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万葉を訪ねて ―万葉秀歌十選 <下> 古を懐かしむ歌2首―

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前項の最後の歌も半ばそうだったが、本項では古を懐かしむ歌2首を採り上げる。2首ともに近江大津宮の旧都跡を訪ねて感じた所を詠んだ歌である。

古代日本人にとって中大兄皇子が大化の改新を起こして蘇我氏が滅び、天智天皇となって現在の滋賀県大津市に遷都し崩御すると弟の大海人皇子と息子の大友皇子が対立して壬申の乱が起こり、大海人皇子が勝利して天武天皇となり都を飛鳥に戻すまでの一連の流れは、社会の大変革期として強く記憶されていた。

だから、近江国大津の荒れ果てた旧都跡は万葉歌人に様々な感情と想像力を喚起したに違いないのであるが、一般的に言っても廃墟は別様で有り得た世界への幻視を誘うものである。原爆ドームやパルテノン神殿、ポンペイ遺跡といった廃墟は私たちを不思議な感覚にさせる。それらは己の生活と無関係な生の営みの痕跡に過ぎないのに、なぜか無性に愛おしく哀しいのである。



⑨ 高市黒人、近江大津宮の旧都跡を見た悲しみを詠んだ歌(1ー32)

古 人尓和礼有哉
楽浪乃 故京乎
見者悲寸

いにしへの ひとにわれあれや
ささなみの ふるきみやこを
みればかなしき

古き代の人であったかな私は
近江の旧都跡を
見ていると悲しい



「ここを見て甚悲きは、我ここの古へ人にあればにやあらん、と先いひて立かへり、さはあらぬを、いかでかくまでは思ふらん、とみづからいぶかる也」(57頁)

真淵は万葉集大考の中で高市黒人を評して「厚らかにして面白し」(11頁)と言っている。

たしかに「ひとにわれあれや」の字余りのリズムは、この歌の最大の魅力であり、作者の厚ぼったい人柄すら朧気に感じさせる。歌われた内容は旧都跡を見た悲しみだがその言い方が面白い。

ここを見ていると悲しい気持ちになるのは私が古代人であるからかな?いやいや、違うでないか。それなのにどうしてこんなに悲しいのだろうか?黒人は己の感情の源泉が分からず不思議に思う。

まさに「総論の3」で述べた「意識の生成」としての秀歌である。急に囚われた強い悲しみを黒人は定義せずにそのまま歌っている。野暮なことを言えばその感情の源泉は「愛」なのだろう。

己と無関係な生への関心や共感の力があればこそ、ひとは廃墟に悲しみ古を懐かしむという、理屈では説明されない感情を抱くのである。



⑩ 柿本人麻呂、荒れ果てた近江の旧都跡を通った時に詠んだ長歌 (1ー29)

玉手次 畝火之山乃
橿原乃 日知之御世従
阿礼座師 神之御言(今本、盡。真淵改)
樛木乃 弥継嗣尓
天下 所知食来(今本、食之乎。一本採)
虚見 (今本、天尓満。一本採)
倭乎置(今本、倭乎置而。一本採)
青丹吉 平山越而(今本、乎超。一本採)
何方 御念食可
天離 夷者雖有
石走 淡海國乃
樂浪乃 大津宮尓
天下 所知食兼
天皇之 神之御言能
大宮者 此間等雖聞
大殿者 此間等雖云
霞立(今本、春草之。一本採)
春日香霧流(今本、茂生有。一本採)
夏草香(今本、霞立。一本採)
繁成奴留(今本、春日之霧流。一本採)
百礒城之 大宮處
見者左夫思母(今本、見者悲毛。一本採)

たまだすき うねびのやまの
かしはらの ひじりのみよゆ
あれましし かみのみことの
つがのきの いやつぎつぎに
あめのした しろしめしける
そらみつ やまとをおき
あをによし ならやまこえて     
いかさまに おもほしめせか
あまざかる ひなにはあれど
いはばしの あふみのくにの
ささなみの おほつのみやに
あめのした しろしめしけん
すめろきの かみのみことの
おほみやは ここときけども
おほとのは ここといへども
かすみたつ はるびかきれる   
なつくさか しげくなりぬる
ももしきの おほみやどころ
みればさぶしも            

美しい襷をかけたような畝傍山のある、橿原に宮を置いた神武天皇に始まり、この現世に生まれ来たる神の子たちが、栂の木のように次々に、天下を治めたのであったが、天に近い大和を捨て置いて、あをによし奈良山を越えて、一体どのような思し召しであったのか、天から遠ざかった田舎ではあるけれど、水のほとばしる近江の国の、ささなみの地の大津の宮で、天下をお治めになったという、天智天皇の、神の子の、大宮はここに在ったと聞くのだけれど、大殿はここに在ったと言うのだけれど、霞が立って春日の霧に覆われたからか?夏草が覆うまで繁っているからなのか?厳めしき宮殿が、幻視されて背筋が凍る心地がした。


※ 柿本人麻呂は、この長歌に続けて次に挙げる2首の「反歌」(長歌の内容を受けての短歌)を添えている。(国歌大観番号30および31)

楽浪の(枕詞)
志賀の辛崎(滋賀の辛崎は)
幸かれど(幸いにも昔のままに在るが)
大宮人の(天皇にお仕えした大宮人の)
舟待ちかねつ(船は待っても来ない)
楽浪の(枕詞)
志賀の大わだ(滋賀の大きな湾が)
淀むとも(たとえ淀もうとも)
昔の人に(昔の人々に)
またも逢はめやも(再び逢えはしない)



「世に名高き此宮どころは、まさにここぞと聞、ここぞといへども、更に春霞か立くもりて見せぬ、夏草か生しげりて隠せると疑ふ也、春霞と云て又夏草といふは、時違ひつと思ふ人有べけれど、こは此宮の見えぬを、いかなることぞと思ひまどひながら、をさなくいふなれば、時をも違へておもふこそ中々あはれなれ(中略)その宮殿の見えぬは、疑ひながら見るに、うら冷ましく物悲しき也、佐夫思(※ サブシの万葉仮名)は集中に、冷・不楽・不怜など書つ、然れば後世もの閑けき事にさびしと云は転じたる也、今本、見者悲毛と有もさる事なれど、猶一本による、何ぞなれば、此宮の無こと猶うたがひて長哥にはいひ、反哥にいたりて思ひしれる意をいへれば、ここは只佐夫しと有ぞよき、下の此人の哥にも此さまなるあり、巧みの類ひなきものなり」(55頁)


「その長歌、勢いは雲風に乗りて御空ゆく龍の如く、言は大海の原に八百潮の湧くが如し」(11頁)と評されるのも納得の、怒涛のように流れ来る言葉の魔術である。

これはもう「幻想文学」と言ってしまって構わないだろう。

神武天皇の日本建国から説き起こし、天智天皇の近江遷都に触れ、旧都跡を眺める己を語るに至る。人麻呂は何もない草原に立ち尽くしてしまう。ついこの間まで(真淵の推定では朱鳥2、3年に詠まれた歌なので15年前)都であったはずのこの場所に何も無いとは考えられない。

春の霞に紛れてしまったか、夏の草に覆い隠されてしまったと考えるほかはない。人麻呂は比喩で言うのではなく、本気でそう思っているのである。


真淵は言う、余りの驚きに分別もないままに幼く詠んだものであるから、春と夏で時が違っているのを読者は怪しむなかれ、その分別の無さが彼の驚きの率直さを示していて、かえってあわれなのである、と。


人麻呂は万葉歌の形式を完成した人だ、とはすでに述べたことだが具体的には説明していなかった。

まず人麻呂は数多くの「枕詞」を発明した

枕詞は集団の共感がなければ存在できるモノではない。そのことから、人麻呂が集団の無意識の最良の代弁者であったのは間違いなく、呪術者的な側面もあったと推測される。

第2の発明が「長歌」である。

長歌自体は人麻呂以前から有ったが、人麻呂によって形式を完成した。始めに長歌では事柄を叙事的に歌い、反歌として長歌の内容をより抒情的に歌った短歌を挙げてこれをセットとする。

この形式を発明した意味は、真淵の言葉を借りる方がよい。いわく、今本におけるこの歌の末尾は「見れば悲しも」となっているが、私は一本の「見ればさぶしも」を採る。なぜかと言えば、この歌は近江大津宮が見当たらぬことを尚も疑う心を長歌には詠んでおいて、反歌に至ってようやく宮はもう無いことを思い知ったという心を詠んだものであるから、ここではただ「さぶし」即ち、ゾッとしたとだけを表現しておく方が、歌の効果として優れているからだ、と。

つまり、長歌では「未定形の感情」をそのままに詠み、反歌ではそれが「哀しみ」という形を成してゆくさまを詠むことで、「意識の生成するありさま」を効果的に表現することが出来る。

人麻呂がこの形式を発明した目的は其処に在ると言うのである。

なるほど、真淵が人麻呂の歌を「巧みの類なきもの」だと言いたくもなるのも尤もだ。この完璧であり狡猾でもあるような形式に乗せて「幼い」心を歌い上げる人麻呂は一体何者か?結局、超人的な詩人が古代日本に居た、という事実以外に確かなことは言えない。

また、人麻呂の長歌・反歌を熟読玩味することで、「長歌・反歌形式」の効果と発明の意図を発見し、人麻呂という大歌人の表現力の秘密に肉迫してゆく真淵の姿にも、私は驚嘆の念を禁じ得ないのである。



さて、これで「万葉秀歌十選」という少々大げさな題の試みを終わりにしようと思う。万葉歌は、現実を引き受ける覚悟を促す歌、己自身で知らなかった感受性に驚く歌、別様で有り得た世界への憧憬の念を表現する歌、まことに多種多様である。

それらに共通しているのは、万葉歌人たちにとって歌うことは、自己を知り、世界を把握し、他者を愛す道であったことだ、とは既に述べた。


この全3回はその具体的な姿を垣間見る試みだったわけだが、果たして成果はどうだっただろうか?甚だ覚束なく思う。私は書きながらふと、太宰治を評した三島由紀夫の言葉を思い出していた。

「私は太宰を近代日本文学史上の最高の才能だと認めています。ではなんでお前は太宰が嫌いかと言われれば、太宰は創作によって己を滅ぼしたからです。読者を駄目にしても良いんですよ。小説は栄養剤ではないんですからね。しかし作者は創作によって救われなくちゃならない」

万葉歌人たちが創作によって救われていたことは、彼らの歌の姿から信じることができるし、それだけはこの文章で伝えることが出来たと思いたい。

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