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これからの男の子たちへ 「男らしさ」から自由になるためのレッスン(太田啓子)を読んで

日本のジェンダー指数は世界で120位だということが話題にはなるし、報道ステーションのウェブCMが女性蔑視だと話題になって炎上するようにもなっているけれど、でもやっぱりなかなか簡単には変化しない。それは社会に埋め込まれた構造的な文化的な性差別が避けがたく存在しているにもかかわらず、大半がそれに気づかずに過ごしてしまっているからなのかもしれない(自戒の意味も込めて)。

「男らしさ」ってほんとに必要なのか?無意識に社会にインストールされているシステムが男性も女性も生きづらくしていないだろうか。

この本を読むとそんな疑問を持てるようになる。まずはどんな風に日常にジェンダーギャップが組み込まれているかを知ること、そこから始めることが大切。そしてその構造が、男の子の成長に、女の子の成長にどんな風に影響しているのか。この本はそういうことを教えてくれる。自分の意思で「変えたいな」と思えるようになるための基本的な知識をとてもわかりやすく語ってくれている。

そしてこうしたことに気づくようになったり理解したならば、男性も社会の半分の構成員として声を上げ、動かないといけないと思うようになるのではないか。いまの性差別構造の中にあっては、男性は男性であるという属性だけで得られる特権がある(つまり、男性であるというそれだけで享受しているメリットがある。例えば、夜道で殊更に警戒しなくていいとか、住宅選びで1階を避けなくてもいいとか、キャリアで管理職になりたいかどうかをいちいち立ち止まって考える必要がないとか)ということ、そしてジェンダーの問題については、男性の声は女性の声に比べて中立的に響き、影響力も大きい。つまり、男性の声は社会を変える大きな力になるのである。

そんな社会を変える力となる「これからの」男の子たち(と彼らを育てる大人)に向けた本。この本を読むと、社会に埋め込まれているバイアスに自覚的になることができる。まずは知ることから。あぁそっか、と日常でいろいろな気づきを持てるようになる(例えば、乗り換え検索の結果も、子連れや高齢者にはあてはまらないよなぁ。とか)。ジェンダー問題についてざっくり知りたい人、ジェンダー問題に苦手意識を持っている人(男女問わず)などなど、少しずつ変化し始めているこの時代に生きる全員に読んで欲しい最高の一冊。2〜3時間で読めます。

「男らしさ」の呪いから自由になる

人は生まれた瞬間から社会の構成員になる。そして社会的関わりの中で成長する。社会にはすでに様々なジェンダーバイアスがそこかしこに存在していて、それに対して意識的にならないと、気づかないままバイアス構造の再生産に加担してしまうことになる。例えば、子どものおもちゃ売り場が男の子用・女の子用に分かれているとか、男の子がやんちゃなのは仕方ないよねとか。

著者が標題の「男らしさ」にカギカッコをつけているのは2つの意味があると思う。まず「有害な男らしさ」を放棄しようという意味。そしてもう一つは、そうはいっても男女差ってある、でもそれでも「男らしい」「女らしい」という言葉を使う必要はなくて「その人らしい」でいいでしょという意味。

「有害な男らしさとは」(Toxic Masculinity)

社会の中で「男らしさ」として当然視、賞賛され、男性が無自覚のうちにそうなるように仕向けられる特性の中に、暴力や性差別的な言動につながったり、自分自身を大切にできなくさせたりする有害な性質が埋め込まれている、という指摘を表現する言葉。①意気地なしはだめ、②大物感、③動じない強さ、④ぶちのめせが男性性の4要素。

こうあるべきという「男らしさ」の価値観は無意識にインストールされ、様々な弊害をもたらしている。

「男らしさ」に縛られる男性の生きづらさ

こうあらねばならないという「男らしさ」の固定観念が前提として存在している。「男らしさ」から外れないように頑張ることも大変。出世したいとかそういった価値観を持ち合わせていない男性はたくさんいるだろう。でも出世しないことは「男としてどうなの?」みたいなプレッシャーがあって頑張るしかない男性たちがいる。他方で、どう頑張っても「男らしさ」を満たすことができない男性もいる。「男らしさ」という縛りはそういった男性のストレス、不安、不満の原因にもなっている。

声をあげる女性に対して「男だってつらいんだ」と言う男性がいる。実際つらい人も沢山いると思う。でもそれを声をあげている女性に向けて言って意味があるのだろうか。男だってつらいんだから女も黙ってろ、というのは違う。自分のつらさの根底に何があるのか、自分はなぜつらいのか、何が原因でつらいのか、そこをよく考えてみないと前に進まない。今ある社会は一つのあり方に過ぎないし、それがおかしいと思えば変えていけばいいだけ。そんなとき、自分はお仕着せの「男らしさ」に縛られてない?「男らしさ」って必要?と問いかけてみることが必要なんじゃないか。「男らしさ」っていらないかも、と思うのであればそれを放棄すればいい。それが結果として女性の生きやすさにもつながる。

本書では、男性は「感情の言語化が苦手」、「感情に対する解像度が低い」ということも指摘されている。一つにはこうあらねばならないという「男らしさ」が前提にあってそれが達成できない怒りや悔しさという以上の理由付けが必要とされないので、もう一歩進んで自分の感情を分析してみる必要がないから。もう一つは「ホモソーシャル」の絆という同調圧力によって、嫌だ、つらいということを相談できない謎のマッチョ世界に帰属させられているために、他者に感情を開示・共有することもできないから。でも、弱さを見せられない「男らしさ」が蔓延し支配する社会は女性だけじゃなく男性も生きづらい。

エマ・ワトソンのスピーチも本書もだいたい同じことを言っている。男性の自殺率の高さや年齢を重ねるにつれて男性が自分の弱さを開示できなくなっていくこと等々。「男らしさ」のすべてが悪ではないが、それを強要することには弊害が大きい。自ら選び取ったものと押し付けられたものは違う。男性も女性も「自分らしさ」を大切にできて、「その人らしさ」を尊重する社会がいい。


“We don’t often talk about men being imprisoned by gender stereotypes but I can see that that they are and that when they are free, things will change for women as a natural consequence. If men don’t have to be aggressive in order to be accepted women won’t feel compelled to be submissive. If men don’t have to control, women won’t have to be controlled. Both men and women should feel free to be sensitive. Both men and women should feel free to be strong. It is time that we all perceive gender on a spectrum not as two opposing sets of ideals.” (Emma Watson, UN speech, 2014)
私たちは男性がジェンダーステレオタイプに囚われていることについてあまり話しませんが、実際には囚われています、そして、男性が自由になれば、自然の流れとして物事は女性のためにも変わるのです。もし男性が認められるために攻撃的になる必要がなければ女性は従属的にならねばならないと感じずに済むでしょう。もし男性が支配する必要がなければ、女性は支配される必要はないでしょう。男性も女性も繊細である自由があるべきです。男性も女性も強くある自由があるべきです。いま我々はジェンダーを、2つの相反する理想としてではなく、もっと広く捉えるときです。
「男らしさ」を良しとする価値観をインストールされた結果、競争の勝ち負けの結果でしか自分を肯定できなかったり、女性に対して「上」のポジションにいることにこだわりすぎて対等な関係性を築くことに失敗してしまったり、自分の中の弱さを否定して心身の健康を超えて仕事に打ち込んでしまったり…といったことが、男性にはしばしば起こっているのではないか(本書23頁)。

性差別構造の中では男性には特権がある

マジョリティの特権とは「ある社会集団に属することで労なくして得られる優位性」を意味する。

特権がない人は常にその「なさ」に直面しているが、特権がある人はそれが「ある」ということに無自覚である(ちなみに出口真紀子先生の「立場の心理学」講義は必聴。トピックはジェンダー問題に限定されていません。むしろ一人ひとりが問題次第でマジョリティであったり、マイノリティであったりするという当たり前だけど気づかなかった視点を教えてくれ、日々の生活の中での物事の見方が変わります。押し付けられるのではなく、自分で納得して考えて進みたい方に特におすすめ。大学でも必修になればいいのに...)。

しかし特権があることに無自覚であることは、無自覚のうちにその社会構造の再生産に加担しているということである。特権がある者の声はマイノリティの声と比べて中立性を帯び、その声の持つ影響力も格段に大きい。特権のある人は、自分の置かれた立場を自覚し、自分の持っている特権を自覚的に使う責任がある。

性差別構造においては男性に特権がある。特権的地位にある男性の声は女性の声に比べて中立性を帯びる。女性の声はいつだって「感情的でヒステリック」という受け止め方をされてしまう。フェミニズムってなんかちょっと怖いよね、という声もある(男女問わずある)。知らないからこそなんだけれど、知らずにいられるということ自体が特権なんだとまずは気づくこと。そして男性は自分の特権ある地位にあることを受け止め(特権があると認めることがそもそもなかなか難しい。自分も苦労しているのだとか自分は男女問わず対等に接しているとか言いたくなる。しかし、マジョリティの特権の考え方はそこを否定しているわけはないし、個々人の罪に対する責任という考え方ではない。そうではなく、構造的に差別が存在してしまっているという事実があって、それによって女性の方が男性よりも苦労していることが多いのだという事実があることに対する責任の話だということを理解すること。まず事実を知り、構造的差別の存在を認めることが第一歩)、特権があるからこそ持つ影響力を正しく使う責任を果たすにはどうしたらいいかを考えてみて欲しい。

どうしたらいいか。女性のあげる声に耳を傾ける。自ら進んで知ろうとして調べてみる。賛同の意を示してみる。それだけでもいい。自分の男性ホモソーシャルの世界での評判が気になるかもしれない。それはよくわかる。でもその世界って意外と生きづらいかもしれない。ちょこちょこと声を上げると、他の人も「実は私も」という声を上げる勇気になる。男性も「男らしさ」が支配する社会から抜け出す勇気を持ちたい。

以下の文章もわかりやすく染み込みやすい。

男性であること、男性に生まれたことに罪はない。しかし、それでも負う責任はあるだろう。男性に生まれたことで見えない下駄を履いてきたのなら、その下駄を脱ぐ勇気を持たねばならないし、同僚の女性がガラスの天井にあぐねているならば、足元のガラスを割る気概を奮わねばなるまい。それは男性という属性が負う集団的な責任である。個人的な罪はなく、集団的な責任がある。両者を混同してはならない。

エマ・ワトソンによる特権の実践

エマ・ワトソンは自分の立場・特権に由来する責任をきちんと果たしている。

私は女の子であることを理由に両親の愛情が低くなるということはなかった。学校でも女の子であることを理由に制限されることはなかった。仕事でのメンターも女性でいつか子どもを産むかもしれないからという理由で可能性が限られているとはみなさなかった。

エマ・ワトソンは自分がこういった扱いを受けてこられたことについて、特別なことであって特権的だと述べている。すべての女性がそのような扱いを受けることができていないことに自覚的なのである。そして、彼女に関わり、彼女に対してそのように接してくれた周囲は皆、自覚していないとしても女性の権利とジェンダー平等に貢献して社会を変える役割を果たしているのだ、と人々の気づきを促し、そして、そういった人々を増やしていく必要があると訴える。

My life is a sheer privilege because my parents didn’t love me less because I was born a daughter. My school did not limit me because I was a girl. My mentors didn’t assume I would go less far because I might give birth to a child one day. These influencers were the gender equality ambassadors that made me who I am today. They may not know it, but they are the inadvertent feminists who are changing the world today. And we need more of those. And if you still hate the word—it is not the word that is important but the idea and the ambition behind it. Because not all women have been afforded the same rights that I have. In fact, statistically, very few have been.(Emma Watson, UN speech, 2014)
私の人生はとても恵まれています、なぜなら両親は私が女の子だからといって愛情を減らしませんでした。学校は女の子だからといって私を制限しませんでした。私のメンター達は私がいつか子どもを産むかもしれないからといって私の可能性を低く見積もったりしませんでした。こうした私に影響を与えた人々こそ、今の私を作り上げてくれたジェンダー平等大使たちなのです。彼らは気づいていないかもしれませんが、期せずして、彼らは今の世界を変えているフェミニストなのです。そして我々はもっと多くの彼らのような人々を必要としています。もしまだその言葉(注:フェミニスト)が嫌いなのであれば、重要なのはその言葉ではありません、その背後にある考え方や熱意なのです。なぜならすべての女性が私と同じ権利を得られていません。事実、統計的に、そのような女性はとても少ないのです。

こんな社会にしたい

事実として存在する不合理に気づいてしまうと、結構つらいなぁと思うことはある。なぜなら社会はそう簡単には変わらないから。でも声をあげるのも怖いし、叩かれるのも嫌だし、どうしたもんかな、とも思う。でも、少しずつ声を上げる人たちが増えていることを知ると勇気づけられるし、動いてもすぐには変わらないけど動かないと絶対に変わらない。だからできるところから少しずつ。

一人ひとりがその人の能力を能力をフルに発揮できるような社会。自分の人生の主導権は自分が握れて、「男らしく」「女らしく」「こうあるべき」というような枠にとらわれず他人の生き方をそのまま尊重する社会。そんな社会が実現するように。まず第一歩として書いてみました。

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