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日頃から使っているアプリとか思考とか。

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    常日頃使用しているアプリや諸々について。

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ミニマルなiPhoneホーム画面

普段使っているiPhoneホーム画面をミニマル寄りにカスタムしている。 ちょこちょこ改善改悪を重ねているので、折角だし備忘録として残しておこうと思う。 全体像はざっくりこんな感じ。 Dockを除き12個のアプリしか配置していないのは、片手でも親指が届きやすいようにするため。 癖でiPhone下部に小指を置いて支えにしてしまうこと、手がそこまで大きくはないことを考慮すると、3列構成が限界だった。 また、上部にウィジェットを配置していないのは、配置したウィジェット名が出ることで

    • 忙しなく進む3月

      3月の振り返りでもしようということで、 残り数時間で3月が終わる今になってこの文章を書き始めた。 とはいっても今月はめちゃくちゃに大きい出来事があったわけではないのと、仕事が忙しなさを極めていて何も覚えていないのが正直なところ。 下旬に差し掛かってからはもう精神的にも体力的にも参ってしまっていて、今になっても疲労が取れていないままだ。 とりあえず写真が残っているものを書いていこうと思う。 3月上旬 イケダサトル個展『天国のことは誰も知らない』 俺が好きな写真家のイケダ

      • 袂を分った人よ

        もう会えない人たちのことを想う。 友人だった人や恋人だった人のこと。 その数だけ後悔が積み重なっている。 俺はどうしても後ろばかりを見てしまう人間で、それが良くないと分かっていながらそれでも後ろばかりを見てしまう。 後ろを向いたって広がっているのは花すら咲かない荒野で、一切何も残っていないのに。 それと同時に、前を向くということは今関わりのある人たちのことを大事にするのと同義であることも分かっているのに。 前を向く以外にこれまでを清算することは出来ないというのも分かってい

        • 今がとても不幸であると絶望していた君へ。

          「現状不幸である。」から始まるこの文章は昔の私が書いたものだ。拗らせまくっていて、尖りまくっている。これを書いたのは数年前のことで、今見返せば幼かったや痛々しいななどと客観的な感想が出てくるが、精神的には今も大して変わっていないような気がする。 今更になってなぜこの記事を掘り起こしてきたのかというのも本当に偶然だ。 弊垢のIDを変えようと躍起になっていた時に、テキトーにメールアドレスを入れてログインしたら出てきただけ。少し懐かしい気持ちがしたのと、今の自分と比較してどうかを

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        記事

          Twitterを見なくなっても幸せになれるわけではない

          TwitterのTLを見るのを辞めてから大体1ヶ月くらいが経とうとしている。 今はMarinDeck(TweetDeckをiOS/Andoroid版)を使って、DM、情報収集用のリスト、つぶやきを見たい人のリスト、検索だけ見れるようにしている。 正直なところ、Twitterを見なくなったところで生活の質が上がったかというとそうでもない。ただ、精神的にはだいぶ楽になった気がする。 自分でも気づいていなかったぽいんだが、ここのところ精神的に参っていたみたいだ。Twitterで誰

          Twitterを見なくなっても幸せになれるわけではない

          Twitterなんかやってないで寝ろ

          かれこれ10年以上Twitterをやってきて、その間にとてつもない時間を無駄にしている気がしてきたのでやめてみることした。 昔こそ楽しかったけれど、今はただただ精神的に参ることの方が多い。 そんなところに固執する意味を見出せなくなった。 元々写真が好きで、カメラを買ってからはTwitterに投稿していた。ただ、それも最近は大して重要じゃなくなってしまった。承認欲求満たす為の馴れ合いや競争に疲れた。 私の写真は私が好きならそれで良くないか?と思い始めたこともある。 ただ、写真

          Twitterなんかやってないで寝ろ

          気怠さを身に纏っている

          もう生きるとか死ぬとか、もうこの際どうだっていい。 人間は死ぬ時は死ぬし死にそうな時でもなんとか生きながらえることができる時だってある。 俺はいつも気怠さを身に纏って新宿を歩くが、周りの人間はそれを見ちゃいやしない。 誰も俺のことを知らない。俺も誰のことも知らない。 それ故の気楽さってものがあって、気怠さを取っ払うこともなくいっそ共存してやるかという心持ちで歩いている。 自身の生き死にについて、どうでも良くなったのはもう充分なくらい幸福を得てきたからなのかはわからない。ただ

          気怠さを身に纏っている