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私が想いを馳せる故人の話

物語を書籍化できるまでの記録のnote。
基本的にはどうやって書籍化していくのかリアルタイムで記事を書こうと思っていますがでもたまには普通の文章も盛り込もう(でないとネタ切れをする気もしている)というわけで本日はお彼岸の時期が終わって私が思いを馳せていた故人のお話です。


人というのは会えなくなるといい思い出しかない


先日、知り合い

友人と呼ぶには私には少し申し訳ないくらい、人生について先輩だなあと思う人なのだけれど

と話をしました。
その際に彼女は最近続け様に肉親を亡くされていて、その話などの中で「憎いくらいに、亡くなるといい思い出しかなくなっちゃうんだよね」って言っていてわかるなーって思ったことがありました。

まあ幸い(?)にして我が家の両親は元気です。
母は認知症なのだけれど体のほうはまあとりあえずは(歳をとってきてそれなりに色々あるにしても)元気で、父はちょっと体が怪しい案件が出てはきているのですが、まあ現役でまだ働いているので一般的には元気な部類なわけです。
が、やっぱりそれでももう歳とってくると少しずつ私も歳とってきているのもあり、相手と自分の死を考え始めます。そうすると不思議とだんだんと嫌な思い出も昔よりは、我が家の場合は毒親なのでだんだんとですが薄れていくんですよね。
これが人として角が取れていくということなのかもしれませんが。
なのでそういう感覚はなんとなくだけれどわかります。

ましてや他人となると嫌な思い出というのはそうそうないわけで、いい思い出ばかりが頭の中を廻ります。

私も時折、自分の部屋のある箇所を見て思い出すのです。
故人を。
特にお彼岸やお盆、あとは自分が主催するイベントや大切なライブなどがあるとある箇所を見て思い出します。

その場所は神棚です。


我が家に神棚があるわけ


私は基本信仰というほどのものは持っていませんが、昔の日本人っぽく、舞台でも神棚があったりすること、我が家の系統が神主をやっていたことがあることから我が家には神棚があります。

これには上記の2つの理由より、実は1つもっと大きな理由があります。
それは父が自分の親の神棚をなぜだか壊し、

つまり私の祖父の神棚を壊し、

祖父の御霊が入っているもの(信仰心がないのでこの呼び方も深くは分かってない状態)を捨てようとしたので回収してきたという経緯です。


まあこの辺から察していただいてもだいぶいっちゃっている父なのですが

その父との話はこちら


その父の後始末的に我が家には祖父のために神棚を作ったのです。
(って言っても和タンスの上なのだけれど)
まあ祖父は自分の息子なので諦めているとは思うし、むしろ孫である私のことを偉いと褒めてくれると思ってます。話したこともないし会ったこともないけれど、生きている時に死んだ人間より、生きた人間を優先しなさいとおばに言っていたという話を聞いてもそう思います。

でも、私が生まれたときにはもうこの世にはいなかった会ったことのない、それでも私の祖父の、そういったものを捨てられるのは気分が良くないわけで。
普通の感覚的にも仏壇にある位牌を捨てる人がいたら止めると思うし、気分は悪いと思いますが・・・。


そういった経緯で出来上がった、急遽作られた神棚(といってももう引っ越しも3回はしてますのでだいぶそこから日は経っているのですが)なのでだいぶ我流が入っています。

神棚に祖父、氏神様、元々ずっと行っている御朱印(元々御朱印はそういうものだと思っているのですが)を置いています。
この辺は普通だと思います。

さらに一段下がったところに一緒に実は私の好きだった人たちの遺品を置いています。(これは別に神様として下げているというよりは遺品なので位牌的ななんちゃらと一緒に置くのが気になるのと場所的な問題)
ここまでくると完全我流です。
でも仏壇とかってそんなイメージだし、神棚もきっと江戸時代とかもっと身近だったときはそうだったんじゃないかなと。(さらに大昔になるともう少し神聖だった気もしますが・・)


それらを時折拝んでいる感じ。
時折っていうところがミソですが(苦笑


私はそれらを拝んだ時にいつも、神棚を作った大元の理由になった祖父よりも思い出深い人たちを思い出すのです。


愛する人たちがいなくなって一番寂しいと思うこと

私もいつかはそちらにいくと思っているので

とは言ってもそちらがあるのかもよくわからないですが

そこまで亡くなったということの事実が悲しい、寂しいというのはありません。
というよりは何が寂しいって「語り合えない」ということの様に思っています。
あんなこと、こんなことをもっと語り合いたかった、そういう思いは年々増しています。

神棚に置いてある遺品の1つは私の親友のものです。
彼女が自ら死を選んでしまったこともあり、最初の5年くらいは自分を責める、ああいうことをしたら結果は違ったのではないかと言った様な

彼女と連絡が取れなくなって3日後に彼女が亡くなってしまっていたので。
そうは言っても最後の連絡も普通の会話だったのですが
(でも今思うと・・とか色々話し出すとあります)

後悔の念ばかりが自分を襲いましたが、今は彼女だったらどういうだろうか、こういう話をしているだろうかそういうふうに考えることの方が増えました。


同じ様に遺品を置いている恩師に関しても同じ様な感じです。
私自身も闘病中だったので(多くの人には伝えてなかったのですが恩師には伝えて合ったので理由はわかっていたと思いますが)見舞いにも行けずに終わってしまったという後悔がこれまた長いことついて回っていましたが今はどういう風に話すだろうということをよく思います。

と同時に、これらが実は私の襟を正してくれる存在の一つになっています。


私にとっての神様

私が今書籍化を目指して書き上げている小説は

僕の中の神様


ですが私の中の神様というのは彼らなのかもしれません。

死後どういう世界になっているかはわからないけれど、彼らにもし出会ってしまったら、恥ずかしいと思ってしまう、そういう人生は送るまいといつも彼らを想うと同時に考えるのです。
自分を律するではないですが、私は彼らに私を律してもらっています。
もうこれ以上そういう人は増えて欲しくないですが私にとってはある意味、本当に心の中の神様。



物語をきちんと書き上げたら物語を書くに至った気持ちなどを書きたいと思っていますがそう言った思いも物語の中には入っています。

これらは実は神棚だけではなくて空を見え上げると時折思います。

みんなはそこにいる。
私はきちんとしなければと。

ま、でもいい加減なところもいっぱいあるんですけどね。

天気がいい日は特に私の気持ちを晴れにしてくれるのは少しだけ寂しさを感じないからかもしれません。
今日から天気がいい日が続く様ですね。



あなたにはそういう人いますか?



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