黒幕

黒幕なので 姿は みえません まそれ言ったらこっちが内側だけど

頭をからっぽに、というスキルが最近、巷をにぎわせている。

マインドフルネス、瞑想、心のトレーニング。

現実、世界は煩雑で、考えなくても結果のかわることのない、雑念に、追い回されている。そこから逃れたいと思っている。

そうして、あれこれ細かなことを考える癖のついた脳に面と向かい、考えるな、考えるな……と脳内を空白にしていく努力をし、こころを軽くしようと試みる。

どうやら、これはやはりトレーニングが意味を成しているようで、だんだんと、心が真っ白な状態を作れるようになってきた。

こころを空っぽにするとは、ようするに、「言語の世界から脱出する」ことなのだ。目にうつるものを、「イス」「床」「みかん」と名前で意識するのではなく、ただ、名前をもたないそういう物体があるなあ、と感じるだけになる。

色をみても、「オレンジ」と思わず、その色の感覚だけをただ見つめる。

文字を見ても、それを読んだり、意味を考えたりしない。見ず知らずの記号、みたいな扱いをする。

なるほど、言語の世界を手に入れたことで、文明を花開かせた人類であったが、その代償こそが「こころが言葉でいっぱいになる」という状況だったのだ。

言葉は、代替品でしかない。「イス」は、もともと名前など持たず、座る道具のひとつでしかない。それにイスという名前をつけなくとも、道具として使用できる。

言葉にすることのメリットは、それが身近にないとき、他人に、それの存在を示すことができる点にある。

「イス」という言葉は、イスの本質をひとつも表していないのだ。

となると、「イス」という言葉を聞いただけでは、イスの存在をしらない人は、イスの特徴をひとつだって連想することはできない。イスは、わたしたちの共通語となって、やっと、言葉としての役割を持つにいたった。

言葉はすべて、「参照」しなければ意味がない。「イス」という言葉はある種のコードで、わたしたちは、コード対照表を脳内に持っている。それは経験から作りあげられた。「イス」という言葉を見て、「あの、座る道具のことか」といったん参照し、

それから本来したかった伝達内容に椅子を組み込むのだ。

参照にはエネルギーがいる。銀行の支店番号みたいなもので、987というコードそのものは、どの地域のどんな名前の銀行の支店か、ということは微塵も表さない。コード対照表を見て、そのコードの示す支店を知る。

参照という行動は、疲れるのだ。それで、あたまの中から言葉がなくなると、参照するエネルギーが不要となり、心が軽くなった感じになるのだ、と、さいきんの私の理解はここまで来ている。

さて、本題だ。

わたしたちは、脳をつかって思考作業をしている。言葉を駆使する活動も、言葉を使わないように使わないようにと念じる活動も、脳活動のうちのひとつだ。

わたしたちの行動のほとんどは、脳が行っている。身体をつかってなにかをしよう、ととある行動の手順を考えるのも脳だし、その考えに従って手足や体をうごかすのも、脳の指令による。

熱いものに手が触れたときに引っ込める「反射」は、脳を使用しない。とはいえ、延髄など、脳の機能に比較的近い器官を使用しているので、脳活動に近い。

実行部隊は、手足や臓器。しかし、その司令塔は、脳。

では、その脳に指令を出しているのは何者なのか。わたしはたしかに、「言語の世界を離れて、物体をそのままみよう」と指令した。脳はわたしの命じたとおり、言語の世界を離れ、空間を浮遊している。

それを指令したわたしとは、いったい何者なのだろうか。


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