費用をかけずに済むからだ。

最低限の用を足すものは、ときに、美しさをはらむこともある。たとえば、打ち放しコンクリート造の建築物や、天井にむきだしの配管の列。

言語のような、目にみえないものも、この例に含まれるとは、わたしも思っていなかった。

もし、人の言語がコンピュータのプログラミング言語のように、画一的で無機質で、精度を最高に高めた、疎通のためだけの存在だったとしたら、文学も文芸も、存在しない。

詩のうつくしさも、一節の文章にうける感銘も、存在しない。

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