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母と私をつなぐ花

ひとり暮らしを始めて、もう10年以上になる。大学入学を機に上京した後、全国転勤で日本各地を飛び回っている。

地元で暮らしていた母と、一番遠いときには直線距離で約500km離れていた。
直近では公共交通機関で1時間半ほどの距離に落ち着いている。月に一度は顔を見に行くようにしている中、お土産として持っていくようにしているのが「季節の花」だ。

数年前までは母に限らず、プレゼントで花をもらったりあげたりすることにあまり嬉しさを覚えなかった。花は「役に立たない」ような認識があったからだ。

それが、歓送迎会や、友人・恋人からのプレゼントで手にする機会が増えて以来、部屋に花を飾ることの尊さに気づき始めたのである。幼いころには感じられなかった「ゆたかさ」の象徴なのではないかと思うのだ。

いつから花を「無用」だと思い始めたのか。
両親が離婚して以来、あるいは、その前から生活は決して裕福ではなかった。小学校時代に流行ったブランド服はもちろん買ってもらえず、中学校の制服は近所の誰かのおさがり。高校時代は塾に通う余裕もなく、私立に行くなら浪人するように言われ、意地で東京の国立大学を受験した。

今思えば地元の大学を強制されなかっただけ有難い話かもしれない。初めて借りたアパートは、奨学金とほぼ同額の家賃5万円、1階、ユニットバス。テレビもベッドもない6畳の部屋で、勉強を頑張っていい会社に入りお金を稼いで、好きなように暮らしたいと思っていた。

もちろん、花を買う余裕なんてない。
家のリビングに花を飾るのが趣味だという友人のお母さんの話は、外国か、もはや異次元の世界に感じられた。我が家とは天と地の差じゃないか、と本気で思ったものだ。

そんな気持ちが根底にあったから、母の日や勤労感謝の日にも、花ではなく食べ物や便利グッズなど「使える」ものをあげるようにしていた。「無駄なものを買って、お金を無駄にして」と眉をひそめられるのが嫌だったのだ。

実際、旅行が好きになってからは母にもお土産を買うようにしていたのだが、いつか否定的なことを言われ私も頭に来てしまったのだ。母からすれば、これまでなけなしのお金で何とか育てた我が子が、貯金もせず遊び惚けているように見えるのは腹立たしいものだったのだろう。

しかしそんな私も徐々に昇給し、貯金を始め、母を扶養に入れて仕送りを増やしていくようになった。「部屋に花があるっていいな」と思い始めた頃、やはり母にも花をあげてみたい、喜んでもらいたいという思いが高まっていった。妹に相談してみたところ「大丈夫でしょ。喜ぶよ」と言ってくれたのに背中を押され、思いきって誕生日にミニブーケを渡してみた。

母は「わあ!こんなにきれいなお花、ありがとう!」と目いっぱいの笑顔で喜んでくれた。意外だった。無駄だとは言わないのだろうか。気になりながらも、誕生日や祝日の節目にはプレゼントと一緒にお花もあげるようになった。

母の日にはカーネーション。
いつか、花びらがレインボーに染まったものを見つけ、物珍しくきれいだったので選んでみた。自分用にも買っちゃったよ、というと「お揃いだね」と母は楽しそうに笑っていた。

母の誕生日は夏なので、ヒマワリをメインにしたミニブーケなんかを選んでみる。
時期的に「父の日」のシールが貼られていることもあるのだが「まあ女手一つで育ててくれた母は、父の役割も果たしてくれていたのだから良いだろう」とそのまま持っていき、その話をする。母は「あんたが一緒に妹を育ててくれたのよ」という。

勤労感謝の日にはコスモス。
母が仕事を辞めてからは「敬老の日」のほうにフォーカスして花を贈る。「もうおばあちゃんなんだね」と少し寂しそうにする母だが、妹は既婚でもまだ子供はなく、私なんて独身を謳歌している。

「孫の顔は見せられないから、花でも育ててよ」といっておく。「あんたがくれる花、もちがいいから長く楽しめるの」と母は言ってくれるのだが、私は同じ花を買ってもすぐしおれさせてしまう。子供を2人も育てると花を生かしておくのも上手いのだろうか。

クリスマスには赤いバラ。
緑の葉があいまって、いかにもクリスマスを想起させるのだ。これを携えクリスマスイブに母へ会いに行ったことがある。寂しい娘で申し訳なく思うところだが、張り切ってチキンを焼いてくれた母の顔を見ていたら、まあそんな年もあって良いかと思った。

最近になり、やっと母に打ち明けた。
「お花なんて、って言われると思いながら渡したんだよ」
母は笑いながらも少し申し訳なさそうに言った。「昔は余裕がなかったからね。生活するのに精いっぱいだった。今は姉妹2人とも大学を出て働いて、稼いだお金をお母さんのために使ってくれて。こんなきれいなお花までもらえて、本当に嬉しいんだよ。生きててよかったって思う」

昔から「花の名前をからきし覚えないね」と母を呆れさせていた私が、定期的に花をプレゼントしているなんて、小学生の頃の私が知ったらどう思うのだろう。近所の公園に咲いていたツバキをバラと間違えた、この私が!

今、私と同様に、母も1人で暮らしている。
月に一度は顔を出し、話をするようにしている。そんなときの手土産に母はいつも「もうヒマワリの季節なんだね」なんて喜んでくれる。

私自身、毎月のように花屋へ立ち寄ることで、多忙な日々に見落としがちな「季節」を感じている。どんな花にしようかと考えたり調べたりする時間は、母のために使う大切な時間だ。
あまり出歩けない母のため、会うたびに季節を感じてもらえるような花を渡したい。その花が飾られた部屋で、母の料理に舌鼓を打ち、話にも花を咲かせるのが、月に一度の幸福な時間なのである。


本記事は、キャリアスクール『SHElikes』Webライティングコース DAY4の課題「家族と贈り物にまつわるエッセイ」にあたり執筆しました(一部、現役ライターの添削による加筆修正を含む)。

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