大化の改新も影響している年賀状の由来と歴史
音信不通(おんしんふつう)
→ 便りや連絡がまったくないこと。
便りといえば手紙のことだが、もう何年も手紙など書いていない。
下手すると10年以上書いていないかもしれないし、もらってもいないかもしれない。
それほど文字を書くという機会が減っている。
このことに関して警鐘を鳴らす人も多いが、近年は文字を書く機会が圧倒的に減っているし、わざわざ手紙を書く必要もないと個人的には思っている。
もちろん書きたいと思えば書けばいいし、なにかのタイミングで書くことはあるかもしれないが、人に強要するものではないということだ。
2021年も11月に入り、2021年も残すところ2ヶ月を切った。
12月に入ると、郵便局へ向かい、とある準備を始める人たちが現れる。
そう、年賀状という未だに残っている慣習だ。
こちらも、正直10年以上の単位で書いてもいないし、もらっても捨てているように思う。
単純に時間とお金の無駄としか思えないからである。
とはいえ、続けている人はまだ多くいる。
世界の年賀
そもそも、年賀とは新年の祝賀のことを指し、人類の歴史を遡ると古代からその年賀の慣習があったとされる。
その歴史は古く、エジプト文明やメソポタミア文明といった、いわゆる四大文明にも、新年を祝う宗教的儀式の痕跡が多く見られる。
人類の生産形態が狩猟採取から農耕牧畜に移ると、種まきや収穫などの時期を知るため暦が誕生する。
それぞれの文化圏で天体の運行などから、1年は約365日であることが発見され、その1サイクルの区切りとなる日が定められた。
その日を前年の収穫を神に感謝する日として、新しい年の豊穣を祈ることは、コミュニティを形成する上でも自然な流れだったのだろう。
世界的に暦が統一されるまで、正月にあたる時期が地域ごとに異なっていた。
また、キリスト教圏のクリスマスのように祝祭の重点を1月1日以外の日に置くところもある。
ただ共通していえるのは、年に一度、それぞれの健康を祝い、無事息災を願うという慣習があるということだ。
こういった年賀の習慣が生まれた当初は、家族内や狭い共同体内で、お互いに顔を合わせて行われていた。
ところが、社会が複雑するにつれて、直接会えない親族や知人も増えてくるようになった。
そんなときでも年賀の意を伝えるため、文字や紙の普及とともに書状が交わされるようになったのが、年賀状の始まりとされている。
とりわけ、陰陽道などの影響で正月が重視され、儒教など礼節を旨とする文化が根づいた東アジアの中国、朝鮮半島、日本では、古くから年賀の書状が交わされていた歴史がある。
日本初の年賀状
上記で述べたとおり、そもそも書状が成立するには、暦と紙と文字が普及することが不可欠となる。
加えて、完成した書状を送ることや届けるという、なにかしらの通信手段も欠かせない。
1つずつ見てみると、日本に百済から中国式の暦が伝わったのは6世紀中頃、それが大和朝廷に正式に採用されるのは7世紀の初めである。
次に漢字の伝来はそれより古いとされ、紀元前後と考えられている。
その漢字は、最初は木片に書かれるのが一般的で、6世紀以降になると紙が比較的容易に手に入るようになる。
それから、645年の大化の改新により、様々な精度が整えられる。
ここから政治的な伝令書を届けるために畿内各所に駅馬を置く飛駅使制度が始まる。
つまり、この頃から遠くの人と書状でのやりとりが行われているという見方が濃厚なのである。
それを裏付けるように、大化の改新の際に天皇が諸臣の賀を受ける朝賀の式が制度化されている。
こういった背景を踏まえると、日本で年賀の書状が取り交わされるようになったのは、7世紀後半以降と推測できる。
というのも、残念ながら現時点では、日本で最初の年賀状が、いつ誰によって出されたのかという史料が発見されていない。
ただ、平安時代の後期に、藤原明衡によってまとめられた往来物(手紙文例集)の雲州消息には、年始の挨拶を含む文例が数編収められている、
このことからも、この頃には少なくとも貴族階級の中には離れた所にいる人への年賀の書状の文化が広まっていたと考えられる。
同時に、平安時代頃からは年の始めにお世話になった人や親族の家をまわって挨拶をする、年始回りの慣習も広まっている。
この慣習は、大正時代あたりまで広く行われ、正月は挨拶のために行き来する人々で通りが混雑していた。
年賀状の歴史
そして、江戸時代になると付き合いが広くなり、書状で挨拶を終わらせることも増えていく。
それは、駅伝、飛脚などの制度が徐々に確立してきたという背景にある。
一般の書状はもとより、年賀のための書状も多くなっていて、戦国大名が賀詞を述べた書状なども多く現存している。
江戸時代に入ると、より街道の整備と共に飛脚制度が充実していく。
江戸時代中期には、町人文化の爆発的な隆盛と共に遠隔地だけでなく、江戸市中を配達する町飛脚なども多く現れる。
武士階級だけでなく庶民が手紙を出すことが、一般的になっていくのである。
その要因となったのは、寺子屋など庶民教育の急速な普及があったとされる。
日本は江戸時代後期には既に世界一、就学率、識字率の高い国だったともいわれる所以だ。
まとめると、江戸時代には、年賀の書状が身近な存在であった。
とはいえ、必ずしも1月1日に出されたのではなく、半年後に送られてくるといったこともあり、のんびりしたものだったという史実もある。
また、この頃には玄関に名刺受けを設置し、不在時にはお祝いの言葉を書いた名刺を入れてもらうという簡易スタイルも登場している。
このように、年始回りを簡略化したものが年賀状のルーツだといわれている。
年賀状が爆発的に広がったきっかけ
年賀状を出すことが一般に広がったのは、1871年(明治4年)の郵便制度開始がきっかけだ。
1873年(明治6年)に郵便はがきの発行が始まり、1887年(明治20年)頃には年賀状も激増した。
元日の消印をねらって年末に投函する人も増え、郵便局員たちは不眠不休で消印作業にあたり、押印担当者の右手はマメで腫れ上がるほどだったそうだ。
そこで取り入れられたのが、現在と同じように年末のうちに受け付けて元日に配達する年賀郵便の特別取扱いだ。
1899年(明治32年)に導入され、徐々に全国に広がっていくことになる。
1949年(昭和24年)12月からは、今では当たり前となっている、お年玉付年賀はがきが発行されて、国民的行事になった。
1905年(明治38年)には、約1億枚だった年賀状のピークは、2004年(平成16年)で約44億5,000万枚まで増えた。
まとめ
それから、徐々に年賀状は発行枚数を減らしていくわけだが、その背景は通信手段の変化によるものだということは多くの人が理解できると思う。
ポケットベルや携帯電話が登場することで、気軽に文字が送れるようになった。
更にデコレーションしたり動きのある文字や画像が簡単に送れるようになると、必然的に需要がなくなっていく。
かくいう私も年賀状は一切出していないし、今後も出すことはないだろう。
おそらく、そういった人はどんどん増えていくだろうし、もしかすると年賀状に置き換わる慣習が生まれるかもしれない。
ここにもテクノロジーが慣習を変えた例が伺えることは頭の片隅に入れておこう。
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