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美しい晩餐会と不要な手術

これは去年、腹腔鏡手術を受けた前夜のお話。

2020年5月10日

 友人オーナーのレストランへ手術前の"最後の晩餐"をいただきに来た。予約で埋まるような店にとって貴重な休日、そのディナータイムに店を貸し切りで普段と違う店内の装飾、レイアウトで迎えてくれた。

 ドラマ「ハンニバル」のような美しい花や果実、燭台などがピンクとブラックの布を張った長いテーブルに飾られていた。広いフロアの中央、長テーブルの両端に対面するように2席、友人と自分の2人きりの奇妙な晩餐会となった。

「いい服だな、貴族のパーティか何かのようだ。良く似合うよ。」
「ありがとう。この場に相応しいだろう?」
「うちが高級レストランになったようだよ。」
「ならば君は一流シェフだな。」

 彼は"悪ガキ"の頃から料理だけは上手い男であった。手先は器用だが、絵は何を描かせてもゲルニカのようなキュビズムの様式で、屢々僕を不安定にした。
 駄菓子屋の爺によく万引きして怒られたと学校でよくクラスメイトから聞いた。授業などまるで上の空で、よく寝ていた。自由のない僕から見れば、羨ましく妬ましい、しかし憎めない自由奔放な男だった。

 そんな男が気がつけば調理師となり、ソムリエとなり、あのキュビズム様式のセンスが皿の上では芸術的に開花した。彼の世界観を独占できる空間を用意したいと出資し、独立を後押しした。
 …強引だったかもしれない。しかし、きっと僕が出資しなくても何れ誰かが同じ事を思い、出資するだろうと確信していた。

 開店するにあたり家に眠ったままの使わないピアノを1台贈った。店のインテリアに、時折 僕や地元の音楽家が演奏をした。一段高い小さなステージにピアノがよく映えた。

「今日は貸切って申し訳ないね。」
「レストランウエディングの練習だよ、業者さんも張り切ってくれてな。俺は料理しかしていないよ。」
「だろうな。君がせっせと薔薇を飾りハート形の風船を膨らますのを、僕は見てみたい気持ちはあるがね。」
「昔は水風船を山ほど作って教室で戦争をしたじゃないか。もう十分人生で作りきったさ。」
「ああ、服を濡らしたくなくて僕は廊下から見ていたよ。ホースが暴れたかと思うような戦場だったな、あれは雪合戦より質が悪い。」
「はは、ここではやりたくないな。」
「僕は駐車場から見ておくよ。」

 昔の話をする彼が一丁前にコック姿の服を纏っていると、まだ違和感というか良い意味で面白い。それは僕も同じだろう、学生時代からはまるで別人のように成ってしまった。
 お互い昔と変わらない事といえば、強い拘りや信念、その諦めの悪さだ。特に彼の場合こうして成功しているのだから間違いない。彼は本当に努力家で適度な息抜きも忘れない生き方の上手い人間だ。

 世間はコロナが全国に流行り始めた頃で、死者もそれなりに出始めた頃だった。だが、この店は客が途切れる事が無かった。予約で埋まる日もあれば、当日の仕込み分を出し切り早めに閉めた日もあったのだと聞いた。
 しかし、最近は酒類の提供が禁止され、拘りの酒が出せなくなると夜には若干影響が出てきたそうだ。

 僕はと言えば、当時からライブツアーやアルバム・MVの収録、運営している音楽教室のレッスンや発表会…何もかも延びたり無くなった。
 今はライブツアーこそできるが、昔のような騒がしい歓声やお客さんの動きも何かと制限が厳しく、会場にもスタッフにも気を回さなければいけないので公演の度に気疲れと物足りなさを感じてしまう。

 一周廻って笑ってしまうほど不幸な話ばかりだが、自分達は不思議と穏やかな気持ちだった。それはこの空間と素晴らしい料理のお陰だろう。
 空間のデザインにおいて彼は本当に素晴らしい、これで料理も素晴らしいのだから正に天職なのだ。

 そしてコーヒーが出される頃、久しぶりにピアノの演奏が聴きたいと言うので弾く事にした。最近ではストリートピアノもなかなか演奏する機会がなく、コンクールやピアノが置いてある店で即興演奏する方が多かった。

 二杯目のコーヒーを飲み干すと、ピアノの椅子に腰をかけた。コンクールや定期演奏会で定番、割と得意な幻想即興曲やピアノソナタ、リクエストのクラシック、ゲームやJ-popのアレンジ曲など、BGMとして店で流すには相応しくない滅茶苦茶なラインナップではあるが、二人きりだ。

 一頻り弾き終わると彼は満足気に拍手して話した、僕も満足した。彼は僕の手を取ると穏やかな笑顔で話した。

「君は本当に上手くなったな、演奏も生きることも。奇麗になったし、よく笑うようになって安心した。遅くなったが誕生日おめでとう、来年も祝えるように無理はしてくれるなよ。次は退院祝いで使ってくれ。また君の演奏が聴きたいよ。」

「……ありがとう、任せたまえよ。」

 面会謝絶ということもあり、見舞いの差し入れ代わりだと代金は要らないというが、自分なんかの為にわざわざ店を開け素晴らしい空間を用意してくれた。そんな温かな空間とお店が続いてくれるようにと封筒に縁起よく77万円入れて渡した。

「受け取れないよ、多い多い。」
「退院祝いも此処でやるさ、前金と思って。」
「…わかった。釣り銭は出さないよ。」
「充分だ。また来る、今度はヴァイオリニストでも連れてくるよ。」
「それは楽しみだ、手術頑張って来いよ。」
「…ありがとう。」

 そんな話をしていると、丁度迎えの車が店に来た。颯爽と乗り込んで走り出したものの、帰りの車では気が付いたらボロボロと泣いていた。嬉しいのか哀しいのか、よく分からない涙だ。
 一瞬、"これで最後かもしれない。"という不安が心を過ぎったが、道端に捨ててきた。


2020年5月12日

 無事に手術が終わり、朦朧と目覚めると呼吸用の管を喉から引き上げられた。商売という程でもないが、喉は大事だ。少し喉に傷が付いたのか暫くは喋られなかった。
 しかし体調が直ぐに悪くなり、意識もなくなった、短かったがICUで過ごしたらしい。その間の記憶は全くない、痛みすらなかったと思う。

 低体重で何かと気を遣わせてしまったが、一般病棟の個室へ戻ると、次は身体も自力で左右に傾けられないような痛み、体中に管、尿道カテーテル、生きていると感じた。
 2日程で管も順番に外れ、自力でどうにかトイレにもいけるようになった。シャワーが使えるようになると不思議と痛みが引いてきた。

 部屋は一人部屋、大きなベッドが楽だから良いと選んだ。キッチンや会議室、専用の風呂まであり、まるでホテルのスイートルームのような広さだ。当然個室代も桁が違う、しかし入院も極力したくは無いわけで、何度も入れる場所ではないから折角ならと選んだのだ。

 落ち着いた頃にはTV会議を使い、面会謝絶の代わりに少しだけバンド関係者や色んな人と雑談をして過ごした。
 手術の時の喉に入れていた呼吸用の管の影響で、まだガサガサな声や時折咳き込む情けない姿ではあったが無事は無事だと自分で説明できてよかった。

 晩餐会に付き合ってくれた友人とも話をした。
「無事でよかったよ。」
「ああ、また君の店にも行くよ。楽しみだ。」
「早く退院できるといいな、店には後からでいいから。君の暇そうな姿が想像できるよ。」
「良い部屋なんだがね、ベッドや風呂は最高だが、料理が口に合わないし太りそうで相変わらずさ。」
「いいじゃないか、たまには料理食えよ。そんな量を食った所で退院したら週に一度しか固形物食べないじゃないか、大丈夫だよ。」
「ああ、そうだな…。」

 拒食症なりに流石に点滴だけでは満足に動けないので仕方なく食す。時折罪悪感から吐き戻してしまったが、きっとこれが「生きる」という事なのだろう。

 それにしても彼の店で最高の饗しを受けた後ではテーブルや食事の質素さ、やはり物足りなさを感じていた。食事する場の雰囲気は思った以上に大切だと改めて思った。

 それから数か月後、また彼の店を貸し切りで訪れる。丁寧で華やかな店内やテーブルの装飾、絵画のような美しい食事。

「あぁ、やはり食事はこうでなくてはな。」
「そうだろ?俺は一流シェフだからな。」
「僕も貴族だからな。一流の物しか食わないさ。」




…今日のお話はここまで。

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