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生きる意味を求めるのは今の生き方が好きじゃないからだった

なんのために生きてるんだろうか。午前3時、雨音が響く部屋の中でふと思った。

いつものように布団に入って、少し熱を持った足を外気に晒しても眠れない日だった。明日は大学だというのに珍しくお酒を飲み、時間が進むのとは裏腹に眠気は引いていくような感覚を覚えた。こういう時は決まって余計なことを考えてしまう。案の定今回も例外ではなくて、沢山の思考が私の中を走りすぎていくうちに冒頭の疑問がふと浮かんでしまった。

今後会社に入り、決まった時間に起きて決まった時間に出社し、決まった時間に眠る。40年して退職して、余生を過ごす。決まったこと。ルーティン。死ぬまでその繰り返し。…あれ、虚しい。とてつもなく虚しい。なんで生きているんだ?私何のために生きているんだ?

それは禁断の疑問とでもいうのだろうか。考えだしたら止まらなくて、足のつかない底なし沼に沈んでいくようで、結局その日は一睡もできず朝を迎えた。


自分の生きる意味について疑問を持ったことはこれが初めてではない。アルバイトに溺れていた大学3年生の時、実家から抜け出して下宿で一息ついていた時、慌ただしい生活の中でタスクをこなしていた時、まるで夕立みたいに虚しさが心を侵食してくる感覚があった。その時どうしてたかは覚えてないけれど、いつも深く考えないまま過ぎ去るのを待っていた気がする。

今回いつものように流せなかったのは、この疑問を何度も持つ自分に気付いてしまったからだ。常にこの虚しさが心に住み着いて離れない。ここで引っ掛かりを流してしまうことはできても、また今後も同じように悩むのだろう。それならどっこい、本腰を入れて考えてみようじゃないか。

生きている意味が分からない。なんならこのまま死んでも、生に対する情熱や未練、執着さえ生まれないだろうという状態。

夏の終わりに木に張り付いているセミの抜け殻のように、身体が魂の入れ物でしかない感覚に陥る。何がどうなっているか説明は出来ないけれど、とにかく今自分は危険な状態にある。それだけはぼんやりと認識することができた。

とりあえずgoogleで「何のために生きているか分からない」と検索してみる。0.1秒くらいで1億以上の答えが引っ掛かったため片っ端から確認してみることにした。Yahoo知恵袋、教えてgoo!、10分ぐらいネットの海を泳いでいると、生きる意味は3つに細分化されることが分かった。

①生きたくても生きられない人がいるのにその考えは贅沢

②そんなこと考えるなんて暇

③生きるのに意味なんてないから好きに生きろ

なんだかな。分かり切っていたことだけど、正直どれも私の心に突き刺さらなかった。生きたくても理論っていうのはそもそもそういう人でもない貴方が何故代弁して説教してるのですか?と思うし、貴方がマウントを取るためにその人の立場を借りないでくださいよと感じる。まあ普通なら③が正当な答えなんだろうけど、それでもしっくりこない。

そりゃあ生きることに意味はないんだろうけど、それも分かってるけど、じゃあそうなんですか好きに生きますねとはならない。意味がないから好きに生きろ。分かるけどなんか違う。なんか的外れ。そういうことじゃない。というか実際私は生きる意味について答えを求めている訳じゃなさそうだ。

ではそもそも生きる意味について何故疑問を持ったのだろうか?

例えば友達と遊んでいる時、旅行に行っている時、研究に没頭している時、私は生きる意味について考えたことはなかった。自分の生死について意識もしていなかったし、その場に集中していた。虚しさは常に私を追いかけているけれど、それとを意識しない瞬間なんか思い起こすだけいっぱいある。

じゃあ時折ご褒美のように訪れる余暇で必ず生きる意味について考えているか?と聞かれるとそうではない。逆にタスクに追われている瞬間、ふと気を抜くと生きていることが無意味に思えることもある。

そこまで考えて、義務や他人に振り回されている時に生きる意味を考えたくなることにようやく気付いた。

人生の先が見えてしまったとき、タスクに追われて疲れきっているとき、味気ないことを繰り返しているとき。忙しい時も余裕がある時もあるけれど、共通しているのは自分を殺して何かに従っているということである。限りある生を自分に使えず他人のために消化する瞬間は味気なくて虚しい。

「生きる意味なんかないのだからそんなこと考えるなんて暇な証拠」という言葉に踊らされてタスクや学業で時間を満たしたこともあった。でもやはりどこか虚しかったのは、心の底からの「やりたい」ではなく義務やそうすることが正しいという思い込みからなんとなく選択したことだったからだと思う。

昔から努力しないやつは悪だと、仕事で頑張らないやつは下に見られるのだという価値観を植え付けられてきた。今もTwitterやnoteなどで勉強し続けない人に対する煽りや電車に揺られるサラリーマンを見下す発言は割りと簡単に見つけることができる。なにもしてない奴はぼーっとしてるつまらない奴だと言われているし、明日死んでもいいように全力で生きる生き方は称賛されている。

私は他人に影響をされやすいので、ついつい頑張ってしまう。勉強も好きではないし、努力も嫌いだけれどそうしなければ見下されてしまう気がしてる。その恐怖で自分を動かしてしまう節がある。

本当はキャパ以上に頑張りたくなんかなくて、家に帰ってからはゆっくりぼーっとしたくて、常に成長や優秀であることを求められるのはすごく苦しい。頑張りすぎて何度も心を壊した経験があるからこそ、頑張り続けることは私の生き方に合ってない。でもそれを無視してこのまま社会に出たらきっと自分を犠牲にして頑張るだろうし、他人のために時間を使い続けるだろう。それが今回生の疑問を持つことになったきっかけだった。

でも本当に頑張らないことは悪なのだろうか。定時で帰りたいというのは軟弱な考えなのだろうか。他人のために時間を使いたくないというのは冷たい考えなのだろうか。みんなみんなが成長に意欲的で常に勉強をしていなければダメなのだろうか。分からないけれどその世界は辛い。そうでなければ生きていることが許されていないような気持ちになる。

生きる意味を考えたくなるのは、本心と今の生き方に齟齬があるから。つまりは生き方を変える必要がありますよ、というサインなのだと思う。生きていることに意味がないのはずっと知っているからそんなもの待たなくても生きていけるのに、それでも意味を見出だしたくなるのはその時の生き方をどうにかして肯定しようとしているだけだよ。無理をしてそれを続ける必要はない。

私は頑張ることよりも自分の生き方を好きでありたい。頑張っている自分は嫌いではないけれど、そうすることで自分を嫌いになったり生き方に疑問を持つくらいなら頑張らない方がいい。頑張りたいやつが頑張ればいいのだし、成長したいやつが成長するために努力すればいい。その人にとって良い価値観が私にとって良い価値観ではないし、他人がどう生きているかについて言及する権利はどこにもないはずだ。他人の生き方にいちいち文句を付けたいのはそうすることが正しいという価値観の押し付けだ。あなたが脅迫的に出した毎日努力して生きろというメッセージで私は死んでしまう。自分の評価を他人に委ねると息がしにくくなってしまうだろう。

私が考えなければいけないのは他人の無責任なメッセージにどうやって乗っかるかや、何で生きているかを周囲に証明する方法じゃない。どうしたら私は生きやすくて自分らしくいられるのか、どんな時間を過ごしたいのか、そんな自らを解放させるような問いかけなんじゃないのか。

生きる意味を考えることはもう辞める。その代わり自分の好きを探すことにする。どうせ意識しなくたって私は仕事を頑張ってしまう。ぎりぎまで自然と努力してる。知らないうちに大きく成長する。一方で楽しさや好きのアンテナは意図的に探し続けないとすぐに日常に埋もれてしまう。きっと頑張らないことを選択しないと常に自分を脅迫的に縛って他人軸で生きてしまう。それは望んだ生き方ではないので、私は今後もう少し自分の時間を優先することにする。優秀さも功績も金もあの世へは持っていけないのだから、そんなもののために自分を壊す生き方は辞めるよ。

毎日くたくたになるまで全力で努力することが本当に充実に繋がるとはもう思わない。明日死ぬかもと思って全力で努力する?いいや、そんなこと思わないよ。死ぬ気で努力すると病んじゃうから、明日も明後日も10年後も生きていけるように自分のペースで生きるよ。

人生は瞬発力ではなくマラソンだからスピードをチューニングして走っていこうと思う。このレースにランキングはないから、歩いたり時々ご当地グルメを食べたりしてもう少し自分の求める生き方を追求していこう。うむ、そうしよう。


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