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「ヴィンダウス・エンジン」(十三不塔)感想

止まっているもの全て見えなくなるという「ヴィンダウス症」。唯一の寛解者であった主人公キム・テフンは、成都の都市管理AIに組み込まれ、「ヴィンダウス・エンジン」の歯車となる——。中国を舞台に描かれる、清と濁の共存する近未来都市は、どこかエロティックな印象をもたらした。個人が超常的な力を得ることへの憧憬を刺激し、上質なエンタテインメントを提供する。

そんな本作に見受けられる構造として、ある種の対比、言うなれば両儀の図式に近いものが挙げられる。作中において「鏡像」と表現されるのがそれである。ヴィンダウス症は、「鏡像」である兄妹の死と関係がある、と医師「ウー先生」は語っている。

「一卵性双生児でない兄弟姉妹たちは、それぞれ似ても似つかぬこともある。しかし、それが故に彼らは互いの歪んだ像であると思わないか? 正しい鏡像を映し出さないことそのものが、自分自身を知る手がかりになる」
「兄弟、それが鍵だよ。彼らは穏やかでリラックスした関係を築くこともあれば、抜き差しならぬ間柄になることもある」

ここで、「鏡像」という語が含む二つの意味——本作における二通りの解釈——に言及しなければならないだろう。端的に言えば、それは「反転」——正反対の像——と「スペア」——酷似した像——である。前者は「成都」と「仙竟」であり、あるいは「キム・テフン」と「マドゥ・ジャイン」、あるいはAIの「李」であろう。一方後者は「キム・テフン」と「デバック」だ。作品世界の構造は、以上のように理解することができるのである。

このような考えに立脚すれば、主人公がデバックだけでなく李とも闘わねばならなかった理由が、見えてくるかもわからない。デバックは主人公——システムに組み込まれたヴィンダウス症寛解者——の「スペア」であり、李は主人公——歯車ととなって崇高なシステムに組み込まれた主人公——の「反転」像といえないだろうか。これは、自らの「鏡像」との戦いである。彼らとの闘争こそが「自分自身を知る手がかり」となる。ある種ヘーゲル的な承認の物語なのだろうか。

ところで「鏡像」、すなわち「自分自身を知る」基準とは、相対的なものだと言えよう。思うに人は、絶対的な価値基準というものを持ち得ない。常に基準を外部化し——他者の容貌、成績その他もろもろ——、対象との位置関係で、物事を評価しているのだ。だがこれは、外部の些細な変化によって、容易く変動してしまう。「穏やかでリラックスした関係を築くこともあれば、抜き差しならぬ間柄になることもある」のである。とすると、ヴィンダウス症患者の共通項である「兄弟の死」は、「鏡像の死」、そして「動性の喪失」であるといえそうだ。このような状況で、人は何を行うだろう? ……そう、「動性の捜索」であり、同時にこれは「静性の排除」を意味している。止まっているものが、見えなくなる——。

こうして、鏡像の喪失は、ヴィンダウス症へと繋がった。比較の欲望が行き着く先に、世界の喪失があるという点、示唆に富んだ逆説である。

本作に対する、ハヤカワSFコンテストの選評で、いくつかの欠点が指摘された。特に「寛解に持ち込むときの書き込みが足りない」というのは、私も大いに同意するところだ。また、本来、主人公の「反転」像として非常な存在感を放っていた「マドゥ・ジャイン」が、ほとんど活躍せずに終わっているのも気になるところ。主人公と対立するのは、李ではなく彼女であるべきだったかもしれない。

つらつらと駄文を書いてきたが、一言でいえば「面白かった」。著者の今後の活躍にも期待したい。

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