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愛は誰のために呟く

愛情を表現する言葉を言い渋る人間を、私はあまり信用していない。その一方で、相手が拒んでいるのに愛を呟く人間に対しては「気持ち悪いな」と思っている。

互いに思いが通じ合うのは奇跡みたいなものだ。
だから「好き」や「愛している」を伝え合う関係はとても美しいと思う。
伝えられる相手がいて、それを言える精神状態にあって、伝えられる関係があって、返してくれる言葉がある。

私の親は愛していると言いながら虐待をしてくるような人だったためか、一時期愛の言葉が怖いと感じることもあった。いびつで、真綿の糸で首を絞められているような不快感が身体を這いずり回るようで、その言葉を口にするのが苦しかった。

しかし夫と付き合い始めてからその感覚は徐々に消失していくようになった。夫は私に何も強制しない。なにかで私を縛ろうとする素振りを一度たりとも見せたことがない。常に私は自由だった。
だから近づくのも怖くなかった。手を伸ばし、身体を引き寄せ、その広い胸に収まる。安心感と共に愛の言葉を伝えられるこの日常は、私にとって何事にも代えがたい大切な時間となった。

そんなある日、夫が身体の不調を訴えることになる。
心臓の音と不快感が拭えず、怖いのだと言う。
1週間ほど様子を見ていたけれど、徐々に口数が減り、それでも仕事を休めない、といった脅迫的な言動が目立つようになった。

胸がひゅっとするような恐怖心が私の中にじわじわ沸き上がる。
この人はいま壊れかけている最中なのだ、と頭の中のアラートが鳴った。

そこからの私の行動はもう早かった。職業訓練校から帰宅してすぐに夫を引きずるようにして病院に連れていった。心臓の異常はなにもなかったけれど、恐らくメンタルを病みかけている可能性もあったので、その場でクリニックの予約をさせた。そして帰ってきたら有無を言わさず寝室に夫を押し込んだ。

寝息を立てて寝入ったしまった夫を確認しつつ、溜まっていた家事に取り掛かる。最近学校に通いだしてから、昼間は家をあけることが多かった。
だから知らなかった。夫が朝昼と栄養のあるご飯を食べていなかったことを。ごみ箱に捨てられたコンビニパンとコーヒーの亡骸が精神状態を物語っている気がした。

食べるの、めんどくさいもんな。
自分で料理するのって後片付けとかだるいもんな。
昼休みの一時間だけで栄養のあるもの食うなんて、あらかじめ用意されたご飯を温めるくらいしかできないもんな。

最近資格試験もあって、疲れていたのは分かっていた。
分かっていたけれど、私が想像していた以上の弱り方を目の当たりにして血の気が引いていくような感覚を覚えた。

とはいえ私がダメージを受けている場合ではない。
幸いにも、今私は躁にも鬱にも振っていない。動ける。
まずは夫に栄養のあるものを食べさせなければ。

買い物をして、消化に良いうどんに野菜をどっさりいれたご飯を作って、皿洗いをした。3日前に使った食器が残っていることに気づき、水の冷たさが脳を侵食してくるような恐ろしさが全身を巡った。
綺麗好きの夫がここまで食器を溜めていたことはあっただろうか。
いやそもそも私が気づけなかったのは何故だろうか。
夫は知らず知らずのうちに疲れを溜めていたのに。

どうして人は明日もこの日常が続いていくと錯覚するのだろうか。
人の日常は脆い。明日溶けて消えてしまってもおかしくはない氷の上に成立している。隣にいる人が明日も生きているという保証はどこにもないのに、人間はいつも見ていた「当たり前」が崩れ去ってから日常の尊さに気づく愚かな生き物だ。

夫の規則的な呼吸を確認していたら、セットしていた洗濯機が終了のアラームを鳴らして私を呼んだ。そっと部屋を出て、洗濯物を取りに行く。

もし、夫が明日冷たくなっていたら。大好きな大きい手が私にのせられることなくこと切れていたら。そしたらどうなってしまうのだろうか。
折角手に入れた素晴らしい日常だ。私は日常の脆さを、人の時間のどうしようもなさを十分に理解したうえで毎日愛してきた。明日会えなくなっても後悔の無いように接してきた、はず。

それでも死が互いを別つことになれば、私は冷静でいられるのだろうか。
後悔がないとはっきり言えるのだろうか。

ふわふわと現実味のない恐ろしい空想に気を取られながら、ああこれまで私はこんなに恐ろしい感情を相手に持たせていたのか、と黒い感情が湧き上がってくるのを止められなかった。

ちょうど半年前、私は仕事を辞めて床に臥せっていた。
なにかにつけて死に向かいそうになる私を察してか、夫は出社せず大方の時間を私と過ごしていた。呼吸を確認されていることも、仕事が始まる前に頭を撫でられていたこともわかっていたけれど、夫もきっと私が死ぬことが怖かったのかもしれない。

寝たきりの私を見つめながら不安に過ごした夜は、一体何度あったのか。きっと数えきれないくらいだろうし、躁鬱病の私と生きていく以上、これからもその回数は更新されていってしまうのは否めない。

結局夫は次の日も安静にして、大方回復した。
そして今日、とある国家資格の受験のために数時間前に家を出た。
きっと疲れて帰ってくるだろうから、冷蔵庫の食材をぱんぱんにして、栄養のあるご飯を作って待って居よう。

人間は死に向かって生きていく。
こうしている間にも、私は死に向かって生の時間を謳歌している。
人間は生きられてもせいぜい100年程度だけど、早々に死ぬ人だっている。もし私の選んだ相手が後者であったとしても、その時間を無理やり引き延ばそうだなんて大それたこと、私が神にでもならない限りできないだろう。

それでも私は失う怖さを凌駕して相手を求めた。いつか失うと最初から分かっていて、その上で私から夫に近づいた。なら私はその人の最後から目を背けることはしない。

美しい平凡な時間も、触れられた手のぬくもりも、何れ消えれしまうのだろう。でもまだなにも終わっていない。失ってもいない。

愛の言葉は互いを繋ぎとめるおまじないだけではない。
何れ消えてしまうこの時間を覚えておくため、失ってしまったときの後悔をできるだけ減らすために、私自身のために紡がれる言葉だ。

私は明日も明後日もその後も、何十年でも生きていくつもりだ。
でも夫は明日死ぬかもしれない。

だから夫の広い胸を抱きしめて今日も言う。
「愛しているよ」と。




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