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掌編「お一人様の缶ビール」


 混み合う電車から解放されて、いまだ慣れないヒールでむくんだ足を、どうにか前へ運ばせて自宅マンションまで帰って来た。明けない梅雨の生温くじっとりと重たい風が、散々汗を掻いた肌へデコレーションするように撫で付けてゆく。気持ち悪くって仕方が無い。堪らず鼻から荒く息を吐き出す。

 エントランスで郵便受けを覘き、一番上にある投げ込みチラシ諸共一旦すべて鷲掴みに持ち帰る。一刻も早く楽になりたい。先刻から頭の中を占領しているのは、缶ビールのプルタブ起こした時の、あのカッ、プシュッと云う音だけ。もうヒールを脱いで髪を解いて缶ビールのプルタブ軽快に起こす自分しか想像できない。あのプシュッ、を聞くためだけに生きていると云って過言でないとまで思う。三階まで無心で階段を使い、他人の部屋の前をこつこつ歩いて数メートル、自宅の玄関までまっしぐら。ほんとは五階以上に住みたかったけれど、いざ暮らし始めてみると三階で良かったと思った。だって二階分も早く家に着くから。

 自分の至って単純な所を心の内で笑いながら鍵を回して、飛び込む勢いで家へ入った。
「はーただいまあー」
 誰も居ない暗がりへ、帰宅の安堵を一息に、存分に吐き出す。一方的だけれど、何となくいつも帰宅を告げる。おそらく自分を安心させる儀式の一つなのだ。暗に自分の領域(テリトリー)を主張しているのだろうとも思う。四方を壁に囲まれて、もう誰へ気兼ねすることもなく、ありのままの自分を振る舞って構わないと云う合図のようでもあった。

 冷蔵庫で冷えたのが待っていると、スリッパを引っ掛けて流動的に洗面を済まし、引き寄せられるように小さなキッチンへ足を運ぶ。一人暮らしを始めた時からの相棒の扉を開けると、すかさず灯された仄かな明かりの下、待ち侘びた黄金色の缶を一本取り出す。第三のとか、値段の手ごろなのも冷えている。確かにいつもはそうだけど、週末の金曜日だけはこのご褒美缶と決めている。眩しいゴールドが至高の味を予感させる。喉が鳴る。脳味噌が燥ぎ出す。遂にプルタブに手を掛けて、
 プシュッ
 と一息に開ける。すぐさま口をつける。ごくん、ごくんと全身から小気味良い音を立てて、社会から束の間の、離脱。ままごとみたいなキッチンへ立ったまま、呷る、呷る。喉をみるみる爽快に通り過ぎて行く冷たい液体。幸せ過ぎて動けない。

 あんな苦い飲み物の何が美味しいと云うんだろう、大人って変なの。なんて半分以上は馬鹿にしていた小学校四年生の自分を、反対に今の私が笑っている。変なの。

「っはああーうまいっ」
 訳もなくそう言いたくなる。訳なんている訳が無い。只々喉越しのしゅわしゅわと気持ちよく駆け抜けていったのを殊更に強調したくなるのだ。立て続けに呷りながら、部屋の電気さえ点けていなかった事に気が付き、飲み歩きながら壁のスイッチを漸く入れる。こんなお行儀の悪いところ、両親が見れば嘆くかしら。と思った直後にふんと鼻が笑った。学生時代も部活でくたくたになって帰宅しては、ペットボトルジュースだの麦茶だのを、立ったままぐびぐび呷っていたのだった。屹度この出で立ちだわと思う。ストッキングにタイトスカートの自分を見下ろす。妙に大人ぶって、だから変に気取ってしまうのだ。社会では、背伸びも時には必要で、そんな自分も悪くないとは思う。
「飲み終わっちゃった」
 流しへ空き缶持って行き、中を水で濯ぐ。虫は小さいのも嫌いだから、こんな所はまめである。水切りの為暫く流しで引っ繰り返しておく。顔を上げて、暫し思案する。うんと頷く。何かを飲み込み、何かを納得させ、何かに同意した所である。
「もう一本、今日は良い事にしよう」

 そんな自分も悪くはないけれど、世界にたった一人、自分だけの時間に居る時は、社会や倫理を置き去りに、思うままに振る舞って、ありたけ自分を解放してもいい、どうせなら脱ぎ散らかしてしまえ、と思う。
 カ、プシュッ

 良い音がした。今度は大事に飲もう。座りかけて、不意に実家から送られてきた辛子明太子がまだ残っていたのを思い出す。あれを少し炙って食べよう。絶対合うに決まっている。缶を持って移動する。そうしながら、どうせなら二本目は風呂上りにすれば良かったとちらり思う。思って自分で否定する。いいじゃない、順番なんてどうでも。

 嗚呼、週末の夜は長い。浮かれたスリッパが軽快に床を跳ねた。

                          おしまい


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