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短編連載小説 ミッドナイト・シティー


チャプター東京

「このみ」
理仁りひと
 今夜も年下の彼は、部屋に入るなり私を求めた。いや。求めているのは私の方だ。理仁はそれがわかっているかのようなタイミングで来てくれる。

 今日はキッチンで。

 上着をたくし上げ、ブラから胸を解放したまま後ろを向くと、理仁は背中から優しく抱きしめてくれる。彼は私の欲しい言葉を耳元で囁き、欲しい所に指先で触れる。
「んん」
 声が出てしまわないように指を噛む。足の力が抜けて、崩れるように両膝をついた。シンクの洗い物が音を立てる。私はそのまま腰を動かすと、理仁を中まで感じて、その場で果てた。


「このみちゃん。最近、肌のつやが良くなったんじゃない? お化粧かえた? もしかして彼氏、できた?」
 陰キャで誰とも馴染まない私を気遣ってか、バイト先の女店長は今日もセクハラばりに話しかけてきた。
「特に何もー」 
 この質問に対しては、彼氏ができたと両手を広げ大声で言いたかった。今までの私と違う、全身で幸せアピールをしたかった。でも、そんなことをしたら店長は絶対夜のことを聞くタイプの人だ。
「そうなのー。ちゃんとお洒落すれば綺麗なのに」
 こちらを見ることなく、胸に抱えた端末で在庫チェックをしながら店長は去っていった。
 ほっと息を吐くと私は今週末に思いを馳せた。癖毛の髪をストレートにして、人生初のコンタクトも作って理仁を驚かせるのだ。喜んでくれるだろうか。どんな風に愛してくれるだろうか。自分の頬が熱くなるのを感じた。きっと私はヤバいくらいニヤついてしまったに違いない。
 慌てていつもの無表情に戻ると周りを見渡した。どうやら誰にも気付かれなかったようだ。危ない、危ない。そう思いながら私はニヤついた。


 他人と合わせるのが下手だった。母から愛想がないと言われ続けて育った。愛想笑いも気持ち悪いと叱られた。女の子なら、もっと可愛く笑っていなさいと。それだけで幸せになれるのだからと。でも本心が分からない相手と向き合うのが怖かった。だから私は、ずっと着ぐるみを相手にする道化師を演じてきた。
 誰も私を知らない所に行きたかった。最初から私のままでいられれば上手くゆく。そう思った私は無理をして東京の大学に入った。知識よりも女として生きる知恵を身に付けなさいという母から逃げるように、希望をもって憧れのキャンパスライフに身を投じた。
 しかし住み慣れた街で共に過ごした同級生と友達になれない私が、知らない街で知らない人と関係を築けるわけがなかった。サークルはノリが嫌ですぐにやめた。値踏みされているような女子の会話にも入れなかった。結局、勉強しかすることがなく、適当に選んだ学部の成績だけが私の存在証明となった。

 バイトと大学。他に何もない毎日。一人カラオケも、一人焼き肉も限界をむかえ、やがて部屋で一人呑むのが一番自分のままでいられる時間だと気が付いた。
 酒をのみ壁に向かって愚痴を言うようになった。そうしていつベッドに入ったのか、目が覚めると心も頭もリフレッシュできていた。それが徐々にいくら呑んでも眠れなくなり、自分を嫌いな自分と向き合う時間が出来てしまった。
 二日酔いは治っても、自分への嫌悪感は蓄積する。そしてあの日。私は深酒で睡眠薬を飲んだ。世界が歪んで見えると、自分がまともに思えた。遠退く意識の中、誰かが私の名を呼んだ。それが理仁だった。

 朝目覚めると、ぐっすりと眠れたのか驚くほどすっきりしていた。空になった水のペットボトルが介抱の後をうかがわせた。
「きっと吐いたりもしたんだろうな」
 ゆっくりと立ち上がり、申し訳ないことをしたと思いながらカーテンを開けると、心地好い日差と感謝の気持ちで満たされる自分がいた。


「ねえねえ。あんな綺麗な子いたっけ?」
「飯塚さんでしょ? あれは絶対、男だよね」
 入学当初にあった陰口が、また聞こえるようになった。でも内容は前とは真逆で気にもならない。ストレートにした髪を切り、眼鏡をコンタクトに代えると、最初は誰も私だと気付かなかった。そもそも存在を認知されていなければ変わっていないも同じだけど。
「サークル入ってる? タダでいいから飲み会来ない? 気に入ったら、入ってくれればいいから。ね」
 見知った男子が、はじめましてで話しかけてくるのは可笑しかった。今だに普通にナンパしてくる人もいる。全員IQがちょっと高いだけの猿だ。他に使える頭がないから大学に入ったにすぎない。
 バイトがない日は、休みでも大学に通った。そうしないとメイクもしないままダラダラして理仁を迎えることになってしまうからだ。外に出るとなれば髪もとかすし、メイクもする。
 
「あ」
 付き合ってから初めて大学付属の図書館で理仁と会った。同じ大学なのは知っていたが、デレている自分を他人に見られたくなくて、あえて会わないようにしていた。
 昼間に理仁と歩くキャンパスは、とても新鮮だった。夜に満足して、そんなこと考えもしなかった。それからは学食にも行くようになった。みんなの視線を感じるので、出来るだけ普通の態度を装った。その反動か、大学であった日の夜は、お互いの口を手で塞ぐくらい激しかった。


 理仁は私を助けた夜から、心配だからと時折来てくれるようになった。どうやら彼の中では自殺未遂扱いらしかった。
 あの夜ことは、大学が一緒で私に憧れていたとか、たまたま見かけて声をかけそびれて部屋まで来てしまったとか、玄関の鍵が開いていたとか、そんな事を言われた気がするが正直覚えていない。だからといって改めて聞く勇気もなかった。酒で潰れた姿を見られているし、一応命の恩人だし、ただ来てくれるだけで心が休まった。
 辛くなったタイミングで部屋に来て、私が眠るまで一緒にいてくれて、そしてそっと帰っていく。しばらくして私たちは付き合い始めた。そのサイクルは変わらぬまま。
 私が唯一自分を解放できる時間。私が唯一さがさらけ出せる相手。運命としか思えないほど、私たちの歯車はピッタリだった。表面をてからす・・・・潤滑油まで。


「あのー。飯塚さん?」
 珍しく女子から声をかけられた。それは初めてのサークルが一緒だった子だった。凄く周りを気にして声を潜めている。
「友達からは止められたんだけど。ちょっと聞きたいことがあって」
 私はその様子から、理仁のことだろうと直感した。これは彼氏もちを公言できるチャンスだ。
「いいよ。なに?」
「えーと。最近、歩いてる時や学食なんかで話してるみたいじゃない?」
 ほらきた。聞いて聞いて。
「イヤホンマイクじゃないみたいだし。飯塚さん、誰としゃべってるのかなと思って。ごめんね変なこと聞いて」
 あれは彼氏の。と言いかけて、私は彼女の言葉を復唱した。
「誰と? 隣にいる彼の事だよね?」
「隣に誰か居るの?」
 少し身を引いた彼女は、眉間に皺を寄せて私の隣に視線を向けた。
「今は居ないけど。え? 私が話してる時、隣に居るでしょ。理仁」
「あーそうなんだ。そうか、そうか。ありがとう。ごめんね」
 逃げるように立ち去る彼女の背中を見て、私は胸騒ぎがした。その夜、どんなに会いたいと願っても理仁は来なかった。


「このみちゃん、どうしたのー。綺麗になって元気もあったのに、最近顔色まで悪いわよ。振られちゃった?」
「今日で辞めます。お世話になりました」
 相手をするのが面倒臭くなりバイトを辞めた。

 連絡先の交換を失念していた。それくらい理仁が来るタイミングと満足度が高かったと言える。だから当然、喪失感も強い。自分の中に見つかった感情を失った気分だ。
「あの子、独り言激しかった子だよね。最近、不幸被ってない?」
「振られたオーラヤバ。ミスコン出て男漁ればいいのに」
 はっきりと聞こえる陰口が原動力だった。私は毎日大学に行き理仁を探してまわった。学部やサークルでも聞いてみたが、理仁を知っている人はいなかった。それどころか、私と一緒にいる姿を見た人さえ。
 名前も、大学が一緒だというのも嘘だったのかと疑い始めた。
 大学の事務所に行って助けられたことを話すと、忘れ物があると嘘をつき在学していないかだけ教えてもらえるよう頼み込んだ。

「理仁。あなたは、誰なの」
 もう無理だと思った。理仁を知らな過ぎた。満たされて知ろうともしなかった。最低な自分が最悪な結果を招いただけだ。
 部屋の電気もつけず、ジャケットも脱がず壁に背中を預けて座り込んだ。理仁が来た日を思い出す。あの頃の自分はどんな気持ちで生きていたっけ。指にひっかけていたビニール袋から缶ビールを取り出すと、一気に乾いた体に流し込んだ。それは何の効果もなく苦いゲップが喉を焼いた。
 三本目を口にしてから、買ってきた睡眠薬を全部掌に乗せた。
「はは。理仁を呼ぶ儀式みたい」
 あの夜を再現すれば理仁が来てくれるなんて本気で思っていたわけじゃない。ただの悪あがきだ。以前の私に戻る馬鹿げた儀式だ。
 薬を口に含みかけた時、玄関のドアが開く音がした。部屋に入ってくる人影。
「理仁……」


 掌からこぼれた薬が、床に当たりリズムを刻んだ。よろめいて上手く立ち上げれない私を、理仁が両脇を抱えて優しく持ち上げてくれた。そのまま私は理仁に抱きついた。
「理仁……。話したい事があるの」
 久し振りに胸に抱くその存在を堪能しながら、私は理仁を知ろうと口を開いた。でもすぐにジャケットの中に入ってきた腕が、私の背中を抱き寄せ、絶妙な拘束に腰が抜けそうになる。
「理仁、聞いて?」
 話をするため体を離そうとするけれど、理仁は私を離さないままベッドに運んだ。

「あ、はっ」
 快感が全身を駆け巡り、足の間に埋まった理仁の頭を掴んだ。このまま果ててしまいそうだった。
「理仁。理仁。あなたは。誰なの」
 私は漏れる吐息に、なんとか言葉を乗せた。理仁が顔を上げるのがわかった。
「このみが僕を呼んだんだよ?」
 胸を撫で膨らんだ先端を指先で転がしながら、理仁が私の顔を覗き込んできた。
「私が、呼んだ?」
「そう。だから僕はいつでも君に応えた。なのに最近、僕を疑ったでしょ」
「んっ」
 ゆっくりと理仁が中に入ってくる。私の反応を確かめるように理仁の顔が上下する。いつもは影になって見えない理仁の顔が、今夜は鮮明に見えた。飛びそうな意識の中、それはコンタクトを外していないからだと気が付いた。
 理仁の睫毛が上を向いた。私を見つめる瞳。瞳の中の。
「いや!」
 一気に意識が覚醒して、私は思わず理仁の胸を突き飛ばした。その瞳に私が映っていなかったから。
 両手で突き飛ばしたつもりが片手を上げていた。もう一方の手は私自身の中に指を忍ばせていた。そこに理仁の姿はなかった。


「理仁!?」
 状況を把握するのにしばらくかかった。そして飛び起きた私はキッチンへ走り水をかぶると、そのまま部屋中を見渡した。隠れられるほどの広さなんてない。踏みつぶした薬が嫌な音を立てた。恐る恐る玄関を確認すると鍵がかかっていた。自分の頭がおかしくなったのだと思った。

『このみが僕を呼んだんだよ』

 望まない毎日に疲れた私は。限界を迎えた私の精神は。自分を癒す存在を求めた。そしてあの夜、理仁を呼んだうんだ
「そんな事って」
 自慰なら驚くほどの相性も理解できなくはなかった。でも昼日中、人目の多い大学で会っている。
「そっか」
 それほど私は理仁に依存し、壊れかけていたんだ。そしてそれは、私の中で理仁の自我をも生み始めてしまっていたのかもしれない。

 私は部屋を出ると駅まで歩き電車に乗った。とてもそのまま寝る気にはなれなかった。理仁が来てしまう怖さもあった。
 自分が変われると思った新生活は叶わず、少しずつズレてしまった歯車を、私は偽物で誤魔化してしまった。現実を受け止めないといけない。その為にも東京から出ないと。
 東京に逃げて来たのに、今度は東京から逃げようとしている自分の成長のなさが情けなかった。
『だから言わんこっちゃない!』
 実家に帰った時の母の表情が目に浮かんだ。面倒臭いと思いながらも、どこか安心している自分がいた。

 東京駅に着くまでの間、夜行バスを調べ残っていた電子チケットを買った。とりあえず実家に向かって、あとの事は落ち着いてから考えよう。
 夜行バスの列に並んでから、手ぶらで怪しまれないだろうかと思い始めた。運転手にチケットを見せ、乾いて癖を取り戻した髪を手櫛でとかしてバスに乗った。
 ほどよい空調と、規則的な振動が眠気を誘った。もう二度と理仁を呼ぶもんかと胸に誓い、私は瞼を閉じた。

〈チャプター東京〉



チャプター渋谷

「ここまでこられましたのは、一重にカンパニーの頃より、お力添えいただいた皆様のおかげです。その感謝もこめ、今日は盛大にアバロンコーポレーションの第一歩を祝いたいと思います。どうぞ楽しんでいってください。今後とも、よろしくお願いします! 」
 大河たいががスピーチを締めくくると、ゲスト達の歓声と一緒にDJの流すクラブミュージックがボリュームを上げた。私は離れた会場の隅で、飲みもしないシャンパンを片手に、体も心も動かさずに視線だけを窓の外に向けた。
 眼下には何故だか世界的に有名になった渋谷のスクランブル交差点。その上で群衆が描く意味を成さないドット絵が、徐々に幾つもの線となって放射線状に散ってゆく。そしてその軌跡を拭き取るように車が流れだす。
 二人で夢見ていた未来図は、着実に描かれていた。はずだった。でも気が付けばそれは私達を置いてけぼりにして、見える景色だけを変えていた。
「私だけか」
「何が?」
 額をコツンと窓ガラスに当てると、影になった部分に花束を抱えた大河が映っていた。今日の主役でもあるアバロンコーポレーション社長の大河は、一歩あるくごとに人に囲まれる。それを抜けて、わざわざ私の所まで来てくれたわけだ。
「ううん。おめでとう」
「パートナーとして隣に居てよなぎ
「嫌だよ、恥ずかしいもん」
 大河は少し頬を膨らませて肩をすくめた。
「俺のスピーチどうだった」
「泣けた」
「即答じゃん。泣いてないじゃん」
「ほら、みんなが呼んでるよ社長。夢の第二ステージ、頑張って」
 無邪気な笑顔を見ていたら、また気持ちが揺らいでしまう。私は大河に後ろを向かせると、送り出すようにその背中を叩いた。
「後で呼ぶからステージまで来てよ」
 振り向いた大河の目を私は真顔で見つめた。
「サプライズなら止めてね」
「えっ」
「この大舞台で恥はかきたくないでしょー」
 私はもう一度、大河を振りかえらせて背中を叩いた。会場の外に設置された温水のナイトプールから、パーティーの彩りに雇われたキャンペーンガールやラウンドガールの経験がある女性たちが手を振っている。プールサイドのカクテルバーでも来賓客が大河に手招きをしていた。皆、パーティーの熱気で寒さも感じないらしい。
「ほらほら!」
 両手で背中を押すと、大河は「終わったら、ちゃんと話そう」と言って振り向かずに消えてくれた。私は、眉間に皺を寄せ涙をこらえる顔を見られずにすんで助かったと思いながらシャンパンを飲み干した。初めての味は、喉に痛みだけを残した。


 大河だいがと出会ったのは、十八歳になった当日のセンター街。耳が痛くなるほど風の強い日だった。
「この曲、好きなの? 俺も好き」
 私が落としたイヤホンを自分の耳につけ、それを指で叩きながら軽く声をかけてきたのが大河だった。
 音楽の趣味が合って、他愛のない話を重ねるうち、会う時間も増え気兼ねしない友人になっていた。そんな私の気持ちに変化があったのは、珍しく大河が夢を語った時だった。
「システム構築に資金を割けない小さな企業をバックアップする会社を作りたいんだ」
 熱く語られる言葉の中に、たくさん聞き覚えのある言葉カタカナは出てきたけれど、正直具体的に何をしたいのかはわからなかった。でも、応援したい。支えたい。叶うなら一緒に夢を追いかけたいと思った。それは単に、大河の熱にあてられたのか。それとも恋愛感情を抱いていたのかは、今もわからない。
 どちらにしろ私の願いが誰か様に届いたのか、大河の方から同居の申し出があった。お互い学生で生活費を切り詰めるには一番有効な手段だったし、気を使わなくて楽が常套句だった。
 同居をきっかけに大学を辞めると、二人で夢に向けて動き出した。大河はまず人材集めとスポンサー探しに奮闘し、その間私は塾講師で二人の生活を切り盛りした。そしてアバロンカンパニー立ち上げに漕ぎ着けると、今度は必死に営業回りに勤しむ大河を、運営を管理する事で手伝った。カンパニー立ち上げメンバーも、時には無理をしてまで頑張ってくれた。そうした内に、私はパートナーだと紹介されるようになり、そしていつしか付き合っていた。
 居心地が良かった。パートナーと紹介されるのは支えている実感を得られたし、寒く狭い部屋だって愛を確かめ合う事ができた。分けあって食べたカップ麺が今でも一番のごちそうで、笑顔で夢を語り合えた。
 あの頃、私達は夢を食べて暮らせていたのに……


なぎさん」
「あら専務。お疲れ様」
「やめてくださいよ。常務」
 肩書きいじりで笑い合った志斗しとくんは、大河が一番最初にアバロンカンパニーの一員として口説き落とした弟みたいな子。大河の右腕にして良き理解者だ。
「大河さんと一緒に回らないんですか?」
「それは、あなたの役目。私は日陰でいーの」
「日陰だなんて! 後で日の目を見ることになりますよ」
「サプライズなら断った」
 いたずらっ子みたいに微笑んだ志斗くんの顔が、私の言葉に固まった。

「断ったって……え? サプライズの内容聞いてます?」
「それサプライズて言う?」
「そうですけど。えー?。でもサプライズはバレてるし」
 笑う私に、志斗くんは頭を掻いて困り顔。
「女の勘てやつ? 当たっちゃったから断った」
「どうしてですか! 二人の夢を掴んだのに」
「そうねー。掴んだねー。志斗くんはさ。ゼンマイのおもちゃって知ってる?」
「ゼンマイのおもちゃ、ですか? 後ろに引いて手を離したら走る車、とか?」
「そうそう。そのゼンマイは分かる?」
「銅板を巻いたようなやつですよね」
「それ。伸びちゃったゼンマイは、もういくら巻いても前みたいには動かないんだって。交換するしかないんだって」
「それ、二人の事と関係ありますか?」
 私は窓の外を見る。ガラス越しに真剣な志斗くんの顔が見えた。
「夢がね。夢じゃなくなっちゃんだ。アバロンカンパニーが軌道に乗り始めたら、大河はたっくさんプレゼントをくれるようになった。ブランド品だったり、豪華な食事とか」
「それは! 和さんが大河さんの為に苦労をしてきたから。その感謝と、これから恩返しをしたいっていう」
「分かってる。分かってるよ。嬉しくないんじゃないの。でも掴んだ夢は形が違ってた。とっくに、みんなの夢になってたんだよね。私は苦労なんてしてないし、感謝とか恩返しより傍に居たかっただけ」
「だったら、なおさらじゃないですか!」
 真っ直ぐな視線で志斗くんの声に力が入る。そうやって向き合ってくれるのは嬉しい。
「わがままなんだけど、私はやっぱり昔の大河が好き。今の志斗くんも、みんなも。だから、みんなの夢を育てて欲しい。邪魔はしたくない。だから交換。ごめんね。パートナーは任せたよ。私はあそこに居られない」
 私の目線の先には、プールサイドのカクテルバーで、みんなに囲まれている大河たいががいた。みんなの前途を祝して、今日という日の為に揃えた高価なお酒が私の代わりに日の目を見ている。室内に目を移すとDJの音楽に合わせて色を変えるスポットライトの中、来賓客が躍るホールの両脇に特設したポール付きの台の上で、ダンサーが踊っている。
「やりすぎだとは思いますけど」
「え?」
 どうやら私が巡らせた視線を、志斗しとくんは非難と受け取ったようだ。
「ちょっと。手配したの全部私なんですからね。いいじゃない今日くらい。ある意味ゴールでもありスタートなんだから。喜びを凝縮した時間を過ごして欲しいよ」
 ただ私には不釣り合いなだけ。とは声に出さず笑った。
「さーさー常務も遠慮なさらずバブルな気分を頭まで浴びちゃってください。頑張って準備したんですから!」
 志斗くんが口を開く前に、私は会話を誤魔化してパーティーに戻らせた。正直、今の自分の気持ちなんて言葉で説明できるものでもないし、説明できるほど自分でも理解はできてない。でも突然な思い付きではなくて、少しづつ考え続けて決めた事。そして今日を決行日にした。


――ここまで連れてきてくれて、ありがとう。これからも、頑張って

 私はそっと支度をすると、もう一度パーティーの中にいる仲間一人一人に、感謝の言葉を視線で送った。気付いた何人かに手を振る。
 明日からしばらくはメンテナンス以外の急務もないし、みんなのんびり出来るはずだ。私が居なくなって多少バタついたとしても、会社は揺るぎはしない。すぐに生活は日常に戻る。大丈夫。自分の背中を押すように言い訳をして、私はホール脇をバックヤードに向かった。途中、私に手を振ってきたダンサーに手を振り返した。高校時代プロのダンサーを目指していた友達にダンサーを紹介してもらえるか連絡すると、本人が快く引き受けてくれた。ポールもパーティー内容を聞いた彼女の提案だった。自分の夢を掴み取り、風になびく綺麗なドレスと音楽を纏って舞う彼女の姿は、今の私の目には眩しく美しかった。

 外に出ると住み慣れた街の空気を大きく吸い込んだ。吐いた息をビルの壁面から駆け下りて来た強風に攫われ、私は肩をすくめてポケットからスマホを取り出した。
 実家に帰るための夜行バスの電子チケットを確認すると、私はさっきまで居たパーティー会場を仰ぎ見た。窓からは色鮮やかな光が溢れ、勝利の美酒に酔うみんなの声が聞こえてくるようだった。今度は自分の夢を見つけて追いかけよう。過去の夢から覚めドットのひとつになった私は、もう線にはなるまいと駅に向かって地下通路に降りた。

〈チャプター渋谷〉


チャプター池袋

「戻りましたー」
 有名なアニメショップの本店や乙女ロードと呼ばれる女子オタクの聖地。そこから池袋駅を跨いだ反対側。あちらが昼の街なら、こちらは夜の街。ラブホテル街の路地裏にある雑居ビルの二階。趣味の違うコスメの匂いが混ざった2DKが私の居場所。
 キッチンを抜けると、電話をしながら手を上げて挨拶してきた男性とは反対側の部屋に向かった。
「入りまーす」
「おかえりなさい」
 仕切りカーテンの向こうには、耀く天使の笑顔が待っていた。
「あー若菜わかなちゃーん」
 私は倒れこむように、その小さな体に抱きついた。この待機部屋に居て数年。新人の若菜ちゃんが私の唯一の癒しだった。
「ヒカリさん、入金お願いします」
「ああ、ごめん今行く」
 若菜ちゃんの頭を両手でおさえると、私はそこに顔をうずめて一気に息を吸い込んだ。そして声を出して笑う若菜ちゃんに未練たらたらで部屋をでた。

「ヒカリさんはー。はい。オプション込みで確かに」
 持ち運ぶには不便な手提げ金庫に、私の値段がしまわれた。売上金は車で送迎の時は、その場で渡すのだが。使用したホテルが近い時は、歩いて戻って来て渡している。
なおくんはさ。何でこんなバイトしてるの? 若いのに、もっといいのあるでしょ」
 金庫を片付けノートパソコンと向く合う直くんに、私は珍しく声をかけた。パソコンの画面には、私達のGPS情報が表示されたマップが映っている。
「自分が聞かれたら困ること聞くんですね」
「あ、ごめん」
「別に俺は困らないですけど。訳ありでもなくて時給で選んだだけなんで」
「そっか。でも真面目だね。前の人はゲームばっかしてたし、売り上げも誤魔化してたみたいだし」
「真面目じゃないですよ。ただ海も山もどっちも嫌なんで」
「冗談きついなー」
 私は上手く笑えないまま部屋をあとにした。前の人は消息不明だと聞いていた。彼が言った海も山も。それは沈めらるのも埋められるのもと言う意味で、もちろん冗談だ。

 待機部屋に戻ると若菜ちゃんがBL漫画を読んでいた。私はどうも歌劇の男役みたいな男性も、小動物みたいなあざとい・・・・系の男子も苦手だ。
若菜わかなちゃん若くて可愛いのに、何でここで働いてるの? パパ活の方が良くない?」
 私は定位置に座ると、自分のバッグから取り出したマイボトルをあおった。今日はどうも饒舌だ。
「うーん。こっちは一本数千円。あっちは一発で数万円。桁違いで割りは良さそうですけど、売ってるモノが違うって言うか。こっちは性的サービス・・・・・・を売ってる訳で、あっちは性そのもの・・・・・で自分を売るのが嫌なんですよね。そもそもこっちは合法ですし。けつもち・・・・さんもいるし」
 その可愛らしい姿からは想像も出来ない、しっかりとした答えが帰ってきて面食らってしまった。私より大人だ。ちなみにけつもち・・・・さんは、私達とお客の間でトラブルが起きたときに、方法問わず解決してくれる謂わば用心棒だ。フリーのパパ活のデメリットは大きい。
「私にとっては目標達成の為のバイトのひとつですけど、ヒカリさんこそ綺麗なんですから絶対高級ソープいけると思うんですけど。ここより断然待遇もいいし」
 フォローもできるなんて若菜ちゃんいい子。私は若菜ちゃんに抱きついて、その耳元でささやいた。
「そしたら一番最初のお客さんになってくれる?」
「それ体目的じゃないですかー! 私BLにしか興味ありませんー」
 耳を赤くして両腕で私を突っぱねる若菜ちゃんは、ずっと一緒に居たいくらい可愛い。そして思う。私はこのまま年を重ねたら、街角に立って酔っ払いに体を売るしかなくなるよなと。


 私は自分の見た目に自信があった。幼い頃から愛想がよく、地元のアイドル的存在だった。八方美人だと嫌っている子もいたが、全然気にもならなかった。私は心から笑っていたから。
 私の話を聞いて笑ってくれるのが嬉しかった。私が歌ったり踊ったりすると、笑顔になってくれる人がいるのが幸せだった。
 いつからか私は、ライブ動画の中のアイドルに憧れ、なりたいと思っていた。プロの手にかかれば、私だってアレくらい輝けると根拠のない自信だけが膨らんだ。そして中学生になるとネットや雑誌で、その世界への入り口がそう遠くない事に気付いた。
 親に内緒でオーディションに幾つも応募した。返事が来ることもなく書類だからダメなんだと思った私は、会ってもらえさえすれば絶対にと月一で東京に通うことにした。親には友達と一緒だと嘘をついて、スカウトされそうな場所を一日うろついた。
「興味があったら見学だけでも」
 初めて名刺を差し出されたのは中二の夏だった。スーツを着て汗を拭く中年男性は、とても嘘を言っている風には見えなかった。親と一緒でもいいと言うので、日を改めて約束をした。
 案の定、親からは猛反対を受けた。でも以前親が言った「知る前から否定するな」という言葉を引合いに出して見学まで漕ぎ着けた。

 小さなステージに、ギュウギュウ詰めにされた平均年齢高めのファン。初めてのライブ会場に親も私も緊張していた。正直印象は良くなかった。でもステージのライトが点灯し音楽が鳴り始めると、いっきに会場がひとつになるのが分かった。同じ事務所の三つのグループによるフェスは全ての人を笑顔にした。
 歌も踊りも、とても上手いとは言い難い。ただ精一杯のパフォーマンスは、それを上回る生命力に溢れ、私も親も魅了された。
竹中たけなかさん。彼女たちのステージ、いかがでしたか? まだまだ小さい事務所ですが、徐々に注目を集めてきています。本来これはオフレコなのですが。ひかりさんをメインに次のグループを考えています。光さんにとっても良いチャンスかと思います。心配でしたら寮もご利用いただけます」
 私に声をかけてきた男性は、名刺に肩書がないまでも事務所の社長だった。衣装から楽曲の依頼、会場の手配までほぼ一人でこなしていた。根っからアイドルが好きでプロデュースしているのだろう熱量を親も感じていた。そこで高校に行くことを条件に、私は寮生活でのアイドル活動を許された。


「寮みたい」
「え? なにがです?」
「ん? ここがさ。寮みたいだなーて思って」
 10畳ほどのフローリングに開けっぱなしのクローゼット。物が置けるのは、テーブルの上と自分のカバンの中だけ。
「ヒカリさん寮に住んでたんですか?」
「一時期ね」
「こんな相部屋だったんですか!」
「あ、全然。ちゃんと部屋があったんだけど、なーんかみんな、ひとつの部屋に集まってた。人生の何ページかを共存してたなって」
「青春ですか? それに比べたら、ここは一日の数時間じゃないですか」
「でもほら。ここに来れば誰かいるじゃない? 家だと一人だからさ」
 確かに共有した時間の濃さは比べ物にならないかもしれない。ただ、あの頃の倍の年齢にもなって古傷が疼いてしまっているのかもしれない。

 最初の一年はレッスンで大変だったが、アイドル活動は本当に夢の中のようだった。ステージは小さくても、スポットライトと歓声を浴びた私は、誰よりも輝くことが出来た。
 固定のファンを増やすためにSNSを始め、嬉しいことにグループで一番グッズが売れるようになった。まだ芸能界とは言えないほどの小さな世界だった。でも私にはそれが全世界で、その中で名が知られてゆくことで大満足だった。
 やがて各地でのイベント出演が増えると学校との両立が難しくなり始めた。遠征とレッスンで疲れた体には、授業中の環境は快適すぎて瞼を閉じさせた。
 親には相談できなかった。アイドルをやめたくなかったから。でも社長に相談してもスケジュールを埋められるばかり。そして卒業どころか進級まで危うくなり、親に言うしかなくなった。


「分かりました。ひかりさんは、これからなのに残念です。では、まだ出資分の回収をしていただけていないので、ご返済をお願いします」
 事務所の社長に電話した親が聞かされたのは、今までの費用は借金となるので、事務所をやめる場合はうん・・千万という返済が必要ということだった。もちろん親は反論した。訴えるとも言った。しかし事務所が提示した請求は、ダンスレッスン費用、ボイストレーニング費用、宣伝費、衣装代、楽曲制作費、グッズ製作費、ライブ費用、交通費と、どれも筋の通った請求だった。
「こちらもイメージ商売なので高校は卒業していただかないと困りますので、今後考慮させていただきます。卒業後、レコード会社からのメジャーデビューが決まれば返済の心配もなくなると思いますし、続けていただければと思いますが。いかがでしょう?」
 反論できなくなったところに社長からの妥協案。親も私も、まんまと乗っかってしまった。いや。ほかに道がなかった。そして高校卒業はできたもののアイドル活動は横ばいで、費用がかさみ事務所への借金だけが増えていった。
 事務所を辞めるには返済が必要で、それにはアイドル活動だけでは到底無理だった。やがて借金を早く減らす手立てとして、肌を慮出する仕事もするようになり過度な要求も増えていった。そしてアイドルとして年齢だけが天辺に近づいてきた頃、アダルトビデオの話をもちかけられた。もう私も馬鹿ではなかった。体を売り、それを不特定多数に晒すのも嫌だったし、何より無修正で安価で出回るだろうことは想像がついた。
 アダルトビデオの話をきっかけに私の中で踏ん切りがついた。事務所にとって私は、もう、お金をかける価値がないお荷物だった。だからそれを逆手に取って、私は借用書を作りきちんと借金を返すことを条件にして事務所を辞めた。
 返済効率重視で風俗を転々としてゆく中で、最後に辿り着いたのがここ。ホテルヘルスホテヘル『恋人倶楽部』だった。デリバリーヘルスデリヘルと同じ『無店舗型』だが『受付用の店舗』があり、ラブホテルのみの使用なのが安心できた。


「青春だったのかなー。一瞬夢の中に居た気もするけど、覚めてみたら悪夢みたいな」
「あれですか。女子が集まる所に派閥あり。グループに分かれるとギクシャクしちゃいますよねー。それに比べたら、ここはそんなことないですし。割り切れれば、お客様に夢をみせるお仕事ですし。あれ? アイドルみたいですね」
 私の感傷をよそに若菜ちゃんが眩しく微笑む。この笑顔なら夢だって見せられるだろうと納得してしまった。
若菜わかなちゃんの目標てなんなの? 聞いて良ければ」
「留学です」
「留学? 遠征じゃなくて?」
 予想外にしっかりした答えだったので、つい変な返しになってしまった。
「遠征って。まさかアーティストの追っかけじゃないんですから。もしかしてヒカリさん追っかけしてたんですか」
 どっちかというと追っかけられる側だったんだけどね。と、悪戯ぽく笑う若菜ちゃんを見て思う。私もこんな風に笑えていた時があったのかなとも。

なおくん。今日もういいかな? お客さん取れる時間じゃないし」
「あ、ヒカリさん今日早いんでしたっけ。送らなくていんですか?」
「うん、大丈夫。まだ電車あるから。ありがと」
 今日で店を辞めることは誰にも話していない。辞める理由が、嫌いな人が居るわけでも、店に不満があるわけでもなかったし、特に言うタイミングがなかっただけだ。それに。旅先の車窓を、たまたま共有したように。人生でほんの少し同じ道を歩いただけの関係だ。そう思わなければ気持ちが揺らいでしまう。
「ヒカリさん、もう帰るんですか! ちょっと待ってください」
 荷物をまとめる私に声をかけた若菜ちゃんはキッチンへと向かった。
 その隙に、メイクスペースの隅にまとめた自分のメイク道具の隙間に、若菜ちゃん専用と書いたメモ書きを差し込んで立ち上がった。そこへ紙袋を持った若菜ちゃんが戻ってきた。
「はい、これ」
「え?」
 一瞬、どうして辞めることがバレているんだろうと気まずさを覚えた。
「やっぱりー。明日お誕生日じゃないですか。日にち変わったらお祝いしようと思ってて。ケーキ、お家で食べてください」
 涙を我慢できなかった。誤魔化すように若菜ちゃんに抱きついた。嗚咽だけはもらすまいと、シャンプーが香る髪に顔を埋めた。
「え!? 泣いてます? ヒカリさん、そんなにケーキ好きでしたっけ!」
 私を抱く手に体の震えが伝わったのだろう。泣いていることはすぐにバレてしまった。私は若奈ちゃんの顔を正面に見据えると、かつてはファンを魅了しただろう満面の笑みで答えた。
「うん! 大好き!」


 電車に揺られながらスマホで夜行バスのチケットを確認した。時間にはまだ余裕がある。
「じゃあ、お疲れ様ー」
「よいバースデーをー」
 未練を吹っ切るように部屋を出る私に、元気よく手を振ってくれた若奈ちゃんの姿を思い出して、また気持ちが揺らぐ。
 事務所への返済が終わった頃には、社会経験もない私にはもう身の振り場もなく今の生活を続けてきた。単に生活を変化させることが面倒だったとも言える。夢も希望もなくなった東京で、ただ同じ生活を繰り返しているのが楽だった。
 特に不健康な食生活をするでもなく、仕事以外にはすることもなかったから、それなりに貯えもできた。そして今度の誕生日に東京を出て実家に帰ろうと決めた。それだって何か目的がある訳じゃない。きっと、それはそれで東京と違った同じ生活を繰り返すんだろう。
「それにしても」
 私はスマホの画面をタップする。恋人倶楽部のような店で働く人は、何かしらの事情を抱えている人が多い。その為お互いプライベートに関わるのは暗黙的にタブーになっている。だからこそ若奈ちゃんの笑顔で気持ちが揺らいだのだ。それなのに。
「型破りな新人だなー若菜わかなちゃんは」
 ケーキと一緒に紙袋に入っていたメモ用紙。そこに書かれていた連絡先を私は自分のメッセージアプリに登録した。

〈チャプター池袋〉


チャプター新宿

 東京一の繁華街。つまり日本一の繁華街。酸いも甘いも知り尽くした者でさえ、油断すれば足をすくわれ飲み込まれてしまう大人の楽園。そこから西へガードをくぐった先に、私が医師として非常勤務していた新宿医科大学付属病院があった。
 事件や事故、病気に原因不明と。土地柄なのか深夜外来には、語れない者から語らない者まで様々な患者が訪れた。その特異な状況に初めこそ感情を乱され診断に戸惑うこともあったが、私も他の人同様に環境に慣れていってしまった。
 そんな中。四年経った今でも忘れられない出来事があった。あの時。女医だからこそ出来ることが他にあったのではないかと考えてしまう時がある。でも答えはみつからないままだ。

倉本くらもと先生。十四歳の女の子が腹痛を訴えて、お母様と一緒においでです。外来の処置室に」
「わかりました。あーと。一応、採血とエコーの準備お願いします。ただの月経不順かもしれませんけど」
 厚い唇が艶かしい看護師は、あからさまに「診てから言ってよ」を含んだ「はい」を残して去っていった。気持ちは分かるが、外来だからこそ迅速に終わらせたい気持ちがあった。緩慢は時に命取りになりかねない。日本医療情報学会の論文を読んでいた私は、白衣を羽織ると処置室へと向かった。
新蔵にいくらさん?」
 処置室入口前の長椅子に、悪夢でも見て怯えているような表情を浮かべた女性が座っていた。
「あ、はい」
「娘さんは?」
姫乃ひめのは。えーと、トイレに」
 他に気がかりな事でもあるのか、心を置き忘れてきたかのように母親の反応は鈍かった。
 外来病棟は新設された正面入口側の建物と違い、改装もされず昔のまま。私はひとつ起きに蛍光灯のついた薄暗い廊下をみやると、廊下に飛び出したトイレと書かれたプレートに向かって歩きはじめていた。
 具合の悪い娘に付き添って来ていながら、こんな心細いトイレに一人で行かせるものなのか。一瞬過った考えを否定した。医療現場以外で不慮の事態にあった時、自分が冷静でいられる保証はない。身内のことならなおさらだ。今は母親も患者と同じに気遣ってあげないと。
 一瞬の思考の間も私の足音が廊下に響いていた。普段からそんな歩き方はしていないのに無意識に気が張ってしまっているのか、やけにうるさく感じた。


 すりガラスが嵌った古い扉を押し開けると、耳障りな軋み音が不安を掻き立てた。女子トイレに入ると、間に合わなかったのか個室の扉に背を付け、タイルの床に座り込んでいる少女がいた。
新蔵にいくらさん!」
 その横顔には正気が感じられず、顎をあげて天を仰いだ視線は焦点が合っていないようだった。そして立てられた両膝の隙間から、タイルの表面よりも鮮やかな血溜まりが見えた私は駆け寄った。

「初経?」
 それにしても量が多い。少女の正面に回り込むと、下着を腿まで下ろし、腹部を両手で抱えていた。かなりの痛みがあったのだろう。そして彼女に触れようと屈みこみ、血溜まりの中に目がいった私は息をのんでしまった。そこに赤い塩化ビニールのおもちゃのような胎児が堕ちていたからだ。

 すぐに彼女を集中治療室ICUに運び込んだ。結果、体に問題はなく病室に移すことができた。小さな体が悲鳴をあげて早産となったのが功を奏したと言えた。しかし少女の瞳は虚空を見つめるばかりだった。
 胎児は新生児集中治療室NICUに運ばれた後も息をすることはなかった。はたして生れ出た瞬間に産声をあげたのか、その声を母となる少女が耳にしたのかは定かではなかった。

「娘さんのお相手に、心当たりはありますか?」
 分かりませんと答える少女の母親は、落ち着きなく終始何かに怯えているように見えた。
 私の声に少女が反応を示し始めると、その口から驚愕の事実を聞かされる事となった。それから彼女の父親と警察が到着したのは、ほぼ同時刻だった。


「娘さんのお相手に、心当たりはありませんか?」
 母親が気付いていなければ、父親は尚更だろうと思ってはいたが、これまでの経緯を話したあと質問をしてみた。やはり分かりませんと答えたが、握りしめた両手に何かを封じ込めているように見えた。
 病室に両親を招き入れ、少女の容態を説明した。その間、母親は下を向き、父親は娘に盗み見るような視線をおくっていた。少女は黙って目を閉じていたが、眼球が動いているのが見てとれた。
「体力が戻れば問題なく退院できますので、ご安心ください。ご質問などあれば後ほど。それでは刑事さんと変わりますね」
 私は彼女の体の事だけで説明を終わらせた。親ともなれば気が動転して、状況を把握したり適切な会話をするのは難しいものだ。しかし、ひとつも娘を心配した言葉がでないことに私の疑念は膨らむばかりだった。今両親は精神的ケアの相談ができる相手ではないと判断した私は、刑事と入れ替わりに病室をあとにした。


「確かに本人が言ったんですね?」
 別の刑事の聴取を終えた私は、駆けつけた院長と当直の医師に相談をした。正直未成年の妊娠自体は珍しくなかった。それでも事件によるケースは希だった。
「はい。新蔵にいくら姫乃ひめのさんのご家族は、ご両親と兄が三人。そしてその中の、発達障害の兄に無理矢理にと。それは日常的だったようです」
「そうですか。迅速な処置ありがとうございました。今はまだ精神的に不安定でしょうし、信憑性を問うのは私たちの仕事ではありません。警察には?」
「伝えました。本人にも確認していると思います。胎児のDNAサンプルの用意も」
倉本くらもとさん」
「はい」
「それは警察が判断することです。医療行為を逸脱してはいけません。姫乃さんが無事に退院できるようにするのが私たちの仕事です」
「だからこそ」
 一歩前に出ようとした私の肩を、当直の医師が抑えた。そして私を諭すように首を左右に優しく振った。
 分かっていた。分かってはいたが、発達障害の兄が誰にも悟られずに彼女を襲うことが出来るとは思えなかった。ましてや日常的になど。だから私は父親か他の兄が、罪をなすりつけてしまう恐れがあると危惧していた。それでは少女の地獄は終わらない。
「心配なら精神科医への招待状も書きます。できるのは、そこまでです。いいですね。私たちが患者さんに出来るのは入院中におけるサポートです。それ以上でも、以下でも、ありません」

 彼女は退院後、家族ごと音信不通になった。どうしているのか、どうなったのか、警察が教えてくれる訳もなく、私と彼女の接点は病院で終わってしまった。
 その後ニュースを気にしていたが、それらしい報道もなく、きっと発達障害の兄には責任能力がなく病院に入れられて終わったのだろうと思った。
 私の中で家族への疑いが晴れることはなかった。ただ敗北感を抱えながら少女の幸せを祈るしかなかった。そして二年前。親の介護に伴って実家に戻り、小さな町医者になっていた私のもとに、奇跡的にも彼女の情報がもたらされた。


 当時の新宿医科大学付属病院で懇意にしていた看護師が、今勤めている病院内で新蔵にいくら姫乃ひめのを見かけたと言うのだ。飛んで行きたかった。しかし、ここを離れる訳にはいかなかったし、覚えられているかもわからない私に心を許すとも思えなかった。だから私は手紙を託した。
 手紙には私が当時の主治医だったこと。会って話がしたいこと。もしも家庭内のことで抱えていることがあるなら相談に乗ること。意思があるなら当時の真相を明らかにする手段があることなどを綴った。
 私の手元には胎児のDNAサンプルがあった。もちろん同意もないし合法ではない。たとえ鑑定結果を警察に持ち込んだとしても証拠の効力はない。ただ真犯人に結果を突き付ければ、彼女を自由にしてあげられると信じていた。
 看護師の話では、手紙は受け取ってくれたらしい。その後、通院はしていないという。住所を調べてもらうよう頼むことも出来たが、私の勝手な思いで不適切なことをさせるわけにはいかなかった。
 十六歳の彼女から連絡がないまま二年が過ぎた。全ては私の思い込みだったのかもしれない。もう本人はあの夜のことなど忘れて幸せに暮らしているのかもしれない。そう思えたなら。そうだったなら。
 嫌なニュースを見聞きする度に、あの夜の光景が脳裏をよぎった。タイルの床の上で鮮血に染まった胎児。感情が抜け落ちたように光を失った瞳。危なげな家族と消えた少女。

「あなたは今、何処でどうしているの」
 老人ばかりで深夜ともなれば静かすぎる町だ。ついつい物思いにふけってしまう。精神衛生上、良くはない。
 寝ようと電気を消した時だった。こんな時間に珍しく携帯電話が鳴った。急患なら家の電話が鳴るはずだ。画面の非通知という文字に胸騒ぎがした。
「もしもし」
 相手は無言だった。切られたくない私は、あえて昔の病院名を名乗った。
「新宿医科大学付属病院の倉本くらもとです」
「あ。あの。新蔵、姫乃です。前に。お手紙頂いた」
 自信無げなその声は、記憶の中にある声よりも大人びていた。生きていてくれた。私は涙声を悟られないように、彼女の決意に耳を傾けた。そして心から安堵した。
「わかった。待ってるね」
 電話の通話が切れた音を聞いた私は、電気をつけキッチンに向かうと朝ごはんの下ごしらえを始めた。

〈チャプター新宿〉


チャプター六本木

 色とりどりのライトが煙草の煙に溶け、怪しげな色合いに包まれた店内には幾多の言語が飛び交っている。プロのダンサーを目指し海外に飛び立つはずだった私は、皮肉にもここで英語を学んだ。
 テレビインタビューなどの撮影場所として多く使われる六本木の交差点。そこを通る高速道路の高架下をくぐり東京タワーが望めるほど歩いた所に、私が躍っているトップレスバー『ロッカーズ』はある。元々は外国映画に出てくる片田舎のダイナー風だったらしいが、今ではトップレスバーに様変わりしていた。もちろん表立ってトップレスバーとは謳っていないし、女性店員が全てトップレスなわけじゃない。ウエイトレスは白いシャツの胸元を大胆に開き、ギリギリのチラリズムを演出していた。
 トップレスは店のダンサーに一任されている。要はチップが多いか少ないかだ。中でもセクシーな衣装で派手な演出のあるバーレスクタイムで踊るトップレスのダンサーは、チップだけで生計を立てられるほどだ。その他のダンサーは、給料とチップを合わせても昼間に別の仕事をしている人が多かった。私もご多分に漏れずだが、その中でも底辺だった。

 私は今日も不本意ながらも二の腕と太ももを露わにした衣装で、カウンターで囲まれたポール台の上でダンスを踊る。対角にあるポール台で、トップレスの子がチップをもらっているのが目に入る。二週間肌を露出せず踊っていた子だ。ダンスが初めてで、私が一から教えた子。今ではお客に視線をおくり、自分をアピールできるようになった。ダンスが楽しいと笑った彼女。そしてお金が必要なのだと俯いていた彼女が頭をよぎる。
 指笛が聞こえた。視線を向ければ、以前地下アイドルの振り付けのバイトを斡旋してくれたお客だった。一回きりの決して表には名前が出ないバイト。
 膝をおってチップを受け取った私は、ダンスに集中する。店にとってもお客にとってもメインステージが始まるまでの余興。でも私にとっては大好きなダンスが踊れる場所。私に残された最後の場所。


 実家の樺澤はなざわ家は、地元酒店の中でも大きい方だった。周りに大人が多かったこともあって、テレビの見よう見まねで踊っていたらダンスが上手だとすぐに広まった。地元のローカルテレビの取材まで受けたりもした。町を歩けばまいちゃんと声をかけられるようになり、幼い私は有名人になった気分だった。
 スマホを持つようになると世界が広がった。多種多様なダンス動画に魅了されてコピーしまくった。踊ることが楽しくてしかたなかった。やがて
高校でダンス部に入って、自分の動画を発信するのが夢になった。それがバズってあちら側・・・・に行けると信じている年頃だった。
 生活圏内で唯一ダンス部のある隣町の高校に入った。しかし部活初日から落胆した。ダンスが好きと言うより、ただわちゃわちゃと仲良く動画が撮りたいだけの集まりだったからだ。顧問も自主性という放置を決め込んでいて、私は練習場所確保の為だけに部活を続けた。そして専門学校に行こうと決めた。ちゃんとレッスンを受けて、コンテストに出て、プロを目指そうと。

 コンテストという目標があることで、両親は渋々だったが上京を了承してくれた。最初こそ支援を受けるが、東京ならすぐに返せるようになると思っていた。
 夢はすぐに現実に塗りつぶされた。スタートから気持ちも実力も違いすぎた。東京生活を始めただけで、もう夢が叶ったものと浮かれてしまった私は、経験という武器を何ひとつ持っていないにも関わらず、好きという気持ちだけで猛者犇めく世界へと門を潜ってしまったのだ。
 思い通りにゆくことなど何ひとつなかった。慣れない毎日のレッスンと気疲れでクタクタになり、バイトを始めることさえ出来なかった。付いてゆくのがやっとで、必死になればなるほど私生活がすさみ、余裕のなさがダンサーとして必要な魅力を削いでいった。
 みんなが人脈を作り、自分を表現する場を広げ結果を出し始めた頃でも、私はまだ悪循環から抜け出せずにいた。

 奇しくも悪循環を断ち切れたのは体が壊れたおかげだった。おかげというのは、そのままだったら心が壊れていただろうと思えたからだ。
 入院の間に得られた睡眠と栄養と時間が、自分の心に静穏をもたらし、自分自身を見つめることがでした。
 私は何のためにダンスを学んでいるんだろうと考えた。それはプロになるためだった。どうしてプロになりたいのかと考えた。ダンスが好きだからだ。今もダンスは好きかと考えた。楽しいかと考えた。踊りたいかと考えた。私は。答えられなかった。

 専門学校を辞めダンスから離れた。とにかく普通に、人並みな生活をおくることを目指した。それからまた道を探せばいいと思った。
 スパーのレジ打ちと飲食店のバイトをローテーションして家計も安定すると、ダンスオーディションという文字が目につくようになった。無自覚でも意識していたのかもしれない。また踊りたいと思える自分を待っていたんだと気付いた。そしてそれはすぐにやってきた。
 勘を取り戻すために飲食店から、ダンス提供があるレストランにシフトチェンジすると、私はオーディションへの応募をはじめた。もちろん本気になり過ぎて自分が壊れないよう、受かればラッキーくらいの気持ちだった。
 アピールできる経歴もなにもないのだから、ほとんど書類選考落ちの日々だった。いっても一次選考で確実に落ちた。熱を持った若い子たちを見ると冷めてしまう自分がいて、審査員の心証が悪いのは当然だったし、自己嫌悪に陥らないようプロになりたい気持ちにブレーキをかけてしまっているのだから何も変わりようがなかった。結局私は、ただ踊れる場を求めてバイト先を転々とし、深い時間帯へと身を沈めていった。


 ロッカーズのポールダンスは、ダンスに集中して酔ったお客の空虚な時間とチップという優越感を満たせばいいだけだった。特に何かを求めることも、求められることもない。
 私は体が反応して踊っている間、頭の片隅でもう潮時かなと考えていた。プロを諦めたにしても、少しでもお金に繋がれば嬉しいと思っていた。でも今時こんな店でチップをもらうよりSNSで動画投稿なりライブ配信なりをした方が、多くの人に観てもらえるしギフトで反応もしてもらえる。顔出しできる人たちが羨ましかった。
 実家に帰って昔みたいに趣味で踊っていればいい。そう思えても、せめて最後にダンサーとして納得のゆく踊りで終わりたい。そうでしか今を捨てるきっかけがなかった。

 深夜四時に閉店。今日もいつもと変わらない、良く言えば平凡な一日が終わった。何を食べに行こうかと話しているメインダンサーたちから気配を消すようにバックヤードの隅で着替えた私は、裏口から店を出ると駅方向を避けて東京タワーの方へと歩き出す。始発待ちのお客と会って、食事にでも誘われたら最悪だ。過去に翌日の出勤まで突き合わされて散々なめにあった私は、タクシーさえ滅多に通らない大通りに渡り、やっと肩の力が抜けた。落ち着いてスマホを取り出すと、珍しく通知ランプが点灯していた。
 それは高校生時代にメッセージアプリを交換した数少ない友人の一人からだった。友人と言っても、削除する必要がないくらい連絡を取り合っていない仲になっていた。同窓会みたいな誘いだったら嫌だなと思いながら、メッセージに目を通した。
 それは意外な話だった。彼女の会社主催のパーティーでダンサーを探しているという。多感な時期とはいえ、たまたま友達になるしかなかったシステムの中で、私の幼い夢の話を覚えていてくれたことに驚いた。そして連絡までくれたことに応えたいと思った。


 珍しくタクシーが拾えたので乗り込んだ。これで今日もらったチップは消える。それでもかまわなかった。早く帰って眠りたかった。そして早く目を覚まして、友人にメッセージを返したかった。たとえパーティーのお飾りでも、私がダンサーとして最後を飾るには良い機会だと思った。
 合成皮革のシートに身を沈めると、私は改めてスマホの画面に映ったメッセージを読み返した。たしか昔に同棲をはじめたと噂に聞いた。その彼女が会社の役員だなんて。夢破れた東京から帰る花道を、成功した古い友人が作ってくれたようだった。
「不思議なもんだな。残酷。かな?」
 なにかが吹っ切れた気がして、自分の口角が上がったのがわかった。東京タワーを囲む街灯と街路樹が流れてゆく窓ガラス。そこに映った自分の笑顔に問いかける。その答えに迷いはなかった。
 私は実家に帰るため、パーティー当日の夜行バスを検索した。

〈チャプター六本木〉


チャプター八重洲

 東京の表玄関。ライトアップもされ重要文化財に指定されたレンガ造りの駅舎は、今夜も優雅にたたずんでいた。それを横目にゆっくりと回り込むと、日本屈指の高速バスターミナルで停車した。
 睡眠もアルコールチェックも髭の手入れも万全。もう一度車内を見て回ると、私は乗客名簿を見ながら発車の時刻までの精神統一をはじめた。

 東京から下る高速バスには様々なお客様が乗り合わせる。ほとんどが旅行やテーマパーク、コンサートなどに向け胸を膨らませて乗り込んでくる。だが一定数、影を背負っている人もいた。それは悲しみであったり、諦めであったり、絶望であったり。もちろん全ては私の想像だ。様子を見て勝手に描く妄想だ。しかし近からずも遠からずだという自信があるし、だからこそ犯罪目的でない限り、すべてのお客様を無事に送り届けたいと思っている。高速バスのドライバーは、偶然という必然を運ぶ担い手なのだから。と、これもまた私の妄想だ。
「はじめますか」
 自分にスイッチを入れるように声に出しハンドル握ると、乗車場所に向けてアクセルを踏んだ。


 バスの側面を開け現れた空間に、お客様の大きな荷物を収めてゆく。それが夢の大きさだと毎回思う。そして今夜は乗客の数に比べ大きな荷物が少ないように感じた。

「はい。どうぞ、足元お気をつけください」
 乗降口に立ちチケットを確認しながら、タブレットの乗客リストと照らし合わせる。不審な持ち込みはないかと同時に、その人の背景を妄想する俺の好きな時間だ。そして、そんな俺を試すような乗客が現れた。
「はい。えーと。大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。ありがとうございます」
 その女性は寝起きのような髪の毛を手櫛で整えながら乗り込んだ。購入日を確認すると、一時間も経っていなかった。きっとここに来ながら購入したのだろう。さすがに命を狙われて逃げている訳ではないと思うが、何が女性を急かしているのか気になるところだった。
 とりあえず女性を追いかけているような乗客がいないか気を付けておこうと思いながら、俺はタブレット画面の『飯塚いいづかこのみ』という名前の横にある乗車ボタンをタップした。

海原うなばらさん。えーと」
なぎです。珍しいですよね」
「そう、ですね。どうぞご乗車ください」
「はい。よろしくお願いします」
 随分と社交的な人だなと思った。荷物もまとまっているし余裕がみてとれた。計画的な人でもあるんだろうなと思った。浮かれた雰囲気もないし、かと言って心残りがある風でもない。出張といったところか、いかにも仕事が出来そうな女性だった。何の心配もいらなそうだ。

 竹中たけなか光《ひかり》という乗客は、シャンプーかボディーソープか、香りの強い女性だった。男である私の鼻腔びくうは、ある種の職業を嗅ぎとったが、それに関しての推察は無粋だろう。
 女性はバスのステップに上がる前に振り返ると、周りの景色に視線を巡らせ大きく深呼吸した。それは帰らない場所を去る人の仕草だ。胸の内にあるのは感謝か。未練か。
 とりあえず走行中、香りが車内に充満しないことを祈ろう。


 女子高生の一人乗りは極めて珍しかった。必ずと言っていいほど二人組だからだ。しかも切り揃えられた前髪から覗く目は、明らかに怯えていた。男性が怖いのか、チケットの用紙を見せる際に私から少し身を引いているように思えた。
「あ、の。中で。電話しても。いい、ですか?」
「発車までならいいですよ。自由に過ごしてください」
 わずかに微笑んだ気がした。しかし体に不似合いな小さなリュックを背負いバスに乗り込んでゆく後ろ姿は、どこか痛々しく見えた。
新蔵にいくら姫乃ひめの
 タブレットの乗客リストを読み返す。家出の可能性が高いと思った。ただ電話をする先があるという事は、確かな行先があるのかもしれない。サービスエリアで姿を消すような事だけはないようにと祈った。

 経由する停留所で人数は上下するものの、始発で定員の半分の席が埋まった。平日にしては多く、女性客が多かった。
「あと一人か」
 搭乗手続きは一人を除いて全て終わっていた。来ても来なくても発車時刻には出発する。キャンセルされない空席は珍しいことではなかった。それが幸運を意味するのか、不幸を意味するのかは分からいが、運行が終わるまでは誰かがお金を出して買った席だ。だから勝手に荷物など置かれないよう配慮するのが私のやり方だ。全員が席に着いたのを確認して運転席で待機した。
「それでは発車します」
 発車時刻を一分過ぎた所で扉を閉めエンジンをかけた。アナウンスをしてバックミラーを見ながら、ゆっくりとバスを走らせる。
「高速に乗りましたら車内消灯いたします。途中サービスエリアでの休憩時も点灯はいたしませんのでご了承ください。具合など悪くなった方は、遠慮なく運転手の來間くるま伸也しんやまでお声かけください。走行中は足元が悪いのでお気をつけください」
 私は今日も多くの人の想いを乗せたバスの命綱ハンドルを握る。それが往復だろうと片道だろうと、今この時間だけは運命を共にしている。そう思うことで気を引き締め、私は今日も夜行運転の旅に出る。

〈チャプター東京〉


チャプター上野

 なぎさんに断られたって。大河たいがさん、この後の段取りどうするんだろう。俺はプールサイドのカクテルバーで談笑する社長に視線を向けつつも、来賓客が踊るホールを抜けてバックヤードに入った。

 大河さんと出会ったのは大学生の時だった。システム構築に資金を割けない小さな企業をバックアップする会社を作りたいと熱く語る姿に惹かれ、アバロンカンパニーの立ち上げを手伝った。
 当時は大河さんと和さんは同棲していたが付き合ってはいなかった。二人と一緒に夢を形にしながら、弟のように可愛がってもらう内に、俺は最後まで二人を支えたいと思うようになっていった。そしてアバロンカンパニーは軌道にのり、業績を上げ、アバロンコーポレーションへと成長した。今日はその祝賀パーティーだった。
 パーティー終盤には、大河さんがサプライズで和さんにプロポーズする予定だったのに、それを悟られ断られてしまっていた。その理由を和さんから聞いたものの、結局上手く《《はぐらされた》》気がする。
 サプライズがないのなら、このパーティーにおいて俺がこの後やるべき事はもうなかった。だからここ、ホールに立っている。今できる仕事をする為に。

「お疲れ様でした。ありがとうございました」
 女性控室と貼り紙された部屋から出てきたダンサーさんに声をかけた。髪をおろしスリットの入ったロングスカートに着替えた姿は、端正な顔立ちと相まってか踊っている時とはまた違った魅力があった。
「社長の代わりに私で失礼します」
「素敵なパーティーで踊れて楽しかったです。ありがとうございました。上野うえのさん」
 彼女は俺が差し出した名刺を受け取ると、髪を手で押さえて会釈した。その仕草に、思わず綺麗だなと思った。
「気にしないでくださいね。カミノです。上野かみの志斗しとです」
「そうなんですね。お疲れ様でした」
「あ、あの。ちょっとお時間いいですか」
 去ろうとした彼女に慌てて声をかけた。スマホを取り出し画面を確認した彼女は目を細めた。
「終電でしたら車でお送りするので」
「ごめんなさい。お誘いは嬉しいんですが予定があって」
 これはナンパだと思われてるなと思った俺は、すぐに本題を切り出すことにした。


「返事は今度でいいです。今、気持ちが熱い内にお伝えしておきたいので」
 まずい。彼女が両手を胸に抱え警戒態勢にはいってしまった。
「違うんです。その。どこかに所属していたりしますか? 動画配信とかされてます?」
「あのー」
 彼女の眉間に皺が寄る。
「違います、違います。実は事業を立ち上げる予定で。それがダンススクールなんです。それで、えーと」
 俺は今さら彼女の名前を知らないことに気が付いた。
樺澤はなざわです。樺澤はなざわまい
「そこで、樺澤さんにダンス講師になってもらえないかなと思って。返事は、今度ちゃんと話を聞いてもらってからでいいんで」
「どうしてですか?」
「どうして?」
「なんで。私なんですか?」
 スマホを握る彼女の手が、かすかに震えていた。
「ダンスの善し悪しは正直わからないです。でも花澤さんを見て感じたんです。人は輝くんだなって。上手く言えないんですけ、散り際の桜みたいな? あ、例え良くないかな。ハートですハート。ハートで踊っているなと感じたので、ダンスはそれが大事かなって。ほんと素人なのに、すみません」
 つい感情で動いてしまい、言葉をまとめていなかったことを俺は後悔した。
「ハート……」
 彼女はつぶやいて思案しているようだった。
「いやほんと、返事はすぐじゃなくていいんで。俺にもっとちゃんと話すチャンスください」
 頭をさげると彼女が小さな声で笑った。頭を上げると、笑顔の彼女がスマホをしまった。
「決めたんで、お話聞かせてください。それから。ちゃんと家まで送ってください」
「決めた? え、これから予定があるんじゃ?」
「上野さんを信じて予定変更です。どうします?」
「ぜひぜひ! プールサイドのカクテルバーでどうですか。いいお酒を揃えてるみたいなんで。常務も紹介しますよ」
 俺は彼女が会社にとって好機の女神になると思えて高揚していた。
「はい、お願いします。常務て和ですか? さっき出て行きましたよ」
「和さんがダンサーさんをお友達に頼んだと言ってましたが、ご本人ですか! てっきり紹介かと」
「過去に今を救われた気分です。ごめんなさい、こっちの話です」
 彼女の満面の笑みを見た俺は、まだまだ夜は明けそうにないなと嬉しく思った。

〈チャプター上野〉

〈ミッドナイト・シティー〉

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