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18年ぶりに食べた桑の実はあの時と同じ味がした


ひどい雨だった。フロントガラスに降りそそぐ雨粒たちは、空から一斉射撃をしてくるような激しい弾丸のようであった。打ちつけられる雨粒のせいで、車体の表面すべてから悲鳴が聞こえる。車の頭上から溜まった雨粒が何本もの線になり、フロントガラスからボンネットにむかって流れていく。雨粒の弾丸に撃たれて血が流れているようにみえる。エンジンを切っている車内には、雨に打たれ続けている車の悲鳴だけが聞こえる。車の走行音もなく、通り過ぎる人々もいない。

私は夫の出張に付き添い山梨県まできていた。前日に宿泊したホテルから、車で30分ほど走らせた場所にある食品工場に用事があった。工場のどこにいても、嗅いだことのある美味しそうな匂いが嗅覚を刺激する。その匂いは胃袋まで動かした。周囲は木々に覆われている。夫は工場の現場で立ち会わなければならない。2人のおじさんと共に工場内に消えていった。私は車内にひとり残された。私は夫が車に戻るまで1時間半はかかると想定した。この工場に前回付き添ったときも、そのくらいの時間がかかったからだ。

ホテルの朝食を食べすぎた。座りっぱなしも身体に悪い。そろそろ用も足したくなってくるだろう。夫が戻るまでの1時間半、車内で尿意を我慢するのは辛いと私は考えた。雨の降る中、片道10分かかる場所にあるコンビニエンズストアに歩いて行くことにした。車の扉をわずかに開ける。空から降りそそぐ雫の弾丸が、私の足先を濡らした。

山梨県八代郡市川三郷町、ここはハンコの里として有名な地域である。三郷町に入る車道には「ようこそハンコの里へ」と大きく書かれた看板の横に、”六郷”と彫られた巨大なハンコが飾られている。私はその地域の、大通りからひとつ外れた道を歩いていた。視線をあげれば一面に山々が連なっている。山の終わりは辿ることができない。山々の上のほうからは、白い水蒸気があがり雲がかかったようになっていた。木や大地は、美味しそうに雨水を吸いこんでいる。私がさす傘表面には雨粒が打ちつけられ、悲鳴をあげ続けている。左手に生いしげる竹林は葉先が垂れさがり、私を飲み込まんとするばかりにしなっている。割れた竹が地面に無数に散らばり、その先端は鋭利に尖っている。地面には、アスファルトに這い出てきたカタツムリが1匹いた。ナメクジのような身体がむき出しになっていて、動かない。坂の下にむかって流れていく雨水にただ、浸っている。雨水で濡れたパンプスの先で殻を突くと、伸びていた頭がすばやく殻に引っこんだ。生きていた。

コンビニエンスストアに立ち寄った帰り道、行きと同じ道を辿って帰った。行きすがらに見つけた、桑の木が気になったからだ。桑の木は6月頃になると、人が食べられる実をつける。形はラズベリーに似ている。濃い紫色をした実が食べごろで、赤い実はまだ固くが酸味があるということを私ははるか昔から知っていた。今から18年前、私が9歳だったころ。よく桑の実を食べていた。継母から食事を与えられず、学校の給食では空腹は満たせず、夕食は食べられるかどうか分からない。小学校の休み時間や下校途中によく食べていた。その頃は兵庫に住んでいた。そこも私が今歩いている山梨県の道と同じように、山々に囲まれた土地だった。12歳で千葉県に戻った以降、桑の実は見かけていなかった。あの頃に食べた桑の実が、こんなに近くにあるなんて。


桑の木の前に立つ。見あげて、木の先端まで視界にいれる。相変わらず雨粒は傘の表面を打ちつづけていて、私の耳には雨水がはねる音しか聞こえない。雨の日には不向きなパンプスはいくつもの水溜りを渡り、ぐっしょり濡れている。その下にあるストッキングまで雨水が染みこんでいる。無数にある枝のうちのひとつが、私の目の前に垂れ下がっている。その葉先はお辞儀をするようでもある。葉を触ると、つたってきた雨粒が私の手のひらを濡らす。手のひらを濡らした雨粒は、桑の木からつたってくる雨粒と合流して指先から地面に流れていく。葉と葉の間をみると、丸い形をした実がついている。ここだけではない、木全体に実っている。私は桑の木の最盛期に、幼いころの空腹を満たしたあの木に再会できたのだ、と思った。

濃い紫色をした実を3つ、垂れ下がった桑の葉のあいだから摘む。手のひらにのせると、紫色の果汁が皮ふを染める。口に含み、ゆっくりと噛んで飲みこむ。人間のために改良され、甘みが強くなった果物とは大違い。濃い紫色をしている見た目ほど甘くはない。えぐみもない。後味もない。水分にほんの少し加わった、甘みと酸味。あの時と同じ野生の味がした。



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