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西洋美術史覚えて楽しく美術鑑賞しようよ② エジプト美術(前編)

美術館に行ったはいいけどよく分からないまま「見た気分」になってしまっていた筆者が、「美術史を学ぶと、美術鑑賞が格段に楽しくなるのでは!?」と気付き、勉強がてらnoteにまとめていくシリーズの第2回。
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※知識ゼロからの素人が、限られた参考文献をもとに作成する記事です。個人の推測も含まれますのでその前提でお読みください。明らかな誤りがあった場合はご指摘頂けますと幸いです。

前回、紀元前3100年頃にメソポタミア(現在のイラクの一部)でシュメール人から文明が始まった話をした。同時期にナイル川のほとりでエジプト文明は興っていく。

念のため場所をおさらい。

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以下の年表を見ても分かるが、メソポタミアは様々な民族が入り乱れ興亡を繰り返していたのに対し、エジプトは大まかな時代区分こそあれ、基本的には同じ民族のもと安定した体制が続いていった。

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これには、メソポタミアは民族移動の交差点であったのに対し、エジプトは入口が限られる孤立した場所にあったという、地理的な要素が大きく影響しているようだ。

そんな前提も頭に入れつつ歴史を辿っていきたい。

ちなみにここから「王朝」という時代区分を表す用語を多用するが、1つの王朝には1人の王というわけではなく複数人の王が含まれる。じゃあ王朝って何よ?という話なのだが、これが正確にはよく分からない。支配民族が変わったとは限らないし、血筋が繋がっていても王朝が分かれている例もある(第3と第4王朝)。何か国政に歴史的な変化があったとか、いずれにせよ何らかの理由があって当時の王たちは「前の王朝と今の王朝は繋がっていない」と思い、区切りを付けていたのだろう。主観的すぎる感じもするけど。

初期王朝(第1〜2王朝)

エジプトはもともと、その自然環境の違いから、ナイル川上流の上エジプトと、下流の下エジプトに分かれて発展していったようだ。獲れる作物とか生息する生き物が違ったのかな?

しかし前3100年頃、上エジプト出身の首長ナルメルが上下エジプトを統一し、第1王朝を作る。人も増えてきて、貴重なナイル川の水を公平に分け合うのに指導者による統率が必要となり、かねてより統合の機運が高まっていたということだ。

ちなみによく耳にする「ファラオ」とは、エジプトの王様の総称。

首都は上エジプトと下エジプトの境目であるメンフィスに置かれた(第8王朝まで)。以降古代エジプトの首都は、一部の時期を除いて基本的にはメンフィステーベを行ったり来たりする。

古王国時代(第3〜6王朝)

王権がエジプト全域に広がりきったこの時代は、エジプト最初の繁栄期。もうファラオの権力がはんぱじゃない。そのことを示す確固たる美術品が、ピラミッド

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ピラミッドはファラオのお墓だ。ファラオの死後、遺体をミイラ化してピラミッドの中に保存することで、ピラミッドは魂の永遠の住居とされた。

エジプト人は霊魂の不滅を信じていた(来世信仰)という事実は、エジプト美術を語るうえでも大前提なので覚えておきたい。死人を待っているのは「無」ではなく、次の世界で再生し、また生き続けていくという考え方だ。

ちなみにミイラにされたのはファラオだけではなく、一般市民も沢山ミイラ化はされていた。なんせエジプトは砂漠地帯だから、ミイラを作ろうと思って作ったというよりは、砂漠に埋めた遺体が、自然乾燥でミイラになったのだ。それを見たエジプトの民が、「これ、いいやん!遺体を燃やしてしまうより、この方が魂が残る感じする!ファラオ様もこれでいこう!」って思ったのだろうか(明確な史実が見つからないので推測)。

第4王朝にギザという都市に建てられたクフ王、カフラー王、メンカウラー王のピラミッドは特に大きく、ギザの3大ピラミッドと呼ばれる(上の写真がそうです)。

最大のクフ王のものは、高さ146m、底辺は233mにおよぶ。延べ10万人の労働者と約20年の歳月が費やされたと伝えられる。
(北澤洋子監修『西洋美術史』より)

に、にじゅうねん・・・!?じゅうまんにん・・!?勘付いた方もいるかもしれないが、死んでから20年後にようやく魂の住居が出来るのはあまりにも遅すぎなので、ピラミッドはファラオが生きている間にせっせと建造されたのだ。

嫌いな人のお墓作るためにそんな汗水流せないよね?余裕でサビ残?(というか給料貰ってたの?)・・ファラオ、もしや相当人望厚い?と思ったが、こんな文献を見つけた。

古代エジプト人は死後の世界、すなわち来世を信じていた。死者が来世で「有力者」となるためには、葬送儀礼や死後の供物といった、生者の「世話」が必要だとされていた。そのため、死者は生者に自らの世話を求め、逆に生者は死者が来世で力を持つことによって、家を守り、維持していくことを求めたのである。(中略)古代エジプト人にとって王とは神であり、全エジプトの家長であった。つまり、ピラミッドをつくることは、国の事業に従事するという栄誉に浴するだけでなく、自らが属する共同体全体を、王の死した後の新たな世界へと運ぶ準備に関わることだったのである。
時間デザイン Webサイトより)

なるほど〜。つまり、「ファラオはん、あんたが来世でも活躍できるよう立派なお墓作ったるから、私たちがそっちの世界に行った時にはどうかよろしく頼みますわ」みたいな感じだったんだね。これも一種の祈りだよね。

でもそれって、現世が繁栄していて一般市民もその恩恵を享受しているからこそ生まれる思想だよね。悪政だったら20年もかけてこのファラオを来世に運ぼうとか思わないもんな。ピラミッドの大きさも、繁栄レベルみたいのを表してるのかもしれないな。

しつこいですが、ピラミッドについてもう少し補足。

この巨大な石積みの純粋な角錐形は、いまだ多くの謎を秘めているが、エジプト人の幾何学的な抽象形への指向をよく表している。また、この角錐の形は、雲間からさす太陽光線をかたどったとも言われる。
(北澤洋子監修『西洋美術史』より)

エジプトは幾何学の発祥の地でもある。毎年春になるとナイル川が氾濫して畑の境界線が流れてしまうから、同じように境界線を復活できるよう、測量技術が必要だったということだ。その精緻な技術がピラミッドにも活かされたということか。

いや、冷静に考えて機械もない時代に、人の手だけで石を積み上げて、こんな綺麗な四角錐つくるのすごすぎない?俄然、生で見てみたくなる。

ファラオの墓はそんな唯一無二のピラミッドだったけど、そのほかの貴人の墓も十分に立派なものだった。マスタバ墳と呼ばれる泥レンガで作られた古墳の内部は、浮き彫り(レリーフ)が壁いっぱいに飾られた。

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浮き彫りは前回のメソポタミア美術でも出て来たが、それよりも盛り上がりが薄く、ほぼ絵画に近いような感じ。それに、メソポタミアは宮殿を飾る戦争をテーマにした浮き彫りが多かったのに対し、こっちはお墓を飾る、農耕や日々の生活をテーマにした浮き彫り。双方の置かれている環境や、世界観の違いが見て取れる。

それから、エジプト人の芸術観について。

エジプトでは絵画に人物を描くとき一種の約束ごとがあった。それは人物の頭と腰から下の下半身は側面から見た形で、肩と胸は正面からの形で表した。これは、頭は側面形(プロフィール)がもっとも把握しやすいし、肩と胸は正面からが分かりやすく、脚は側面からがもっとも明瞭であるからだ。そのため絵画に描かれたエジプト人はどこかねじれて見えるが、エジプト人は身体の各部分が本質的に見える角度を選択し、それを法則として受け継いだ。
(北澤洋子監修『西洋美術史』より)

なるほど〜。一見、「絵、下手だったのかな?」とか思っちゃいがちだけど、彼らなりの理論があったんだね。けっこう合理的な方々なのね。

それと同時に、抽象性というのも彼らの美術を語るキーワードのようだ。まず描かれる人物に表情がない。描かれた人々の感情までは現代の私たちは知り得ないのだ。

それから、彼らは理想的な人体のプロポーションを定めたカノン(規範)を作品に適用していた。頭のてっぺんから足先まで、身体のどの部位がどの位置にくるかはカノンによって決まっており、方眼目盛りを使って下描きしたのだという。ピラミッドで培った幾何学性がここでも発揮されている・・・!

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しかも面白いことに、一般的には位の高い人ほどカノンが厳格に適用され、位の低い人はカノンに縛られずある程度現実的な描写がされたという。

多くの文化で抽象形は永遠性を表す形とされてきた(ヴォリンゲル『抽象と感情移入』)。あまり細かく描きすぎるとその対象に個性が宿り、命に限りある存在になってしまうから、あえて汎用的な形態に留めるといったところだろうか。ここがエジプト人の来世信仰の価値観に繋がってくる。特に王や神官など位の高い人をゴリゴリの幾何学的な秩序に当てはめたのは、彼ら(とその下に生きる自分たち)の末長い繁栄を祈る行為だったのだろう。

この流れでもうひとつ美術品を紹介しておきたい。

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第4王朝の神官であったラー・ヘテプとその妻ネフェルトの像。まっすぐ前を見つめ、背中をぴんと張り、左右対称で厳正な作りだ。いや、平面の壁画に比べるとだいぶ「人間だっ!」て思うんだけど、うーん、やっぱり生きた感じはしない。トイストーリーに出てきそう。

でも、眼だけは驚くほどリアルなんだよね。

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驚かせたらすみません(もう遅い)。この眼には水晶と黒石が施されている。メソポタミアの礼拝者像もそうだけど、眼だけは特別視されていたんだなと思う。この眼球だけで十分リアルなのに、2000年代のギャルもびっくりの縁取りっぷりだし。

そんなこんなでエジプトの古王国時代は前2686年–前2181年の約500年もの長い間続くんだけども、第6王朝に州侯(今の日本でいう県知事みたいな)の権力がどんどん大きくなって、いよいよ中央集権が崩壊してしまった。

第1中間期(第7〜10王朝)

この時代もファラオはいたものの何とも非力なもんで、上エジプトと下エジプトに再び分裂し、州侯たちの内乱が150年近く続いてしまう。ピラミッドの造営も中止されていた。そりゃそうだよね。

中王国時代(第11〜12王朝)

前2040年ごろ、第11王朝のファラオが何とかエジプトを再び統一する。首都はテーベにおかれた。

ピラミッドの造営も復活するんだけど、ギザの三大ピラミッドほど立派なものはもはや作らない。素材は石材から風化しやすい日干しレンガになり、石積みも雑になってきた。魂の住居なのに手抜くんじゃないよ。

ただ一方でこの時代には、ファラオのための葬儀や礼拝を行う葬祭殿の設備が随分充実してきていた。

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(ハトシェプスト女王 葬祭殿)

そこには単純に価値観や宗教観の変化があったのだ。エジプトの民は、「ピラミッド造るのめっちゃ大変だしやめたいな〜。でも代々続いてきた伝統だし罰当たりかな〜。どうするよ・・?」みたいに暫く目配せしあってたのかもしれない。

第2中間期(第13〜17王朝)

前1782年ごろ、第12王朝から第13王朝へは制度もそのまま引き継がれ、スムーズに継承された・・はずだったのだが、なぜだか王権が急速に弱体化してしまい二度目の混乱期が250年以上続くことになる。民族大移動の影響はオリエント全体へ、つまりエジプトにまで及んできたようだ。

1つ明らかであるのはこの時代には下エジプトで「アジア人」の勢力が増大していたことである。彼らアジア人は少なくとも第1中間期以来、傭兵や奴隷、そして時には外敵としてエジプトに入っていた。彼らはエジプト人の歴史叙述においては「侵入者」と見なされるが、実際には中王国時代にアジア系の高官が輩出しており、その人的交流は相当に活発であった。
『エジプト第13王朝』(Wikipedia)より

この時すでにアジアとエジプトは繋がっていたなんて、日本人としてはわくわくする展開だ。

長い混沌を乗り越え再びエジプトを統一するヒーローファラオが現れ、全盛の新王国時代に入っていくのだが、それについては次回に持ち越すことにします。うーん、エジプト、奥深い。

*参考にさせて頂いた文献
・中村るい、黒岩三恵他『西洋美術史』(武蔵野美術大学出版局)
・堀内貞明、永井研治、重政啓治『絵画空間を考える』(武蔵野美術大学出版局)
・池上英洋 、 川口清香、荒井咲紀『いちばん親切な西洋美術史』(新星出版社)
・池上英洋『西洋美術史入門』(ちくまプリマー新書)
・木村泰司『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』ダイヤモンド社
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