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【重版記念】『新自由主義の廃墟で――真実の終わりと民主主義の未来』訳者解題冒頭公開

政治学者ウェンディ・ブラウンの新刊『新自由主義の廃墟で――真実の終わりと民主主義の未来』重版にあたって、訳者・河野真太郎さんによる解題の冒頭部分を公開いたします。同時期に発売された『新しい声を聞くぼくたち』(講談社)と響き合うところも多い本書。ブラウンの前著『いかにして民主主義は失われていくのか――新自由主義の見えざる攻撃』(みすず書房)などとともに、ぜひお手に取ってみてください。

訳者解題

河野真太郎

 私たちの「自由」はどこへ行ってしまったのだろうか? 確かに私たちは、「自由」のために近代社会を鍛え上げてきた。基本的には西洋近代に発する個人と自由の概念を、社会や政治、集団性との関係の中で、思想や文化だけではなく社会制度や法制度といった水準において実現させてきた。もちろんそれはまっすぐな道のりではなく、ジグザグの道のりであり、時には前進と後退をくり返すような道のりだった。

 一八・一九世紀が民主主義と資本主義の隆盛の時代であったなら、そこでの「自由」は異質な二つのことを意味しえた。まず自由とは啓蒙主義とアメリカ独立、フランス革命以来の、共和制的・市民的自由であった。それと複雑な関係を切り結ぶことになるのが、資本主義下における「経済的自由主義」という意味での自由である。つまり、市場は「神の見えざる手」によって調整されるべきであり、そこに人為的な介入は行うべきでないという考え方だ。この考え方の基礎にある人間観とは、経済的合理性に従って行動する「ホモ・エコノミクス」であり、古典的自由主義における自由はそのような人間の自由でもある。この自由主義は、生産手段を持てる者と持たざる者との間の分断を生み出し、後者の過酷な労働への隷属という苦しみを生み出した。そういった苦しみが「社会問題」として認識されるようになると、私たちは資本主義の悪害からの「社会的自由」を求めて、さまざまな運動と組織を試みてきた。それが二〇世紀の集団的な労働運動であり、アメリカであれば一九三〇年代、イギリスであれば一九五〇年代以降に実現していった福祉国家である。それらの集団的な試みは、経済的自由主義の下では失われてしまう自由を確保するためのものであった。この意味での自由は、第三の自由として強調されるべきだろう。

 ところが、第二次世界大戦と「現実に存在する社会主義」における全体主義の経験は、「自由」の意味を今一度転回させた。西洋諸国における福祉国家は、大きな政府のもとで市場に対する規制を行いつつ、個人を市場から守るためのセーフティーネットを福祉という形で提供し、述べたように、自由市場の下では失われてしまうであろう自由を確保した。だが、それと同時代にもたらされた全体主義の経験とそれに続く冷戦の政治は、そういった集団的な意味での自由を忘却させる、もしくは積極的に否定するような効果をもたらした。

 現代の新自由主義(ネオリベラリズム)は、そのような歴史的経験の果てに登場した。それは全体主義と共産主義・社会主義だけではなく、西洋の福祉国家(社会的国家)への部分的な反発から生まれ、また部分的には福祉国家体制の中から生まれてきた。ここまでのかなり大まかな素描でも分かる通り、この新自由主義における「自由」は二重・三重のひねりが加わった、複雑な自由である。それが一九世紀の古典的自由主義と異質であるのは、もちろんその背後にグローバリゼーションや金融化、新たなメディアによるさまざまな境界線の融解といった条件が存在することもあるが、ここまで述べたような歴史的経験を背景とするという点が決定的に重要である。

 本書『新自由主義の廃墟で――真実の終わりと民主主義の死』の著者ウェンディ・ブラウンは、まさにそのような「自由」の複雑な歴史と現在に、常に取り組んできた政治学者である。本書はWendy Brown, In the Ruins of Neoliberalism: The Rise of Antidemocratic Politics in the West (2019)の全訳である。原著のタイトルを直訳するなら『新自由主義の廃墟で――西洋における反民主主義的な政治の隆盛』であるが、本書が応答しようとする歴史的局面を日本の読者により端的に示すことを狙って、副題を「真実の終わりと民主主義の死」とした。「真実の終わり」については、ブラウンの使う用語法を反映させて「ニヒリズム」の語を使うことも検討したが、これについてもより通りのよい表現を採用した。

 ウェンディ・ブラウンは現在、プリンストン高等研究所(Institute for Advanced Studies)教授である。一九九九年からカリフォルニア大学バークレー校教授であったが、本書を出版した後二〇二一年に現職に着任した。

 ブラウンは思想的にはカール・マルクス、フリードリヒ・ニーチェ、マックス・ヴェーバー、ミシェル・フーコーなどに依拠しながら独自の政治理論を構築してきたが、ここまで述べた通り、その中心的な関心をひと言で述べるならば、「自由」とそれを支える制度としての民主主義の変転だった。そして、そのような主題に取り組むにあたって、ブラウンは目の前で展開する歴史的な変化に対して自らの構築してきた理論を修正しながら対応していくことを厭わない、非常に勇気ある、現状と闘う思想家であり続けてきたことをまずは強調しておきたい。

 これまでの代表的な著作は以下の通りである。

States of Injury: Power and Freedom in Late Modernity. Princeton University Press, 1995.
Politics Out of History. Princeton University Press, 2001.
Regulating Aversion: Tolerance in the Age of Identity and Empire. Princeton University Press, 2006.〔『寛容の帝国──現代リベラリズム批判』向山恭一訳、法政大学出版局、二〇一〇年
Undoing the Demos: Neoliberalism’s Stealth Revolution. Zone Books, 2015.〔『いかにして民主主義は失われていくのか──新自由主義の見えざる攻撃』中井亜佐子訳、みすず書房、二〇一七年
In the Ruins of Neoliberalism: The Rise of Antidemocratic Politics in the West. Columbia University Press, 2019.〔本書〕

 これ以外に、翻訳のある共著としてはジョルジョ・アガンベン他『民主主義は、いま?──不可能な問いへの8つの思想的介入』(河村一郎他訳、以文社、二〇一一年)マーティン・ジェイ/日暮雅夫編著『アメリカ批判理論──新自由主義への応答』(晃洋書房、二〇二一年)がある。特に後者に寄せた「新自由主義のフランケンシュタイン――21世紀「民主主義」における権威主義的自由」は本書第五章の元になっている論文だと考えられる。

 新自由主義における「自由」は、述べた通り、多くの逆説を含んでいる。そのうちでも厄介なのは、新自由主義が左派的な(「リベラル」な)自由への衝動を巧みに取りこんで自らの力としていったことであろう。逆に言えば、新自由主義下においては先進的な抵抗の政治そのものが体制にすでに組み込まれており、左派が左派たることが不可能になっているのだ。代表著作として挙げたうち、States of Injuryと『寛容の帝国』はそのことを主題としていると言ってよい。前者はリベラル・フェミニズム的なアイデンティティ・ポリティクスが、後者では「寛容」というリベラルな価値が、新自由主義的な体制と矛盾しないものになっていることが批判されている。

 ここまで大胆に要約してしまうと、この型の議論は他にもなされてきていることに気づくだろう。例えばナンシー・フレイザーの、論争を呼んだ「承認と再分配」をめぐる議論(『中断された正義』所収)や、リュック・ボルタンスキーとエヴ・シャペロの『資本主義の新たな精神』である。前者は九〇年代のアイデンティティ・ポリティクス(承認の政治)が階級の政治(再分配の政治)よりも優勢になってしまったことを批判し、ジュディス・バトラーとの論争となった。この問題提起自体には価値があっただろう。だが、その価値というのは、例えばジョセフ・ヒースとアンドルー・ポターの『反逆の神話』のように、反体制の政治が資本主義を強化するものでしかないという、ニヒリスティックな恫喝を行うことにはない。フレイザーやブラウンが、リベラルな政治の新自由主義への取り込みを問題にするのは、リベラルな政治に意味がないと恫喝するためではなく、それを乗り越えていかにしてリベラルな政治を再生するかを考え始めるためであった。この二つの違いは、強調されるべきである。

 『いかにして民主主義は失われていくのか』と『新自由主義の廃墟で』は、States of Injuryと『寛容の帝国』から一歩押し進めて、新自由主義と民主主義との関係の現在を考究する二部作とみなしていいだろう。ただしこの二部作は、連続性と同時に差異が際立った二部作である。その差異は、新自由主義のとらえ方の変化でもあるのだが、そのような変化を引きおこした歴史的状況の劇的な変化でもある。

 そもそも、『いかにして民主主義は失われていくのか』は、新自由主義がより深い水準で私たちの社会を変質させていき、左派政治、リベラル政治がさらなる退却戦を強いられている状況で書かれたという意味で、ここまで紹介した二冊とは異質な歴史的背景で書かれたものと考えるべきだろう。「より深い水準で」というのは、新自由主義が単なる経済理論として私たちの経済を変化させただけではなく、政治、社会、法、文化、教育、人間といったものにすべて浸透していく「統治理性」となっているということである。これはもちろんミシェル・フーコーの講義録(『生政治の誕生』)の議論を受けたものであるが、新自由主義が統治理性であるということは、それが私たちの主体を、単なる経済的合理性に基づいて行動する主体(ホモ・エコノミクス)へと変えるということに留まらず、自主的に自らを「人的資本」へと変えていくような原理であるということを意味する。具体的には『いかにして』では、教育に一章が捧げられていることが注目されるだろう(第六章)。ブラウン自身、カリフォルニア大学の新自由主義的改革への反対の運動と言論を展開した人であるが、『いかにして』で記述される運営組織と教育内容の両面から大学に市場化の論理が浸透していく様子は、二〇一〇年代に市場化を加速させていった日本の大学にも通じるものがあり、ブラウンが批判的に記述する状況がアメリカ国内にとどまらないものであることが痛感された。

※ 続きは本書でご覧ください ※

ウェンディ・ブラウン著/河野真太郎訳
四六判上製272頁 本体3,400円+税 ISBN 978-4-409-03114-8

「本書の主張は(…)、新自由主義的な合理性や価値づけの様式の影響を受けていないものはないということであり、新自由主義による民主主義への攻撃は、あらゆる場所で法、政治文化、そして政治的主体性を変容させてしまったということだ。(…)白人ナショナリズム的な権威主義的政治の隆盛を、(…)三〇年以上にわたる新自由主義による民主主義、平等、そして社会への攻撃によって形づくられてきたものとして理解することを意味する。」(本書より)

ウェンディ・ブラウン

1955年生、アメリカの政治哲学者。プリンストン高等研究所教授。著書に『寛容の帝国』(法政大学出版局、2010)『いかにして民主主義は失われていくのか——新自由主義の見えざる攻撃』(みすず書房、2017)。

河野真太郎(こうの・しんたろう)

1974年、山口県生まれ。専門は英文学、イギリスの文化と社会。専修大学国際コミュニケーション学部教授。著書に『〈田舎と都会〉の系譜学——二〇世紀イギリスと「文化」の地図』(ミネルヴァ書房)、『戦う姫、働く少女』(堀之内出版)、『新しい声を聞くぼくたち』(講談社)。訳書にトニー・ジャット『真実が揺らぐ時——ベルリンの壁崩壊から9.11まで』(慶應義塾大学出版会)、『 暗い世界——ウェールズ短編集』(堀之内出版)など多数。

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