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美大で学び、アートに感じた「優しさ」という価値

皆さんは「アート」というものにどんなイメージを抱いているだろうか。

しばしば「アート後進国」と言われる日本において、アートが大衆を騒がせるほどのニュースになることは日常でそう多くはない。バンクシーが新しいストリートアートを披露したとか、GINZA SIXに草間彌生のインスタレーションが展示されるとか、前澤友作がバスキアの絵を123億円で落札したとか。

芸術家とは、奇抜な変人であり、アートとは富裕層が資産として楽しむもの。一般人には遠い世界の話。そんな風に思っている人も少なくないのではないか。

昔から絵を描くことが好きな私だってそんなイメージを持っていた。しかしひょんなことからアートを学問として学ぶことのできる場ー美術大学に足を踏み入れて、すぐにそのイメージは覆ることとなる。

美大では出自も作風も違うたくさんの先生に教わり、また授業では多種多様な他の生徒の方々と交流もさせて頂いている。そんな経験を経て、“アート”の価値について、自分なりに一つの答えを見出せたよう思う。

アートの価値とは、優しさ。

そうタイトルに書いたが、そのように感じた経緯をここに綴りたい。

美大は「絵が上手くなりたい人」が行く場所ではない

美大を志す人の動機とはどんなものだろうか。もちろん人それぞれだが、「造形が好き」という気持ちはやはり前提として持ってる人が多いだろう。その上で、もっと技術的な面で上達したい、という欲求を叶えるために行く人もそこそこいるように思う。

その欲求自体は決して間違っていない。当然私だって上手くなりたいと思っている。

けれど美大での学びを重ねるうちに、ここは「上手くなりたい人が行く場所」ではない、ということを悟った。

もちろん、先生はプロだから、技術的なことはいくらでも教えてくれる。世界を股にかける芸術家でもある方々から直々に学べるのだ、その価値は十二分に得られる。しかし、一般的に美大のイメージとして持たれているものが「絵が上手くなる」だとすると、それはあまりにも勿体ない気がした。私にとって、美大という場所にはそれ以上の価値があり、その価値をどうにか文章で表現できないかといま試行錯誤している。

それは、「素の自分を曝け出せる」という価値。そしてそのことと表裏一体である、「違いを受容する」という価値だ。

繰り返される、「あなたは何が描きたい」という問い

どうして素の自分を曝け出し、また違いを受容できるのか。その気付きは美大という場所での“教え”のあり方から得たものだった。

先ほども書いたように、先生方は普段扱っている画材も作風も人それぞれで、当然ながら生徒に指導するポイントも人によって少しずつ異なってくる。しかし、どんな先生でも必ず共通して、それもしつこいほどに、生徒に問うてくるのが「あなたは何が描きたいのか」ということだ。

「何が描きたいのかと言われましても、課題のモチーフは決まっているのだから、それを描くのですが…」とでも答えようものなら、先生はもう一度同じ問いを突きつけてくるだろう。

そもそも先生が課題の採点において最も評価するのは技術的な成熟度ではないのだ。その限られた世界(モチーフ)から自分が何を感じ取り、表現したいと思ったかという、その人自身の意思だ。技術はあくまで意思を表現する上でのツールである。先生は常に “学校の先生”としての眼ではなく、”一人のアート鑑賞者”としての眼で作品を評価している。

でも、意思ってどう見つければいいの?という意思迷子の人も少なくないだろう。では何が「意思を持つ」ことの足枷になるのか。

ある時、公園に足を運んで風景画を制作する課題があった。最後の講評時にある生徒の方が自分の作品を評してこう言った。

「なんだか、描きたいと思うものが見つからないまま、最後までいってしまって。なんとなく目に入ったものを描いただけです。きっと私にはそういう、ふとした景色に美を見出すような、感受性が足りないんだと思います」

まさに、意思迷子だ。ああ、そういう気持ちになるのもわかるな…と思っていたら、それを聞いた先生が間髪入れずに「それは違う」と言った。

「あのね、画家や芸術家が、人とは違う特別な感性を持っているなんてことは全くないんですよ。世の中そうやって彼らを特別視する人が多いけど、造形をする立場として、そういう風に思うのだけはやめた方がいい。センスなんて誰にだってあります。画家がやってるのはただ、ありのままの自分の感性を疑わず素直に、表現することだけです。」

私はこの言葉を聞いて、純粋に心が揺れ動いた。

確かに私たち人間は日々の中で忙しいほどたくさんの物事を感じ、それを口にしたり、しなかったりする。そして実はそのほとんどが誰もが感じているようなことではなく、自分特有の感性によるものだったりする。例えば「今日の雲は天使の羽みたいだね」なんて友人に話す。友人は「そうだね」と返すだろうが、言われたからそう見えてきただけであって、空に天使の羽を見出したのは紛れもなくその人のその瞬間の感性によるものだ。芸術家という存在は、それを恥じらいなく、惜しみなく表現しているだけ。浮世離れした遠い存在なんかじゃない。まずはそうやって自分自身がフラットに捉えられるかどうかが、作品に意思を持てるかどうかに関わってくるのだと思った。

優しさとは、意思を否定しないこと

そして大事なことは、そうやって絞り出された生徒の意思を美大の先生は決して否定しない

なぜなら、意思に正解はないからだ。そう言ってしまえば当たり前に思えるのだが、事実私たち人間は社会生活の中で無自覚的にも相手の意思を否定してしまうことがある。「学校には頑張って行かないと」「大学まで行ったのに就職しないなんてもったいない」「女性として生まれたのに男性として生きたいだなんて」「こんな大企業を辞めてまで選ぶ道じゃない」そんな言葉を耳にすることがある。正解はないはずなのに容易くそんな言葉を口にしてしまうのは何故だろうか。いつのまにか、数で勝っていること(マジョリティー)が正解という空気が蔓延してしまったのかもしれない。だから多くの人は"意志の否定"を恐れ、"感じたこと"をまず吟味して吟味して吟味した結果、ごく一部のことしか自分の外側に表現できない。

先生は指導においてその"意思"を否定しない、むしろ喜んで受け容れるということにかなり気を遣っているように思う。発する言葉ひとつひとつのレベルでだ。実際、クラスで同じ一つのモチーフを描いていても出来上がる作品が人によって全く違うさまには私も驚いた。モデルが目の前に居る人物画であっても、ピカソのように多視点的に描く人もいれば、眩いほどカラフルに描く人、背中だけをただひたすらに描き込む人、本当に人それぞれの意思が姿を表す。

私こそ元来、どちらかというと“正解”を求めて彷徨ってしまうような人間だったが、そういう人にほど先生は冷たい。すべてが正解なのに正解を探すことの無意味さを痛感し、自分が恥ずかしくなった。その気付きを得てからこれまでとは全く違う絵を描けるようになり、こんなに自分の素を曝け出し、丸裸になれたのは生まれて初めてだと感じた。それは、何をやっても先生が受け入れてくれるという心理的安全性があるからに他ならないだろう。

そして素晴らしいのは、先生がそんな広い背中を見せてくれることによって生徒達も自然と他人を受け容れる空気が生まれることだ。

課題制作の過程では沢山の他の生徒の方が声をかけてくれ、「これはどんな意図でこうしたのですか?」と尋ねてくれる。そして目を輝かせて「面白いですね!」と私の答えを最後まで聞いてくれる。私自身も他の方へ同じように色々なことを尋ね、自分にはない視点に驚き、ものすごいスピードで視界が広がってゆく感覚を覚えた。

これが、アートの世界か。

違いを受容し合うということ。それが自然とできる、それが当たり前の空気。芸術家同士は、そういう世界で交流をしているのだと思った。社会人として働きながらこの世界に片足を突っ込んだ私にとっては、新鮮な空気だった。もう片方の足を突っ込んでいるのは、理不尽なことが起き、心の中ではモヤモヤしていても周りに合わせて無難に事を進めることが評価される世界。その世界にどっぷり頭まで浸かってしまうと、特に現代アートなんかを見ても「意味が分からない」「変わってる」で感想が終わってしまう。違う、彼ら現代アーティストは、考えることを諦めない結果として数々の作品を生んでいるのではないか。どうして世の中はこうなっているのか。どうして人間はこうなのか。おかしいじゃないか。くそだ、素晴らしい、面白い、その全てを、隠さないで、丸裸に。

こんな私が在っていいんだ、と思えること

「素の自分を曝け出せる」「違いを受容する」これらを優しさと言い換えた。その人が、その人らしくいられるようにするということが、究極の優しさだと私は思うのだ。

そしてアートの持つこの優しさという価値は、何もアートをつくる側だけが享受するものではない。むしろ芸術家達はその優しさを、体を張って社会に届けてくれているような気がするのだ。「こんなものの見方だってあるんだぞ」「変なのって笑われたりもするけど」「これが自分の正義だ」と、作品を通して叫ばれているような気がするのだ。

もし、この記事を読んでいる人の中で「なんだか日々息苦しいな」と感じている方がいれば、一度色々なアートを鑑賞することを試してみてほしい。

きっと、あまりに思考が多様すぎて混乱するかもしれない。理解できないものも当然あるだろう。だけど、「こんなに色んなものの見方があるんだ」という圧倒されるほどの気付きは、ひいては「こんな世界があっていいんだ」「こんな私も在っていいんだ」と自分を肯定できることに繋がるかもしれない。

少しでも興味が持てる作品があったら、近くにあるキャプション(説明)を読んでみたり。作者が在廊していたら、作品の意図について尋ねてみたりする。私はそういう光景を目にするだけでもなんだか目頭が熱くなってしまう。曝け出せることの嬉しさと、受容することの強さに。

アートの優しさは、すべての人に向けられたものだ。

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