国家緊急事態おさまる

やっと雪がやんで、今日から学校が再開だ。久しぶりのビー君が、朝一番でやってくる。
「歯の妖精が来て、僕、50セントもらったんだ。」
彼は我が家に入るとすぐ、うれしそうにコインを見せる。歯が抜けると、夜の間に、歯の妖精がその歯をもらって、代わりにコインを枕元に置いてくれるのだ。
「そうなの?おめでとう!お口を開けて、見せて!」
「あー」と言って彼が口を開けるのを、私がのぞき込む。
「えー?ビー君、きれいに全部の歯があるよ。」
本当に、きれいに生えそろっている。ちょっと考えてみると、3才で歯は抜け落ちるものではない事に気づく。
「歯の妖精がくれたんだ。」
彼はそう言って、50セントコインを、また、うれしそうに私に見せる。
「良かったねー、ビー君。」
扁桃腺をはらして具合いが悪かったそうだけれど、もうすっかり、いつも通りのビー君で安心だ。

幼稚園に行くまでの道は、たっぷり雪が残っている。滑りやすそうな所もあれば、足が雪に埋もれそうな所もある。数日間、国家緊急事態だっただけの事はある。
実際の所、雪が例年降る国や地域に比べたら、全然、なんという事のない雪の量だ。でも、アイルランドでは、雪が降り積もることは非常にまれであって、備えがない。社会のシステムがストップするのも、うなずける。

気のせいか、いつもは手を引かれては歩かないビー君が、所々でおとなしく、私に手をゆだねている。やっぱり滑りやすいから、自然と何かにつかまりたくなるのだろう。
「キャー!すべるよー!気を付けてー!」
叫び声を上げてうれしそうなのは、ビー君より私の方だ。

ガシガシと雪をつかむような、押しつぶすような歩きをするのが、雪の日の基本だ。子供の頃にいつも聞いていたのと同じ音を立てながら歩く。雪が踏み固められた所は、絶対に滑らないように、意識を足元に集中して、一歩一歩進む。
中学生の頃、学校近くの歩道の雪が、すっかり踏み固められ、冗談にもならないほど怖かったのを思い出す。アイススケート場の氷の上を歩くのと変わらない状態だった。すべって転んだら、起き上がることもできない。起き上がろうともがくのは必至で、そうなったら、恥ずかしいどころじゃない。想像するだけで怖かった。全身を緊張させ、そろそろと歩くしかないのだ。遅刻ギリギリで登校するのを、何度、後悔したことか。もっと早くに、同級生たちが歩いていそうな時間だったら、転んだ時に一緒に笑えるのに、一人じゃ、笑うわけにもいかないのだ。

「ビー君は先週、病気だったから、おうちの中から雪を見ていたの?外では遊べなかったでしょ?私、会いたかったな。」
「僕も会いたかったよ。でも僕は病気じゃなかったよ。毎日、幼稚園に行っていたんだ。」
彼の扁桃腺はひどい状態で、医者にも行ったと聞いている。雪のために、アイルランド中の学校は、全て、閉鎖されてもいた。
「本当に、私に会いたかった?」
「うん。会いたかったよ。」
かわいい。こんなに素直に言葉が出るなんて。大人が三才児から学んだら、この世界はもっとステキな場所になるのは間違いない。
雪道を、ビー君と一緒に音を立てながら歩くのが、楽しかった。

幼稚園に送り届けた帰り道は、いつもなら、さっそうとエクササイズを兼ねるように歩けるのに、今日はそういうわけにはいかない。大きな配達用のトラックが、何台も通り過ぎる。いつもの倍以上は見かけただろう。
配達中の郵便屋さんも、何度も見かける。
「今日から郵便もいつも通りに戻ったのね。」
「そうだよ。」
数日ぶりの配達をする人たちみんなが、使命感でうれしそうに見えた。

小さな子供をバギーに乗せて歩いている女性が、ぐしゃっとした雪に車輪をとられて、もがいている。歩道は雪だらけで通れないから、バギーを押す人たちは、今日は車道を危なっかしく使っている。それでも所々で雪の塊にはまるのは、避けられないようだ。車はゆっくり、そんな人たちをよけて走っている。
「大丈夫?まだ雪がとけるまで、時間がかかりそうね。」
「もう、バギーを動かすのが大変なのよ。」
女性は雪と格闘しながら、バギーを押して歩いて行った。

近くのコンビニに入ったら、まだ陳列棚が空っぽで、店ごと、身ぐるみはがれたような姿だった。従業員の人たちが総出で、配達されたばかりの商品を、少しづつ並べ始めていた。私は、並べられたばかりのミルクを一つつかむ。
「すごいね、これ。どの棚も空っぽね。雪で商品が配達されなかったから?」
「配達が途絶えたのと、人がどんどん買い込みをしたから、その両方でこうなったんだよ。」
オーナーらしき人が、ちょっぴり興奮気味に答える。
「今までで、こんなこと、初めてよ。」
レジの女性も笑いながら、興奮を隠しきれない。
「このお店、雪の混乱の中でも、毎日、開いていたでしょ。本当にありがたいわ。」
レジでおつりを受け取って、いつも通り「サンキュー。」と言いながら、いつもとはちょっと違うサンキューも、私は込めていた。

見かけるとは、いつも挨拶を交わしている女性が、いつものように犬の散歩をさせていた。雪の上を走る犬は、いつもにも増してうれしそうだ。
「ハロー。いやはや、この雪はちょっとした一大イベントだったわね。」
「この近くでも、電気がストップした地区があるらしいわよ。私たちの所はそんな事がなかったから、良かったわね。」
「店の棚が空っぽだったの、見た?」
「見たわよ。ワインとか、クリスプスの棚まで、空っぽだったでしょ。」
薄くしたポテトをカラッと揚げたクリスプスは、ジャガイモ好きなアイルランドでは、大人気のおやつだ。お酒のつまみでもある。あまり食べないようにしていると言いつつ、伸ばす手が止まらない人は多い。
「私の夫も、いつもはクリスプスなんて買わないのに、こんな時に、大きなバッグで買ってきたのよ。」
緊急事態では、必需品を買う以外にも、せっかくできたお休みの日をゆっくり楽しもうと、お酒やおやつを、人は買い求めるらしい。可笑しいねって、一緒に笑いあった。

雪がおさまって、日常が戻り始めた安心感と、まだ残っている興奮が入り混じる朝だ。国家緊急事態ではあったけれど、みんなが、例外なく、目の前に広がる真っ白な雪を見つめた数日は、結構悪くないなと思った。


『空の下 信じることは 生きること 2年目の秋冬』より

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