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植物と虫と鳥と


<植物と虫と鳥と>

朝、小鳥のさえずりで目を覚ますのは木々に囲まれた田舎暮らしならではで、都会からやってきた友人たちは夜の静けさの次に、その美しいメロディーに魅了される。彼らは春には花の蜜や花粉を食べ、秋冬には果実を食べるが、夏の間はもっぱら虫を食べる。

そのヒトにとっては可愛らしく、可憐な小鳥たちは虫にとっては恐ろしい猛獣だ。巨大で、大食いで、選り好みも情もなく食べていく様子は恐怖でしかない。1日に数百匹も食べるし、子育て期間になれば数千匹もくだらない。小鳥の行動力はヒトから見ても素早く小刻みで、視覚は鋭く、形も色もよく見えている。動くものには敏感だし、記憶能力も高い。

虫たちは短い期間でネズミよりも多く生まれるが、やたらめったらに死ぬ。恋愛と産卵を終えればほぼ間違いなく成虫は死ぬが、それよりも圧倒的に天敵によって捕食されて死ぬほうが多い。生物多様性の世界では多くの子孫を残すということは逆に多くの天敵によって捕食されることを意味するのだ。だからこそ、虫にたちにとって恋愛は奇跡である。

1億数千年前に被子植物が誕生し、地球の草原と森林が一気に被子植物が優位になるとそれに応答するかのように昆虫たちは多様性を極めて、同じように地球上のあらゆるところに広がった。これはもちろん被子植物の多くが昆虫の力を利用した(利用された)からである。

虫にとって、陸上に適応したはじめのうちは(といってもヒトからすれば長時間だが)楽園そのものだっただろう。食べ物に溢れるその正解に天敵はいなかったのだから。その後、肉食昆虫や両生類が陸上に適応すると彼らは食べる側から食べられる側へとなってしまった。

虫たちは外側ばかりか、内側からも捕食される。つまり寄生虫であるが、ヒトのように動物は違う種の生物つまり寄生虫によって病気になることはあるが、虫たちにとっての寄生虫は同じ虫である。しかも、内側からどんどん食べられていく。むしろ、内側から食べる捕食者だ。

どんな虫にも外側からの天敵同様、内側からの天敵が存在している。しかも、彼らはすぐに殺さない。ます宿主の血液を吸い、重要器官である腸や神経は最後に食べる。その間、宿主はせっせと食べて生きている。それは寄生虫のためでもある。そして、十分に寄生虫が成長すると最後に食べれる限りを食べて、成虫へと変態する。するとアリの蛹からハチが生まれるという知らない人からしたら摩訶不思議な現象が起きる。寄生バエの場合はまず体内から脳へと進んで、その宿主自体を操りさえもするという。

寄生虫の代表的な虫は寄生蜂である。数ミリメートルから数センチにも満たないハチたちだ。彼らは芋虫を見つけると体内に管を送り込んで、自身の卵を産み付けてしまうのだ。その寄生蜂を呼び寄せるのは植物たちである。植物は芋虫たちに食べられている間に特別な化学物質を芋虫に送り込む。するとその化学物質は芋虫の体内で化学反応を起こし、得意な香りを体外に放出する。それを頼りに寄生蜂はやってくる。また厄介な害虫と言われる夜行性のヨトウムシはトウモロコシやワタの葉を食べると自身の唾液と植物の葉に含まれる化学物質が搬送して、寄生蜂を誘引する化学物質が作られる。

ある研究ではモンシロチョウの青虫のうち、なんと99.9%ほどから寄生蜂の幼虫が発見されたいう結果がある。外側からの天敵から身を守るために、わざわざ固い樹木の中に産卵するカミキリムシも内側からの天敵には敵わない。その細い隙間を通すことができる長くて特殊な産卵管を持った寄生蜂がいるのだ。それが明らかになる前まで、カミキリムシには神通力があると信じられていた。

カギバラバチはややこしい方法で寄生する。まずは植物の葉の上に非常に多くの小さな卵を産み付ける。するとその卵を葉と一緒にイモムシが食べる。無事に飲み込まれた卵はイモムシの体内で孵化する。しかし、イモムシの体内では大きくなれない。そのイモムシをスズメバチが捕まえて、肉団子にして巣に持ち帰って幼虫に与える。こうして運よくスズメバチの幼虫の体内に侵入することができたカギバラバチの幼虫だけがスズメバチの体内を食べ、食い破り、さらに外から食べ尽くして大人になる。まるで宝くじのように確率が低いためか、カギバラバチの仲間は個体数が圧倒的に少ない珍種ばかりである。

内側からの天敵である寄生虫が最強かと言えばそうではない。そこにさらに寄生する二次寄生虫、三次寄生虫も発見されているし、鳥からしたら寄生していようがいまいが同じ餌である。また寄生蜂同士の縄張り争いも激しい。

虫たちは人間と同じように大流行すると、彼らだけの流行病が発生する。それは細菌やカビ、ウィルスなど。もちろんこれに対抗するためのんげんで言うところの免疫力や治癒力も備わっているが、大流行すれば食べる食料が減るし、天敵からの攻撃も多くて、弱りやすいから病気も大流行してしまうのだ。

虫たちにとって生きること自体が奇跡である。死こそ当たり前で日常で常識である。だからこそ、進化による多様性がもっとも発展しているのかもしれない。そして、我々大きな生物の発展も促されているのだろう。

チョウたちは積極的に鳥を騙そうとする。アゲハチョウなどは後ろの翅の端には尾状突起と呼ばれる装飾品がある。そのためアゲハチョウの英語名はスワローテールつまり「ツバメの尾のチョウ」である。アゲハチョウの標本を見ると後ろの羽の後方に大きな丸い模様がある。この模様と尾が目と触角に見えるのだ。つまり、鳥は蝶にとって前と後ろを、後ろと前と勘違いしてしまう。鳥たちはチョウが一方向つまり前に動いて逃げることを知っている。だからそれを考慮して襲う。しかし、模様を勘違いしていればチョウはひらりと攻撃をかわし逃げ切ることに成功するのだ。

平安時代には忌み嫌われていたアゲハチョウは、その後台頭してきた平氏によって文様として採用された。平氏たちがその特性を知っていたのかどうかは分からないが、源氏の総攻撃をひらりとかわして全国の山奥に落ち延びたという伝説が残っているのは面白い。

この逃げ切る戦略は海の中の魚たちにはごくごく普通に採用されている。尾の付け根に目のような模様を持つ小さい魚がたくさんいる。魚もまた一方方向にしか動けないからだろうか。

テントウムシの仲間が目立つ色彩を持っているのは毒を持っていることをアピールするためだという。虫の最大の天敵である鳥たちは赤色がよく見える。そして鳥は記憶力が高い。だから、毒があることを身を以て知ればそのあと同じ色彩を持つ虫を食べなくなると言うわけだ。間違えられて食べられた個体は生き残れないが、種は生き残れるのである。
昆虫たちは残念ながら赤色が見えない。つまり恋愛には使えない。しかし、生き残ることこそ彼らの最大の使命でもある。

そして、それに便乗して擬態した虫がテントウムシダマシである。彼らに毒はない。しかし似ているおかげで捕食される機会が減っているのだ。それもまた生き残るためである。ただ少しだけ模様がぼやけていて、カッコ悪く見えてもそれは彼らにとって無関係である。だって、彼らにも見えないのだから。

テントウムシの仲間はもともとカイガラムシを食べていたものが、アブラムシを食べるテントウムシ、菌を食べるテントウムシ、草を食べるテントウムシにそれぞれ進化したと考えられている。現代人なら草食系で平和な菜食主義者と呼ばれるのに、人間と同じ食べ物を競うとなると害虫扱いされるのはなんと不憫なことだろうか。

ハチといえば、黄色と黒の縞々模様である。これは工事現場などにも採用されている色合いで、私たちにとって警告色と言われている。ハチは天敵に襲われた時のために針を持っている。しかし、あくまでも緊急事態のときのためだ。できるだけ使いたくない。前述したように鳥たちには記憶能力がある。一度痛い目に合えば似ている生物に近づくことも避ける。つまり、多くのハチがあの色合いを採用しているのは相互擬態による節約とも言える。この場合の擬態をつまり毒を持っている生物同士が擬態し合うことをミュラー型擬態という。

そこからさらに擬態したのがアブたちだ。アブたちはヒトやウシやウマなどの血を吸う種もいるが、多くは花の蜜を吸っている種だ。だから彼らにとって怖いのは鳥たちだから、アブたちはハチの威を借りることにしたのだろう。

チョウの仲間であるスズメガやスカシバなども翅を透明にしてまでハチの威を借りている。彼らには毒針どころか噛み付くための牙もない弱い生き物である。しかしハチの威は効果抜群なのだろう。無事に現代まで生き残っている。また固い殻で身を守る甲虫類の仲間にもそういった種がいる。こういう本来無害な生物が有毒生物を真似ることをベイツ型擬態という。

現在、虫たちにとっての最大の天敵は農家と虫嫌いの現代人である。彼らは虫とあれば見境なく躊躇なく殺す。しかも食べるわけでもも卵を産み付けるわけでもない。虫たちにとって、その対抗策は思いつきもしないだろう。綺麗で可愛くなるかかっこ良くなれば一部の虫好きによって生かされるが、そうでないヒトには関係ない。不害害虫という名の見た目と気分だけで駆除されるのだから。虫からすれば、虫を辞める以外に方法はない。

農薬の危険性に気づいたヒトも虫のことを考えたわけではなく、小鳥のさえずりが聴こえなくなったからだった。小鳥のさえずりが聞こえない沈黙の春が問題であって、虫の命が失われることではなかった。小鳥が虫を必要としなくなったら、虫の存在価値も失われるのだろうか?虫が陸上に進化してからずっと団粒構造の土を作り続けてきたのにも関わらず、カマキリやてんとう虫などの愛される虫から小鳥まで生物多様性を育んできたのにも関わらず、だ。


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