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説得力のある筋肉についての一考察:フーコー、フロイト、ラカン、筋トレ

僕たちは『正常』な身体を欲している

ミシェル=フーコーというフランスの哲学者がいる。功績があまりにも偉大なので、文系の学生なら一度は何かの授業で聞いているはずだが、フーコーは近代社会に特有の『権力』の作用を一生をかけて研究した人である。パノプティコンとか、生政治とか、知の考古学とか、そんなのがフーコーの主要な概念である。ちょっとは耳馴染みがあるだろうか。

超ざっくりいうと、フーコーは近代以前の社会における権力は暴力の形でひとびとを支配してきたと考える。中世社会において、処刑は見せ物だった。政治権力は暴力でひとびとを思うままに蹂躙できることを示して、支配を及ぼそうとしていた。ところが、近代以降の社会における権力は、人々を社会の都合の良い存在にするために『規律訓練』を施す形で作用するようになった。学校教育が良い例である。権力はもはや罰することで人を支配するのではなく、無意識に潜り込んで望ましい方向に誘導することで人を支配するようになっている。

フーコーの考えでは、ぼくたちはこの『規律訓練』を通じて権力を内面化して大人になる。これはパノプティコンという有名な比喩で示されている。パノプティコンとは、真ん中に監視員を配置して、円状に監獄を配置する一望監視施設のことだ。ぼくたちの心は、このパノプティコンのような形式で権力に支配されている。パノプティコンの真ん中では、ぼくたちの社会で『正常』だとされているルールとか規範とか他者がぼくたちを常に監視していて、それに違反しないように生きるのが大切だと思い込むようになるのだ。ぼくたちは、常に『正常』でありたいと欲望している。


ぼくたちがこのような権力を内面化していることの証左は、他ならぬこの身体に現れる。ぼくたちの社会では、『正常』な振る舞いをしない身体は徹底的に排斥される。学校で落ち着きがない子供が教室の外に追い出されるように、電車の中で奇声を上げればひとが自然といなくなるように、肥満体のひとが怠惰だと罵られるように、箸を上手に使えない人が悪様に罵られたりと、とにかく僕たちの社会は『正常』でない身体を異常視し、遠ざけようとする。そして、僕たちの身体が『正常』でなければ、振る舞いや見た目が異常だと見なされれば、社会から追放されると思い込んでいる。

だから、僕たちは、とにかく『正常』な身体が欲しくてたまらないのだ。社会に認められる『正常』な身体を獲得したいという気持ちは、強迫的な欲望として僕たちに常に襲いかかる。それはもはや、身体を社会に支配されているのだと言って全く過言ではない。ぼくたちの身体の全ての身振り手振りには『規律訓練』の結果獲得された『正常』な振る舞いがインストールされていて、その意味で常に権力が介在している。このように人々のミニマムな営みに権力の作用を見出したのがフーコーの功績である。


筋トレとネオリベラリズムの素朴な関係

筋トレを肯定的に捉えようとするひとは、筋トレを通じてひとびとは自分の身体を社会から取り戻そうとしているのだ、と主張する。たとえばぼくの敬愛している哲学者である千葉雅也は筋トレについてこう語っている。

心と身体を支配し、人間を従順な存在に仕立て上げることを規律訓練、ディシプリンといいます。これはフランスの哲学者ミシェル・フーコーの概念で、基本的に日本の体育の授業はこれに当たる。たとえば運動会の行進自体に意味はなくて、要は「お前らを支配するぞ」ということを示している。義務教育の目的は「いかに権力に逆らわないで従順に働く主体をつくるか」であって、体育はまさにそういう抑圧的な身体教育をやっている。だから僕にとって、筋トレも含めてスポーツをもう一度やろうという動機は、権力による身体の支配に対して、いかに自己準拠的な身体を取り戻すか、ということにあります。

https://www.asahi.com/and/article/20190123/205054/

僕はこうした見方に対して素朴な疑問を覚える。それは、筋肉が欲しいという欲望が社会から与えられたものであり、権力作用の一形態であると考えることはできないのか、という点である。もちろん、こんな話は素朴な話すぎて哲学の箸にも棒にもかからないのはよく分かっているが、自己身体を痛めつけてまで、生活に不必要な『過剰な』筋肉を得たいという欲望は、身体の管理を徹底して要求するネオリベラリズム的な規範作用を感じてしまう。

ちなみに千葉氏は記事の後半で、昨今の筋トレブームに対してぼくと同様の批判をしている。それゆえ、これは彼の意見に対する批判ではなく、素朴に「自己身体を鍛錬することで自己肯定感を高める」という思考に対する疑問である。

ネオリベラリズムというのは少し固い言葉だが、要するに全部お前の責任だという自己責任論だと思っておけば良い。太っているのも痩せているのも貧困も病気も非モテもうつも、全てはお前という個人の努力不足が原因であるという問題解決をしようとする思考だ。このようなマゾヒスティックな思考は、経済構造の劇的な変化に連動して、90年代以降に顕著になったと社会科学の世界ではもっぱら言われている。

ネオリベラリズムが浸透した社会においては、身体は自己管理がいかに行き届いているかのパラメーターとして厳しく監視される。本当はここにジェンダー的な非対称があって、女性の身体はこれまでも圧倒的な監視のもとに晒されてきたのだが、男性の身体が過激に社会的な評価に晒されるようになったのはネオリベラリズム的な現象である。この辺りはまた今度書くとして、筋トレの持つ自己身体への執着の『過剰さ』には、このような社会のあり方がダイレクトに反映しているように思えてならない。だから、僕はムキムキな人が、筋トレは自己肯定感を高めると主張しているのを見るにつけ、ほんとなのかなぁと思ってしまう。自分を肯定したいと思うのは人のサガであるが、その手段が単に装いの新しい規範に従順に振る舞うことであるとしたら、それは少し寂しいではないか、と思ってしまうのである。


筋トレと精神分析:フロイト、ラカン

一方で、ぼくは少なからず身体を過剰に痛めつけて過剰な筋肉を獲得するという、その『過剰さ』に魅力を感じる自分がいることにも気がついている。そもそも、人間と他の動物を隔てているのは過剰さである。人間は認知能力も身体能力も性欲も食欲も、ただ生きて死んでいくのにはあまりにも過剰である。その過剰さに説明をつけるためには、ぼくは精神分析がやはり1番向いていると思う。

フロイトは、あらゆる人間活動のエネルギー源をリビドー、つまり性欲であると考えた。性欲は無意識の領域で発生して、自我というフィルターを通って色々な欲望に変換される。人間のあらゆる活動、文化や芸術さえもが、性欲を否認したり過剰に肯定したりする過程で生み出されていると考えるのだ。それがどんなメカニズムで証明されるかは以下で簡単に説明してみる。

先日、筋トレを通じて「全能感」を獲得したいのだと主張する若い同僚と話した。全能感とは、精神分析的には母親と自分が未分化な状態で、呼べば来てくれる親が世界の全てであるような状況がもたらす原初体験だ。それは、母親との近親相姦的な、リビドーの極めて原初的な体験である。

彼(注:ラカン)によれば、生後間もない乳児は、母子が一体化した万能感あふれる空間の中で、とても満ち足りた時間を過ごしている。…まだ言葉も知らない、それゆえ「自分」と「母親」の区別もつかないような子どもの経験する世界は、混沌とした原始のスープみたいなものだ。そのとき母親は「世界」そのものだ。そこでは、願ったことは何でもかなうをイメージは全て実現する。万能感とはそういうことだ。

斎藤環 生き延びるためのラカン p62

しかし、万能感は剥奪される。いろいろ面倒なので端折ってしまうが、要するに母親には父親がいるからである。父親は母親を性的に支配していて、母親を独り占めしようとするじぶんのペニスを切り取ろうとしてくる。これが俗にいう去勢不安である。だから、僕たちは母親を独占することを、つまり母親にじぶんのリビドーを向けることを諦める。

結果として、原初的に持っていた全能感は失われるが、かわりにぼくたちは欠如を受け入れて、欠けている自分を埋めるために別の何かを『欲望』することを覚える。何かがしたい、何かが欲しい、という感情を学ぶのだ。このようにして、原初的な欲望であるリビドーは、歪曲されて別の欲望として表現されるようになる。

今の話は精神分析特有の気持ち悪い用語と概念に塗れてしまっているので、ちょっとパラフレーズして一般化してみると、こんな感じである。

ぼくたちは最初は、自分を全面的に肯定してくれる存在と一体となって、世界を何もかも思い通りに動かせるという全能感に満ち溢れた世界を生きている。ところが、別の誰かによって自分を全面的に肯定してくれる存在は奪われ、大きな喪失感を得る。その欠乏を代替するために、ぼくたちは何か別のものを「欲望」することを覚える。でも、本当に欲しいのは元々感じていた世界と一体であるかのような「全能感」であり、それは決して手に入らない。なぜなら世界とじぶんは一体ではないし、決して世界は自分の思い通りにならないからだ。


筋トレで全能感を取り戻す

筋トレが「全能感」を獲得するための手段だと考えるのであれば、大変合点がいく。単純な精神分析的な枠組みでは、筋トレは「世界が自分の思い通りにならなかった」という欠乏を埋めているってことになるからだ。『過剰さ』も、決して代替されない欲望を身体に刻み込む形で終わりなく発散しているのだと考えれば、納得できる。その欲望は原理的には決して満たされることはないが、精神分析的にはそもそも人間の欲望っていうのは全て満たされないものだからさして特別なことではない。だって全ての欲望は全能感を奪われたという変えられない事実を代替するために、自我がリビドーを歪曲して生み出した欲望なのだから。

この説明を要約すると、筋肉が欲しいというのは、全てを思い通りにできるという原初的な全能感に接近したいという欲望の表現形式の一つだということだ。それはじぶんの身体を「思い通り」の姿にすることで、かつて思い通りにできなかった世界のあり方に対する自己効力感を高めるプロセスなのかもしれない。じぶんの身体を完璧に制御下におくことで、じぶんは世界の一部でも思い通りにできるのだという原初的な感覚を取り戻そうとする行為だと捉えてみたら、どうだろうか。

やっぱりどう説明しても、「そもそもムキムキになりたいという欲望自体社会に植え付けられている感じがします」というフーコー的な批判を逃れられないのが残念だが、しかしそんな権力作用すらも過剰な欲望として取り込んで、じぶんの身体に刻みつけてしまうのは、何か突き抜けたものを思わせる。(本当はフーコーならこの過剰さも、生政治の概念で綺麗に説明できてしまうのだと思うが。)

説得力のある筋肉とは、だから、どことなく喪失感を漂わせているものなのかもしれない。筋肉には、社会に刻みつけられた自己管理への欲求と、失われた全能感の面影が漂っている。そしてもっと踏み込んで言わせてもらえば、ほんとうは人間は、じぶんの身体を完璧に制御することも思い通りにすることもできないのだ。だから永遠に筋トレに成功し続ける人は存在し得ない。魔法少女みたいなものである。それもまた哀愁を感じさせる原因なのかも知れない。

だってじぶんの身体に投影している思いっていうのは…とかいう話をするにはもっと深く精神分析の話をする必要があるのだけれど、馬鹿馬鹿しくなってきたのでやめておく。ま、とりあえず筋トレがんばろうぜ!


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