第192話:他人から他者へ
不思議なことに、カミさんは猫の気持ちを代弁する時に、それが人であれば本人と言うべきところを、なぜか本ニャンと言ったりする。
例えば、
「本ニャンには本ニャンなりの考えがあるらしい」とか、
「本ニャン的には相当ショックだったらしい」とか。
カミさん的には、このニンとニャンの音の響きが、人と猫の間をつなぐ「絆:キズニャ」ということになるらしいのだ。
一方の本ニャンは気ままで、愛情など、どこ吹く風。してほしいことがある時だけ寄って来てカミさんを酷使している。
猫にとってカミさんはあくまでも他人なのかもしれない。いや、猫は人ではないので他ニャンとなるのかもしれない。他ニャンではカミさんが猫みたいになってしまうが、猫はカミさんを人間だと思っていない節もあるから、やっぱり他ニャンでいいのかもしれない。
いや、もうひとつ他者という言い方がある。ひょっとしたら、それを意識すれば、他ニャということになるのかもしれない。
くだらないと思われるかもしれないが、猫とのニャンゲン関係も、こうしてみるとなかなかに難しいものなのだと思う。
他ニャンなのか他ニャなのかは、どうでもいいのだが、最近、他人と他者という二つの言葉が現代を表すキーワードになっているのではないかと、そんなことを考える。
他人と他者の違いが分かる?と授業で問うと、意外に分からない。
これは、例えばお母さんという存在を考えると分かりやすい。
いや、でも最近、小論文の個別指導で来ている二人の生徒に「お母さんは他人か他者かと問うたら、他人と二人ともが答えたので、高校生には、もはや微妙な問なのかもしれない。
彼ら彼女らは評論で他者という言葉にたくさん触れているので、他者は他人に対して、ちょっと格上な存在というイメージがあるらしい。
でも、お母さんは明らかに他人ではない。他人だと言ったらお母さんは悲しむだろう。お母さんは他者なのである。
他人と他者を、もうひとつ違う考え方で区別する方法は、それぞれの対義語を考えることである。
他人の対義語は大雑把に言えば身内なのだろう。家族、肉親、友人、気心のある程度知れた知り合いまで含めて、いわゆる「顔の見える関係」としての「身内」である。それ以外の人は他人。
一方の他者の対義語は自己である。自己以外のすべての人は(あるいは猫も自然も他者である)、顔が見えようが見えまいが、他者ということになる。だから、お母さんは他人ではなく他者なのである。
今、他人の対義語を身内としたが、こうした身内・他人という関係性の意識を日本人は強く持ってきた。きわめて図式的に言えば、こんなふうに説明される。
日本は島国で、しかも海と山に囲まれた狭い土地に暮らしてきた。したがって人の出入りの少ない村の暮らしは、その村の中でおおよそ完結し、境界を越えて侵入してくる者は「よそ者」として警戒された。農耕を主な営みとするため、長老の言うことに従っていれば日々の暮らしはそれなりに恙なく安定するが、そうした村の在り方に従わない者は「村八分」にされる。
陸続きで遊牧生活を営み常に「外部」との接触の中で暮らさなければならなかった民族とは違う、そういう地理的な要因がある。
更に言えば、常に対立を克服しなければならない環境で、主張や議論が重んじられた民族とは違い、日本では、年長者の言うことに従い、己を主張するよりは他との和を壊さないことが重んじられた。
一概に、そうと決めつけることもできなかろうが宜える観方かと思う。
うちとそとという感覚。日本人は長くそういう感覚の中で生きていた。今もその感覚はどこかに生きている。その通りだと日本人である読者の方々は思い当たることがあるのではないかと思う。
ただ、僕はここのところ、そうした在り方に変化が生まれてきているのではないかと思っている。
これもまたかなり遠回りな図式的説明から始めるが、お赦しいただきたい。
昭和の30年代以降の高度経済成長の中で、人々が農村から都市に労働者として流れ、村落共同体が壊れ、同時に核家族化が進行していく。
村落共同体や家族からの離脱は、ある意味では煩わしい人間関係からの「解放」でもあり、因習からの「自由」であったから、それはどんどん進行していく。東京に出ることが「自由」であった時代もあった。
折から、資本・商業主義的な価値観の風が猛烈に吹き抜けていき、今では結婚式も葬式も(おせち料理でさえ)家族や地域の手から離れ、業者が請け負うことになっているし、老後の人生も「施設」がして当然のことになっている。
僕らが子供のころは、葬式も結婚式も家で行い、地域の人が朝から総出で準備したし、親を老人ホームに入れようものなら「親を姨捨山に捨てた」と陰口をたたかれた。どちらがいいのかはわからない難しい問題だろう。
小論文を書く生徒が「老人の孤独死をどうすればよいか」などという課題に「家族の絆や地域共同体の回復」みたいなことを書いて来るが、「じゃあ、君は君の結婚式に隣の家のオジサンを呼ぶの?」「親が認知症になったら最後までオウチで面倒見る?」と聞くと、「それは考えられない」と答える。
少子化の中で人間関係に揉まれない子供の生きる力の弱さが指摘されたり、老人の孤独死のニュースが絶えなかったり・・。
そんな中で、でも、いや「だから」かもしれない。新たなつながりを求める動きが起こり始めている。
例えば「シェアハウス」・・。鬱陶しく、そこから遠ざかろうとしたはずの人間関係を新たに見ず知らずの他人と築こうとする動き。
例えば「移住」の受け入れ・・。かつてよそ者だった他人を快く受け入れ、一緒に生活を共にしようという動き。
中でも一番顕著な動きは「ボランティア」かもしれない・・。
見ず知らずの他人を何の見返りも期待せず助けに出かける。それは身内は助けても他人は・・という昔の村人的発想の枠ならありえないことだったかもしれない。あるいは、市場経済価値に染まった現代人であれば、一文の金にもならないことはやらなかったかもしれない。
こうした動きは阪神淡路大震災頃から顕著になってきた。3.11東日本大震災がそれを後押しする。最近の豪雨災害では、もはやそうしたことは当り前なこととしてある。
お互いに助け合わなければいけないという意識・・それはかつてのように「知り合い」だからでも、「金」になるからでもなく、多分それは自己と生を同じくして生きている他者への眼差しではないか・・そんな気がするのである。
他人から他者へ。期待を込めて、そうした方向へ日本人が歩み出しているのではないかと思ってみたい。
もうひとつこれを象徴するのではないかと思ったのが、ラグビー。これまであまり縁のなかったラグビーだったが、昨年行われたワールドカップの日本代表の活躍に僕も熱狂した。
ラグビーってこんなに面白くてすごいスポーツなんだと思わせてくれたし、ONE TEAMという在り方や、全力で前に進もうとする男たちの力強さに興奮した。
スポーツにおける一体感をナショナリズムの高揚として危険視する見方もそれはそれで確かなことだとは思うが、あの「日本代表」って、じゃあ日本人なのかというと、世界から集まった人たちの混成チームであって、それを「日本人」が「日本代表」として惜しみない応援を送っている・・と思ったとき、これは「新しい」感覚なのではないかと思ってみた。
ここにも他人から他者へと脱却しつつあるひとつの道筋が見えた気がしたりしたのである。
猫の話に戻れば、本ニャンは、自分は女王様・お嬢様で、我々を召使いか執事だと思っている節があり、赤ん坊のように無償の愛を強要してくる。
しかし、いれば心の和む存在であることも事実で、ニャンとなく我々夫婦の間にいる。
この猫を二人の間に置いて、カミさんという「他者」との老後をどう生きるかが目下の課題・・。
「身内である他者」とか「身内への他者意識」という考え方も大事になって来るのだろうと思う。
■土竜のひとりごと:第192話
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