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弱さと諦めと幸せと

全て人間は個人としては本質的に弱い。弱いのだけれども、その弱さを徹底的に見つめて認められた人は、幸せを生きられる。そう思っている。今日は弱さを認めることについて書いてみたい。

弱さを認められないと何が問題なのだろうか。

※この記事は勢いで書いたのでいろいろ論理ぶっ飛んでるのをご了承ください。

きっかけ

最近、とある後輩から人生相談をされる機会があった。私のnoteの愛読者でもある彼女は、自分の目標を持って、それに向かってさまざまなプロジェクトに積極的に参加する、尊敬すべき人だ。

私はその行動力を素直にすごいなと感じていた。ただ、話を聞いてみると、そんな生き方に苦しくなる時もあるようだ。

実はそんな人、他にも多いかもしれない。

向上心について

彼女には向上心がある。少なくとも僕には強い向上心があるように見える。向上心から行動が生まれ、成果を上げていると思う。

でも外形的に成果を上げていても、それと本人の内面の安寧はまた別の問題だ。彼女は幸せに生きたいと言う。そして、私は、内面の安寧と幸せとはイコールではないが、幸せには内面の安寧が必須だと思っている。

だから、内面の安寧を生み出すにはどうしたら良いのかと考えていた。ポイントは自分の弱さを認めることにあるだろう。多分その先にしか希望はないのだ。

向上心というのは実は諸刃の剣だ。向上心があって行動すれば、その分今まで見えなかった世界が見えてくる。自分の経験値が上昇し、能力が身に付いてくる。自分が何を大切にしたいかすら見えてくるかもしれない。

一方で、往々にして陥りがちな落とし穴もある。頑張っていない自分、できない自分は、許せない、認められない。そういう感覚だ。向上心の根元にはこうした心理がある場合がある。これを持ち続ける限り、いくらその人が向上し、成功しても真の心の安寧は得られない。常に心が地獄にあるように苦しさを感じ続ける、そのように思うのだ。

ありのままの自分を認めること

よく、「ありのままの自分を認めよう」と言われる。軽く言える言葉だが、案外出来ていない人が多い。もしかしたら、現代人にとって「ありのままの自分を認める」ことは、かなり高難度のタスクなのかもしれない。「ありのままの自分を認める」ことは自分の良いところと同時に弱さもみとめなければならないから。

言ってしまえば、ありのままの自分なんてかなりちっぽけな存在だ。誰しも子供の頃は自分中心の「世界」を生きている、成長に伴って、いろいろな人といろいろな経験をする中で、少しずつ自分という生き物のかたちを確認していく。その中で、自分は多数の人間の一人にすぎないと理解していく。

自己をうまく形成できた人の場合、そこではある種の諦めが発生する。自分が弱いことに向き合わざるを得なくなるから。自分は全能の存在ではない。自分が何かをしたいと思ったとして、それが必ずできるとは限らない。もちろん、何かを諦める事ができれば、トレードオフで何かを実現できるかもしれない。でも全ては無理だ。選択と集中がなければ、何事も叶わない。それに自然に気づけることが理想だ。

ありのままの自分なんてそんなものだ。どんなに偉そうに見える人だって、結構しょぼいものだ。例えば生理的な話で言えば、お腹が空いたら機嫌が悪くなるし、ずっと起きていたら眠くなる。また社会的に言えば、大手の社長といえど、働く社員、またさまざまな社会の構成員が担っている有形無形の役割、それらなしには全く生きてゆく事ができない。それくらい弱いのだ。

そういうものなのだ、人間ひとりというのは。

歪んだ現状の最適化は地獄

以上のことは、頭では理解可能だと思う。ある程度客観的に自分を見れる程度に成熟すれば、自ずから明らかな結論だ。ただ、自分のことになると、意外と諦めがついていない人が多い。

個々の理由は様々だろうが、育ってきた環境に起因するという可能性が高いように感じている。そのような環境は多様性が低く、(多くの場合親によって)ある程度単一的な価値観で評価される環境だ。

評価というのは、アウトプットに対してつくものだ。例えばテストで良い点を取ったら褒められる。勉強を頑張っていたら褒められる。こういったものが評価だ。それが単一的な価値観に基づく場合(この場合なら「子供は勉強ができる方が良い」という価値観だ)、その人の主観的な「世界」の全体性は現実世界と大きく乖離する。これは、脳の性質上、その歪んだ全体性の中で現状最適化を行うからだ。

脳は現状を最適化するのが得意だ。それがどんなに歪んだ現状でも、脳が認識した世界以外、その人の中には世界はない。もし、現状の最適化が親のご機嫌を取るためであれば(これは「子供は勉強ができる方が良い」という単一的な価値観とセットになる場合が多い事例だ)、親に評価されようとする行動が選択されるのだ。これがますます「世界」の乖離を生む。

問題は、単に「世界」が現実世界と乖離していくという事にとどまらない。評価というのが外形的な行為に対してなされる以上、それは必然的に、ある傾向に沿った行為を行わないと評価されないということになる。そして、そのことは正常な自尊心の育成を著しく阻害しうるのだ。

なぜなら、ほとんどの場合、子供に見えているのは親だけであり、親に愛されたいという根源的な欲求はほぼすべての人が持っている。親がよい評価を与えたときしか、褒められないとすれば、愛への渇望が生まれる。本来、親から子への愛は、「無償の愛」である。その無償性を無意識的にでも子供が受け取り続けることが正常な自尊心育成の基本だ。ところが、そうでなく、評価軸を意識し、「そうでないと愛されない」と深く刷り込んでしまうと、なかなか抜け出せなくなる。本来、愛でないものを愛だと思い、愛を求めて現状最適化をし続けるのだ。

そして、その最適化が頑張ればできてしまうことの場合、それはますます危険になる。それをやめられなくなるから、たとえ辛くても。。。それが向上心を持って地獄を生きるということだ。

「ありのままの自分」では愛されないという思い込みをもち、自分のことを悪い意味で諦められない。もっと自分にはできるはず、やらないのは甘え、そうでない自分に愛される資格はない。。。 

つまり、愛されたいから、自分の欠乏を埋めたいから、自分の弱さを認められないということ。認めてしまったら、あまりにもみじめでしょう?

これは意識的にそう思っているとは限らない。むしろ無意識的に思っている=内面化していることがほとんどだ。だからこそタチが悪い。

意識化できたらそれはかなり大きな一歩だ。

諦めという解決策しかない

ここまで、人間は弱いこと、でも自分についてはそれを認められない場合があることについて考えてきた。

結局、弱い自分は愛されない、愛されるためになんでもできる私でありたい。こういう動機で、物事と向き合うことになると、向上心が地獄を生み続けるということだ。

解決策は、諦めることだろう。そして、諦めたことにより得られるものを深く見つめることだろう。

諦めるというのは、辛いと感じることはやらないこと、辛いと思う心を、本当はやりたいことだからと無理にオーバーライドして書き換えて自己洗脳するのはドーピングだ。

ドーピングは身体も精神も病ませる。

やりたいことと才能があることの妥協点をしっかりと見つめてみる。それが正しい諦めの手法だ。

才能があることというのは、自分がコストをかけなくても、相対的に優れたアウトプットを出せる物事だ。

コストというのは精神的なものも含まれる。例えば人と会うのは辛いけど、PCに1日向き合ってデータ分析しても苦にならない人がいるかもしれない。一方で、それは物凄く苦しいけど、誰かの悩み相談にずっと乗ってあげていても疲れない人がいるかもしれない。

重要なのは自分がその行為をとてもとてもしたいかどうかとは別だ、ということ。自分の精神的なものも含めたコストが低く、他の人よりよいアウトプットが出せる作業をやるのが良いのだ。

何かを実現したいと思うことは大事だ。それに向かって自分を高めていくことも。ただ、そのための手法はいろいろあるし、最終的にみんなの力でその理想が実現すれば良いのだ。「私がやらなくちゃ」という属人的で個人的な自負心は、最終的なゴール実現にむしろ背くということだ。仮にそんな状況で自分が病んだら、絶対に自分の望むゴールはやってこない。

人類の力が最大効率化するのは、各個人がその人の才能にあったことをすることだ。これは忘れてはならない。同じゴールでも手法は一つでない。己の弱さは才能の裏返しであり、一人一人はしょぼい面があっても、コレクティブには大きなパワーが生まれるだろう。

また、そもそもゴール自体も変わっても良い。真に諦めて自分を認められた時には、今まで思っていたのと違うところにもっと達成したいことが見えてくる可能性すらあるのだから。

幸せへの道筋は贈与

愛されたくて、諦められないことを考えてきたが、実は諦めると愛される。諦めることは弱さを認めていることだから。そしてその分、みんなの幸福に貢献できるから。もちろん自分の内面の安定も手に入れながら。

弱さを認めること≠弱いこと だ。

弱さを認めると、強くなれる。なぜなら、才能を活かせるから、自分の活かし方がわかるから。「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」とはよく言ったものだ。恐れるものはない。無理な戦いはしない。勝てる戦いをする。

その上でその力を何に使うか、だ。自分1人で使うには勿体無い。それは結局のところ虚しさに帰結する。

誰かに贈与すること、これが幸せへの唯一の道筋かもしれない。その贈与は無理のない贈与。自分が自分のメンタルに負担をかけない贈与。それでいて、いや、だからこそ、相手から見返りを求めない、相手の幸せを願う気持ちの入った温かい贈与。誰から強制されたわけでなく、内側から湧き上がった気持ちの良い贈与。

この贈与は、愛されたかったあなたの求めていた無性の愛の一つ。枯渇しない、持続的なもの。己にSustainabilityを持たせることで、もっとみんなが良きものを手に入れられる。

そんな環境なら、みんなもあなたのゴールを応援してくれるだろう。貢献してくれるだろう。みんなのできる範囲で、コストの低いことで、でも集まればすごいうねりとなるように。

そんな日常が訪れた時、そこを生きる人の心に生まれるのが、単なる内面の安寧を超えた幸せ、なのかもしれない。



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