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ようこそ 春の白鷺城へ 【その壱】 

桜と詩歌と世界遺産 * ひめいち【番外編】


1.プロローグ

 絶等寸の山の峰の上の桜花咲かむ春へは君し偲はむ
たゆらきのやまのをのへのさくらはな さかむはるへはきみししのはむ
播磨娘子

【万葉集 巻九 一七七六】

絶等寸(たゆらき)の山とは、現在姫路城がそびえる姫山のこと。
播磨娘子、播磨守に仕えた名もなき女性の別れの歌です。
彼女の愛した播磨守、石川朝臣君子が五年の任期を終え都へ帰ったのは720年頃とされます。今から1300年も前のこと。

当時(奈良時代)は梅がお花見の定番だったようですが、この歌にははかなく散ってしまう桜の方が似合っているようです。
姫山の ”咲かむ春” の桜は、咲いては散るをあまた繰り返して、今日に至っているんですね。

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この記事を訪れていただき、ありがとうございます。
ようこそ、おいでくださいました。
今回は、ひめいち(姫路検定1級の応援サイト)の番外編として、春の姫路城へとご案内いたします。

詩歌を織り交ぜながら、またたっぷりの画像を愛でながら、
桜に染まった国宝かつ世界遺産の絶景を存分にご堪能ください。



姫路城の別名は、白鷺城
地元では ”しらさぎ城” ではなく ”はくろ” 城と漢語読みします
以後、白鷺城としてご案内します

姫路城が日本で初めてUNESCO の世界遺産に登録されてから、今年(2023年)で30年。
年間を通して多くの観光客が訪れますが、何といっても3月下旬から4月上旬にかけての姫路城は格別。
桜色一色に染まった姫山から超弩級の白鷺が翼を広げます。


2.JR姫路駅からお城へ【駅を出るとそこはもう城内】

お城の周りに駐車場はいくつもあって、結構な数の車が駐車できるのですが、桜のシーズンの交通量は半端ではありません。
下手をすると駐車場に入るまでに渋滞に巻き込まれ、駐車待ちでまた相当な時間を費やしてしまうということにもなりかねない。
運悪くそんな時に車で(家族で)来られたら、パパに運転を任せておいて、みなさんはさっさとお城にお向かいください。見学を終えてお城から出てくる頃には、パパも駐車場に着いていることでしょう。

でもやっぱりお勧めは、時間が読めてしっかり計画が立てられる電車でのご訪問です。みなさんそろって、お城へと向かいましょう。


JR姫路駅北側の眺望デッキから

姫路駅北口を出てからお城の大手門まで、ゆっくり歩いても約20分、徐々に近づいてくる天守にワクワクしながらのウォーキングをお楽しみください。

歩くのはどうも苦手という方は、リーズナブルなバス(城周辺観光ループバス)やレンタル自転車(姫ちゃり)などがあります。
(↑ 各紹介サイトにリンクしています)

ちなみに、この記事の取材日での姫路駅からお城への往復の歩数は、筆者の足で1万歩と少し。お城の中は一般的な見学コースを通りました。
時間的には駅を10時出発の14時頃帰着。ただこれは、あちこちお店に寄ったのであくまで参考とお考えください。


ループバス(100円/回)とレンタル自転車(100円/日)
こんな感じです

では、ここからは徒歩での出発を想定してのご案内です。

まず駅を出てすぐ、右(東)側、駅ビルの前にサンクンガーデンがあります。(キャッスルガーデンという愛称)
見下ろしてみてください、地下1層分掘り下げられた公園なのですが、小川が流れていますよね。
実はここ、城の外堀をモチーフとしていて、周囲の城下町を取り込んだ総構え城郭だった姫路城では、このあたりまでが外曲輪エリアだったのです。

そう、すでにみなさんは白鷺城内に足を踏み入れようとしているのです。(同時に世界遺産のバッファゾーンでもあります)

画像がこころなしか寒々していますが、
この画像の撮影は2月の下旬
以下、桜が映ってない画像はこの日のものと思ってください


お城へはまっすぐ北へ。見えてますので迷子になる方はほぼいません。
この直線850mの歩行者道路は、*「ほこみち」の指定を受けていて、季節の花々が植えられている花壇やウッドデッキ、ベンチが置かれているくつろげる場所でもあります。

※ほこみちは、民間事業者が道路を利用する際に必要な道路占用許可を柔軟に認め、歩道上にいすや看板などを設置しやすくして歩道の活用を促す国の制度(2021年に全国初の指定)

だそうです。ようするに便利で賑やかな憩いの道ってことでしょうね


お天気のよい日は、途中にある姫路名物「駅そば」などをベンチでいただくのも良いです。
この駅そば屋(まねき)さんは、大手前通りの左(西)側の歩道にあります。また、右側の歩道には、ヤマサ蒲鉾さんの「城下町どっぐ」の店があります。
見た目はアメリカンドッグ、中身はチーズかまぼこ。できたてほかほかは絶品です。
往きと帰りにそれぞれ食べていただくのがよろしいかと。^^

この日は”神戸牛”というのぼりにつられて肉そば(¥650-)をいただきました
旨かった~ ♪


ヤマサさんです。二階には美味しい和蕎麦屋さんもあります

実はこの大手前通り、太平洋戦争中の空襲で焼け野原になった街を整備された一部なんです。1945年7月3日深夜、姫路の中心部はB29大編隊の空襲により多くの人が亡くなり、市街も壊滅状態になってしまいました。
「えっ!?その時姫路城は大丈夫だったの?・・・」ですか、それは後ほど天守の項でお話ししましょう。

なお、この大通りの1本東には、みゆき通りという商店街があります。
地元の方は、こちらをブラブラしながらお城への往き帰りを楽しんでいます。(紫外線は避けたい!という方々にもオススメ)

逆に1本西の通り、実はこの道こそ江戸時代の大手筋。
お城の玄関口であった中の門(中堀を渡ったところ)に続いていたのです。
先の空襲で、城下町の風情はほぼ失われてしまっていますが、往時をイメージしてこちらの道を行くのも(お城マニアやリピータさんには特に)お勧めです。
お夏清十郎で有名なお夏の実家「但馬屋」もこの筋にありました。

という内に、そろそろ天守が大きく望める中曲輪に入ります。
白鷺城は三重の堀に囲まれていて、歩いてきたここまでは外堀と中堀の間、すなわち外曲輪を来たのですが、ここからは中曲輪。
中堀の内側になります。
東行き一方通行の国道2号線よりお城側です。

石垣が見えている道路の手前までが外曲輪、その先が中曲輪

ストリートビュー風?にすればこんなところでしょうか ↓

城内にある江戸期のジオラマの画像に描き加えています

そう、この辺りの国道2号線は、中堀だったのです。
大正から昭和の初めにかけて埋め立てられました。
当時の市長は、「堀音吉」さん。
「それやったら、堀埋吉(うめきち)やないか」と市民に揶揄されたのは言うまでもありません。

この日は姫路城マラソン用のテントが準備されていました(右が大手前公園)

お城前にやってきました。
右手には大手前公園という広場(よくイベントなどやってます)。
左手にはお土産屋さんやお食事処がたくさんある、家老屋敷跡公園になります。

さあ、あと少しで白鷺城です。

播磨野は朝すがしき浅霧の松の上なる白鷺の城
はりまのはあしたすがしきあさぎりのまつのうえなるしらさぎのしろ
長塚節

長塚は、大正3年(1914)6月9日、結核の治療のため九州大学附属病院に向かう列車から姫路城を見てこんな歌を残しています。
松食い虫の被害が出る前は、城内は多くの松に覆われていたんですね。


松と天守との絶景スポットですが、当時ほど(松は)多くはないのでしょう


3.桜門橋~内堀と大手門【いざ!異次元ワールドへ】


画像は4~5年前のです

桜の季節には、今年も内堀を上の画像のような和船が運行されているはずです。
乗船希望者が多ければ予約が必要、となってしまうのですが、この船には是非乗っていただきたい。
船頭さん手漕ぎのこの船。ゆる~く堀をめぐりながら解説もしてくれて、とにかく癒やされます。
石垣を覆うように咲き誇る桜を愛でながら、静かなクルーズを楽しみましょう。
内堀は一部動物園内に入り込んでいますが、そこから眺める天守は絶景中の絶景!。歩いて眺める風景とは、全く違った景色が広がるはずです。

登城前に(見学時間を考慮すると2~3時間後の)予約を(是非)お取りください。


和船から見た天守
この画像は数年前のもの、現在お城はこれほど白くはありません(念のため)
白鷺城見学は、広い城内に加えて、五層六階の階段の上り下りと結構疲れます
くたくたになった体にこの和船!なんともいえない "異次元” の癒やしです

和船はお帰りの時の楽しみにおいといて、まずは桜門橋を渡って内曲輪へ。

桜門橋。かつては木橋でしたが現在はコンクリート製のこの橋、年間200万人近くが往復します。

取材日にはこの桜門橋、きれいに(ニス塗りでしょうか?)お化粧なおしがされていました

目の前に大きな大手門が見えますが、江戸期には、桜門橋を渡ってすぐに桜門という比較的小さな門がありました、そして現在の大手門辺りに桐の二門、いわゆる枡形になっていてその出口が桐の一門と、橋を渡ってからの狭い範囲に3つも門があったのです。入り口からして厳重な防御となっていたんですね。

入り口付近の案内パネルより

現在の大手門は、1938年に日本陸軍によって建てられたもので、開口部が高く広いのは高射砲などを運ぶ軍用車両のためといわれています。


蓮枯れて晴れのむら雲姫路城
はすかれてはれのむらくもひめじじょう
飯田蛇笏

今はきれいなお堀の水面ですが、大正時代はハスに覆われていたとのこと。
それはそれで夏はハスの花がみごとだったことでしょう。


そして、ここからがいよいよ世界遺産のコアゾーン。いざ!大手門をくぐって三の丸広場に入りましょう。

4.三の丸広場【千姫の春やむかしの夢の跡】


撮影日は2月の平日。ちょうど良いくらいの天候と観光客数でした
外国の方も(コロナ前とは比べものになりませんが)結構来られていました


大手門を入って左に行けば見学登城口、右には動物園が見えます
この動物園内(特に桜の頃は)撮影スポットがいくつもあります(次号、その弐で紹介予定)

このあたりで、白鷺城(姫路城)の歴史や城郭の広さ、高さ、重量等々のデータを記載しようと思ったのですが、考えれば他にいくらでもそのような紹介サイトはありますよね。
詳しい情報、データはそちらをご覧いただき、ここではざっと歴史をおさらいすることにしましょう。(ようするに、筆者も楽をしたいってことで;)

■姫路城の歴史
築城については二つの説があります。
・1346年に建武の新政~室町幕府設立時に活躍した赤松一族の内、赤松円心の次男、赤松貞範がこの地に築城、というのが通説。
・その約200年後、黒田官兵衛の祖父(重隆)・父(職隆)が初めて姫山に城を築いたというのが新説。
はっきりとしたことは今も謎のままですが、赤松氏の勢力がこの地を拠点のひとつにしていたことは事実で、「城」とまではいかなくても、「砦」のような軍事拠点はあったのではないかと思っています。

そして、姫山に天守を持つ城を初めて築いたのは、羽柴秀吉。
黒田官兵衛から城地を譲られ、三層の黒い、西国初の天守を持つ城を築きました。
これは1580~81年にかけてとされており、織田信長の命を受けての毛利氏を中心とする西国勢力と敵対していた頃でした。(本能寺の変~有名な中国大返しは1582年)

現在の白漆喰総塗り籠めの*連立式天守は、関ヶ原合戦の後に池田輝政が築いたもので、1601年から9年の歳月をかけ完成させました。
なお、輝政の正室は、徳川家康の次女督姫です。
*連立式天守:姫路城は大天守を囲むように3つの小天守が連なっています。あくまで防御のために設計されたのですが、この機能美により、他の連立式天守にはない優美かつシャープな外観となっているのです。

その後、次の藩主本多家が西の丸などを整備し、現在に至る城郭の基盤が出来上がります。
本多家の初代城主忠政は、徳川四天王の一人である本多忠勝を父に持ち、嫡男の忠刻は家康の孫にして将軍秀忠の長女、千姫を妻にしています。
また、忠政の正室(忠刻の母)熊姫の祖父は、織田信長(母方)と徳川家康(父方)。
めちゃくちゃセレブなファミリーだったんですね。

その後姫路藩主は、奥平松平家(家康の長女亀姫の系)、結城松平家(家康の次男結城秀康の系)、榊原家(四天王の)榊原康政系・・・と徳川家に近しい人たちが幕末まで続きます。

さて、大手門を入って見学入り口(有料入場口)までに左側に坂があります。
坂の上には、江戸期中頃まで城主が住んでいた御本城という御殿があったのですが、その二つの坂が桜と城を撮るための絶好のスポットになっています。
次の三枚は、そんな通路や坂からの画像です。

江戸時代にはこの広場には多くの建物が建ち並んでいました
厩(うまや)、向屋敷と呼ばれた御殿・・・
そうそう、これを撮影した真後ろには、千姫の住まい武蔵野御殿も
大天守を囲む左手奥が乾小天守、手前に西小天守
三つ目の東小天守は、大天守に隠れて見えません


桜シーズンの休日ともなると、御本城跡や三の丸広場はお花見客で埋まります


雁かへる方や白鷺城かたむく  萩原麦草
かりかへるほうやはくろじょうかたむく

「城がかたむく」というさまと破調の取り合わせが絶妙なこの句ですが、
実際に傾いていたんですねこの城は。
昭和の解体修理(1964年完成)まで南東の方向に44cmも傾いていたとされています。
考えてみれば、6000tともいわれる天守の重量をコンクリート基礎でもない土と石の地盤で400年近くもよく持ったとも言えます。(現在はコン基礎です)


大手門を左に入ってすぐの南側、ここはかつて千姫の下屋敷「武蔵野御殿」が建っていました
名残の石垣は ”切込み接ぎ” という種類。当時最も技術レベルが高く、見た目も美しかったのです

千姫の春やむかしの夢の跡
せんひめのはるやむかしのゆめのあと
梶子節

千姫のお話は、その弐でも少ししましょう。

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というところで、次回はいよいよコア中のコア、二の丸から天守へと向かいます。



↑ 次もよろしくお願いします。



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