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発達凸凹は猫である

最近「発達障害」に関する優れた漫画を二作読みました。

「発達障害」は最近になってようやく社会的に認知されてきた考え方です。

人の脳には誰にでも偏りがありますが、個性的な脳を持つ人たちの偏り(実生活におけるこだわり)への心理学的研究が進んだため、世界的に「発達障害」が知られるようになってきているのです。

「発達障害」は生まれつきのもの。

しかしながら、この事実すら一般にはまだまだ認知されてはいません。当事者にしか関係ないという人がほとんどでしょう。

多くの人が、「発達障害」は先天的な病気ではなく、生涯変わることのない人格の一部、「個性」であるということも知られていない。

だから、アルツハイマーか何かの病気のように、「治るといいですね」なんて無邪気に言ってしまう。

社会的一般認知では不治の病?

病気じゃなく、個性。

背が高かったり痩せすぎていたり、牛乳飲んだら下痢をするといったような体質のようなもの。

ならば改善できるのか?

人は変わり続けることができるので、反社会的な個性や性癖はある程度まで改善することができます。

でも人の性癖はその人の個性そのものなので、なくなりはしません。

「障害、障碍」という言葉は差別的。

発達凸凹」と言い換えられてもしますが、「発達凸凹」という言葉を聞いたことのない人の方が多いのでは。

発達凸凹とは

わたしは「発達凸凹」認定された家族を持ち、私自身もグレーゾーンな人だと思うのですが、おかげで「発達凸凹」のことはさんざん勉強しました。

ですので、上記の二作品を読みながら、わたしとしては日本の「発達凸凹」が生きてゆく難しさを読みながら痛感せずにはいられません(日本の漫画なので、日本社会の文化的文脈の中で発達凸凹の生き辛さに焦点が当てられます)。

誰もが生きにくい現代社会。マウントするとか、パワハラとかちょっとしたことが大問題になる。発達凸凹だろうが定型だろうが確かに同じ。

どこの国にいても、いろいろ社会的軋轢を作らずに生きるのは難しい。

日本と比べると、一般的に外国は多様性に寛容な世界。様々な人種に宗教がある。

なので発達凸凹であることの個性が引き起こす社会的不和もそれほど大きな問題にはなりにくい。

でも根本的に着眼するべき点は、人はみな違うということ。だから不和が嵩じないように、社会は規範を作る。でも規範を作ったのは、発達凸凹な人の個性を考慮してこなかった社会なので、発達凸凹は生きにくい。

個性は人それぞれなので、Autism Spectrum Disorder自閉症スペクトラムと呼ばれます。

発達凸凹ではない定型と呼ばれるバランスの良い精神発達をする人も忘れっぽかったりする人もいるけれども、発達凸凹のように極度に「病的」でもない。

発達凸凹とはやはり病気なのか?

スペクトラムとは

英語から生まれたカタカナ語、スペクトラムとはこんなもの。

コンピュータでウェブに仕事をされる方はよくご存じのカラーホイール。

でも上のホイールは赤や青などのそれぞれの色には境界線がなく、グラデーションになっている。この一つ一つの色が人の個性。

こちらのWheelはグラデーションなしの色分け大別チャート。そしてここに書かれた一般的な色合いが定型発達と呼ばれる一般形。

例えば、黄緑と黄色は別の色。

でも最初のホイールのように境界線はないのはどこか変。色合いは少しずつ変わるのに。そして黄緑と黄色の間の中間的な曖昧な色がスペクトラム。

標準の色合いから外れている色が個性のスペクトラム。ある人はより緑である人はより黄色い。

現代社会は人の個性を尊重する受け入れるという方向に向かいつつあり、個性的であることはいろいろ評価される。

でもそれはあくまで純正な黄緑や黄色の個性を持つ人のことで、そのどちらにも当てはまらない人はやはり取り扱いにくい人と認定される。

個性的なのは良いとされるようになってきた。でも社会的定型人間は赤や青やオレンジで、青緑や中間色だと変な奴と見做される。

海外の社会は中間な色の個性の人を受け入れる素地が日本よりもずっとあるのだけれども、それでもそれなりに大変です。

いろんな文化の人がいるので、違って当たり前。

同性愛など性的嗜好さえも社会的に許与されて、同性婚もOKなのですから。

海外において、非日本人と一緒にいると、わたしは日本人代表。

私が仮に特異なふるまいをしても、あいつは日本人だからという枠で許容されることもあるし、そういう人だからと受け入れてくれる。だから本当に海外で暮らせていてよかったなと心から思います。

日本に帰国すると、人と人の関係があまりに緻密で疲労します。

例えば、日本という国、カスタマーサーヴィスはもう最高。世界一。

最敬礼でお客様のわたしに挨拶してくれて、ありがとうございましたと笑顔で応えてくれる店員さん。なんでもだれでもお客様には、または知らない人には親切で、ほんとにいい国だけど、わたしは、優雅な白鳥が水面の下では足を必死にばたつかせていることを知っている。いつでも気持ちよく浮かんでいるわけでもない。

店員になると、世界的にみて最高級の挨拶ができないと接客失格のレッテルを張られるし、空気が読めないと煙たがられる。日本文化に根付いた接客マニュアルに従う必要がある。ああしんどい。あそこまでしなくてもいいのに。もっと普通にすればいいのに。

普通ってなんなんだろう。

上記の漫画「リエゾン」と「僕の妻は発達障害」を読むと、この「普通」の意味を考えさせられるのです。

漫画「リエゾン」

リエゾンはそれなりに優秀な発達凸凹女性「志保さん」の物語。

精神科医の卵なのですから。

でもいろんな場面でやらかします

はっきりとモノを言いすぎたり、物をすぐになくしたり忘れたり。協調しないで独走したり。

でも誰よりも患者さんに共感することができるので、感情移入できる。きっと、彼女は天職を得ることができたのだ。

私自身もそうですが、極端な偏愛や過集中や人並外れた分析能力、記憶力は、特殊能力として評価もされますが、全く諸刃の刃。

不正への極度な嫌悪や歯に絹着せぬはっきりとした発言は相手を攻撃したりもしてしまう。言葉を文字通りに受け取ってしまうことも。曖昧な言い回しは嫌いです。

だから自分の類まれなる能力を使いこなせるようになることに、人一倍苦労する。

この説明が気に入ったので引用します。

バランスよく能力を備えていないと、ブレーキが普通車仕様のスポーツカーのようになる。
危なかしくて仕方がない
またはロールプレイングゲームで攻撃力ばかりが高いキャラになる。
発達凸凹が暴走してしまうのはそのため。
実際には頭脳明晰でも社会性の発達が遅れることが多い。
なんとも生きづらいのです。
足りない部分を自覚できれば、この漫画で語られているように、戦い=生活は改善できるのです。

偏ったアンバランスな能力は取り扱い方を学ぶまでが本当に大変なのです。

能力のバランスが良くても(いわゆる定型発達な人)やはり社会的な居場所を作るのは苦労しますよ。でも発達凸凹は人の倍以上苦労する。

居座るべき社会が発達凸凹向きにはできていないからです。

また漫画ですが、名作クラシック音楽漫画「のだめカンタービレ」の主人公野田恵、通称「のだめ」は、わたしに言わせてみれば「変態」でもなんでもない。

部屋をかたずけられない、ある種の匂いに敏感で、天才的音感を生まれ持って備えている、全て彼女の発達凸凹らしさ。

彼女は音楽のすごい能力を持っていたけど、楽譜通りに弾かないといけないという決まりのあるクラシック音楽には、本当は向いていない(バロック音楽など、一部の音楽を除けばアドリブや楽譜改変はNGです)。

ジャズピアニストになれればよかったのだけれど(即興演奏するので)。

なんでも極端に走る彼女
リストの超絶技巧曲も人真似で弾きこなす

これからの世界、こういう人たちが社会的にもっと受け入れられてほしいです。でもそれができるようになるためには、まずは環境整備。

社会的にこういうタイプの人たちがいるということが知られる必要がある。

障碍者と呼ぶにはある分野においてはアンバランスにあまりに能力がありすぎて困る人たち、それがASDな人。

漫画「僕の妻は発達障害」

とここまで書いて、「のだめ」とは違って、「個性」が社会的に秀でた能力とは見なされない場合はどうか。

天真爛漫で天然ボケ。そういうタイプ。

実は発達凸凹な人には、特殊能力などを持たないこのタイプが多い。

スペクトラムなので、程度の差はあるにせよ。

例えば、ある分野が130以上で、苦手な面が80以下だと、いつの日か、その人は社会に必要とされる人になれる可能性が高い。130の分野の能力を生かせるようになればいい。でも80は本当に克服しがたいハンデ。

でも飛びぬけてすごい能力もない場合は?

それでいて実生活を送るに大切な能力がない場合は?

「僕の妻は発達障害」の主人公知佳は、書かれた文字を読めない学習障害を抱えています。

学校では「変な人」としてずっといじめられてきたのでした。

本が読めないので、勉強はできなかっただろうし、社会的教養もない(教養は良い学習環境において身に付きます)。

外国では今ではディスレクシアの子供には特別学習支援が与えられます。

名俳優トム・クルーズはディスレクシアで映画の台本が読めない人でした。キャリアのある時期から、書かれた文字を読むことを努力して覚えたそうですが、誰か別の人に台本を読んでもらって演じていたとか。

でも、全ての発達凸凹がトム・クルーズやトーマス・エジソンやイーロン・マスクやビル・ゲイツにはなれないのです。

社会的な成功を全く持ったことのない彼女は、漫画家見習の彼と出会うことで人生が大きく開けますが、やはり大人になってから自分が発達凸凹であることを学んだのです。彼女の傍に彼女を理解してくれるパートナーがいてくれてよかった。でも数年は葛藤し続けたそうです。

自分に合った人生探しを漫画家アシスタントの夫と二人三脚でしてゆくのがこの漫画の物語。

人生のゴールは幸せになることなので、そこまでたどり着く道のりを千佳さんが精いっぱい味わって生きてゆく物語。

まだ五巻までしか出版されていない漫画「僕の妻は発達障害」は、「僕の大好きな妻!」としてテレビドラマ化されたそうですが、わたしは見ていません。ぜひ見てみたいですね。

この二作、発達凸凹理解に大変に役立つ作品。

自閉症は猫である

さて、漫画以外にも素晴らしい絵本をご紹介いたします。

漫画の知佳さんは猫が大好きで、猫と一緒に本気で喧嘩したりとあまりに子供っぽくて発達凸凹を知らない人は呆れられるかもしれませんが、こんなの当たり前。

そしてASDな人はどこか猫に似ている。

または猫と同類である(笑)。

だからASDとは何かを教えてくれる素敵な絵本が作られました。

英語版の動画ですが、この動画で中身を確認できます。英語ですが、わかりやすい言葉で書かれていて、英語ネイティブの子供にも理解できる。

これなんか最高にASDの特徴を言い当てています。

猫は正直、それはとてもいいこと、でも時々正直すぎる(思ったことを包み隠さず口に出す)
「これが猫なんです。猫であることで幸せ。出来の悪い犬じゃないんです。
アスペルガー症候群は個性の違いであって、病気ではないのです」。

猫は臆病で社交的ではないけれども、他人の愛を求めるし、愛情を必要とします。

じゃれると悪気ないのに知らずに相手を引っかいたり、何度言われても研いではいけないところで爪を研いだりします。犬のように学習できない。

猫のようなASD。やめる迷惑だとわかっていてもことができないこともある。ならば代用品が必要
「僕の妻は発達障害」より

猫の特異な行動はASDな人のそれに、本当によく似ています。私はそう思います。アイコンタクトできないとかも。

猫は見ていて楽しいし、ほんとに個性的。獲物を捕まえる猫は本当に優秀な狩人。でも苦労して捕まえた獲物を殺して、その場に放り出しっぱなしにもする。

猫好きにはアスペな人の行動が良くわかるはず。

ちなみにアスペルガー症候群とは、自閉症と呼ばれる社会適応に難を抱える人たちの中のほんの一部のタイプで、ほんとうにいろんな自閉症のタイプがあるので、いまではすべてひっくるめて自閉症スペクトラム症候群ASDと呼ばれているのです。

ADHDもLD学習障害もアスペも、スペクトラムの一部。

Giftedの中でも、あまりに極端な場合は、やはりASDなことが多い。

作曲家のベートーヴェンやバルトークやサティが典型。

モーツァルトはASD気味のADHD。他にも山のようにいます。過集中のシューベルトや、社会的道徳観欠如(世間が読めない)のドビュッシーもそう。

脳の偏りとは、必ずしも心の偏りではありません。

発達凸凹な人も誰かを愛したり愛されたりしたいし、そうなるべき。

愛され方が少し違って、いろいろ感覚過敏なので抱きしめられることに嫌悪感を感じたりする人もいるけれども、彼らには違った愛情表現がある。

定常発達というマジョリティータイプとはだいぶん違うけれども、社会のなかに独特な考えや行動を持つ人がいることは多様性。

社会が単一な人たちだけで満たされてしまうと、単一文化社会は滅びてしまう。

多様性の欠如が古代文明の数々を滅ぼした主因であることは生物学的にも人類学的にも確かです。これらのベストセラーなどを読めばよくわかります。変化が生じたときに、多様性が生かされる。多様性がないと、生物としての人は、人の文明は、生き残れない。

あなたの周りの少し変な人、発達凸凹なのかも。

コレクション大好きなオタク男子とか、コミュ障とレッテルを張られている自分を表現するのが下手な人。

女性の場合は、身だしなみを意識しない、女子トークが苦手なズボラ女子だったりして。


最近はなかなか良い本が日本語書籍でも出版されています。

あなたの周りの少し変わった人のこと、理解するといいことあるかも。

あなたの部下をもっとよく理解できるし、よし仕事を与えられるようになるかも。そしてあなたの少し変わった友達のこともよくわかるようになる。

またあなた自身が少し変わった人かも。

あなたの子供、そしてもしかしたら「毒親」と呼ばれるひどい親も本当は発達凸凹なだけで、理解されずに歪んでしまった結果だったのかも。本当に残念だけど、そういうことが多い。

自分はADHDだといわれる方には、この本がお勧めです。わたしはワンコも大好きです。

あなたの周りの多動な人で、犬のようにせわしなく、また楽しい人だなと思われる人がいるならば、犬をかわいがるように接すると人間関係が変わるかも(笑)。

またあなた自身がADHDな要素をお持ちならば、ぜひ犬を飼ってみてください。人生の伴侶になってくれますよ。ああそっくりだなあって。まあスペクトラムなので人それぞれですが。

わたしは愛犬(フォックステリア)と14年一緒に暮らして、彼から人の社会からは学べない大切なことをたくさん学びました。

スペクトラムな人は人と一緒に時間を過ごすよりもペットと一緒の方が幸せ、きっと同類だから(笑)。今は家族と猫と暮らしているけれども、また犬を飼いたいなと思っています。

社会という舞台上で演じる人生

わたしがシェイクスピアが好きなのは、演じる世界の物語だから。

私は誰かと会う時、またはたくさんの人たちと一緒の時間を過ごすとき、社会的な自分を「演じて」います。あるがままの自分では外の世界ではやってゆけない。そんな風にして40年以上も生きてきました。

息子を演じて、
父親を演じて、
教師を演じて、
同僚を演じて、
良き友人を演じて、
夫を演じて、
良き隣人を演じて、
または外国人の間では、礼儀正しいステレオタイプな日本人を演じて。

でも猫や犬と一緒の時だけは「あるがままの自分自身」でいられるのかも(笑)。

いまではわたしは経験豊富な人生の名優です。

上記の漫画の知佳さんはこうして自分を切り替える。
演じないと、なりきらないと、社会人らしくできない彼女

教壇に立てば、駄洒落大好きな「ハムレット」のポローニアスのように、
パーティに行けば、愉快なフォルスタッフのように、
そして子供たちと一緒の時には、カリスマなヘンリー五世のように。

人と会う時、自分自身を切り替えて、舞台上の俳優のように生きてきました。

だから舞台裏にいるときには、一人になって充電する時間が絶対不可欠、ソーシャルバッテリーを満たさないと。

自分自身を理解すること。

誰にでも大事。

でも自分があまりに周りに人と違うということで苦しんでいる人には、発達凸凹じゃないかと思いやって接してあげれるといいとおもう。

優しくしてあげよう。親切を与えることから始めよう。

「情けは人の為ならず」ですよ。

というわけで、わたしが投稿で長文書いて饒舌なのは、きっと偏った個性を持っているから。どれだけ書いてても疲れないし楽しいし。

でも読んでくれる人のことを考えると、もっと短く簡潔にまとめる方がいいのだけどね。でもそれじゃあ自分には面白くない(笑)。

お金儲けの副業のための動画やブログを作るならば、顧客のニーズにあった内容の作品を制作するのだけど、自分のNoteはそうではないのです。

長年生きてきて、名優になれたので、生きやすくなりました。

いつか本当の演劇の舞台にも立ってみたい。そんな夢さえも持っています。でも今は人生の舞台の上で次の演じる役割を探しています。

人はみんな個性的。

Inclusion=違う人を受け入れること

受け入れてくれる人とそうでない人たちが世界にはたくさんいる。でも知識は、認識は、世界を変える。

違う人がいる。違う人を受け入れることのできる社会は自分にも生きやすい!

こう信じることで人生は全く別なものに見えてきますよ。

Diversity=多様性は21世紀のキーワードです!


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