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「KIGEN」第七十回


   
   九章 「再生」

 基源に暴行疑惑ありとして相撲協会へ匿名でタレコミがあったのは翌日のことで、情報化社会の凄まじさが端的に表れた形だ。垣内部屋で親方に事情を聞かれて、基源はありのままを落ち着いて答えた。親方の後ろにはおかみさんも控えていた。いつも明るく気丈なおかみさんの顔が、事態の行く末を案じるように心細げに曇っているのが、基源の目に痛く刺さった。

 街中で見知らぬ男たちに言いがかりをつけられたこと。言葉で説明しようとしたこと。それを奏に止められた事。それで奏と言い争いになった事。奏に胸ぐらを掴まれて、思わず突き飛ばした事。奏に怪我はなかった事。仲直りした事。それで全てだった。

「その、最初に突っかかって来た男たちは?」
「分かりません、気付いた時には居ませんでした」
「そうか」
「腸が煮えくり返る程腹が立ちましたが、彼等には一切手を出していません」
「そうか」
 侮辱的な発言をされたとしても、結果的に無関係であるのならば問題はそこではないのだ。
「だがなあ・・」


 事情の全体像を無視して、切り取られた一場面の写真だけを見ると、地面へ尻餅をついた奏と、それを見下ろす基源が向かい合って立っている。そういう構図なのである。送られて来た写真はスマートフォンで撮影したもので、誰が撮ったか不明だった。だが送り主はこの事実を週刊誌にも知らせるとわざわざ書き添えて来た。人類を守る為なのだとも書いてあった。要するにAIである基源を未だ敵視する人間が送って来たらしい。

「私が悪いんです。冷静に分析しながらの言動のつもりが、いつの間にか行き過ぎた行為になってしまいました。申し訳ありません」
「だが奏くんに怪我は無かったんだから、ただの痴話喧嘩だろう」
「そうですが・・街中でした」
「そうなんだよな、場所が悪い。野次馬はたくさん居たんだろうな」
「よく覚えていませんが、おそらく」

 垣内親方は唸りながら腕を組んで目を瞑った。ここまで基源が一日たりとも怠けることなく稽古を積んで相撲道を真面目に歩いて来たのは、自分含め部屋中の人間が知る処である。理事会からも、近頃は横審からもちらほら基源について声を掛けられる機会が増えて来たところだった。誰もが弟子の努力を認め、激励し、今後の活躍に期待を寄せている証拠だった。そんなタイミングで、例え誇張された記事だったとしても人に手を出したのは事実で、その背景を当事者が説明しても、事の詳細が正しく世間へ認識されるのは難しいだろう。

「軽率でした。本当に申し訳ありません。親方、おかみさん、暫くご迷惑をお掛け致します。私はどんな処分も受け入れます。例え部屋を破門されても―」
「駄目だ。そんなことはさせん。これはそんな暴力事件とは違う。協会には俺も一緒に行く事に決まっている。行ってきちんと説明する。その上で公正な処分をきっちり受け入れればいいんだ。自分から辞めるなんて口にするな。絶対だ。お前の相撲人生はまだ終わっていない。こんなところで終わらせて堪るか。そうだろう、基源」
 親方の熱の籠った言葉に、胸がいっぱいになった。基源は床へ額が付く程頭を下げた。
「申し訳ございませんっ」


「基源、謹慎処分!!角界に激震!・・・・・幕内前頭十一枚目の基源は、今度の暴行疑惑事件について審議会にかけられた結果、三場所休場処分が科せられた。理事長の話によると、本人らに行った事情聴取で、今回の騒動は痴話喧嘩であったと結論付けられ、実際に怪我を負わせた事実はない事が証明されたそうだ。だが例え身内であろうとも一般人に手を上げた事実がある以上、暴力の一切を排除すると決めている相撲協会は、これを許す事はできないという方針だ。協議の結果、過去の事例に倣って厳しい処分を決定したという。基源はこれで幕下転落が確実となった。角界追放まではされなかった基源だが、今後も力士を続けるのかどうかは、既に謹慎期間に入っており何も語られていない。これまで愚直に相撲一筋で歩んで来た若い力士であるだけに、角界にとっても本人にとっても大きな痛手である。処分はきっちり受けますと答えたそうだが、いち相撲ファンとしても大変残念な事件であり。また彼の心中が気になる処である」


 過熱気味だった報道は、相撲協会の正式な発表によってようやく沈静化した。だがネット上では話の真偽よりも、尾鰭が付いたり脚色が好き勝手されたものがずるずると引き延ばされ騒がれていた。

「やっぱりな、そら見ろ」
「あろうことか生みの親に手を上げた」
「基源は危険」
「AIは理性で意図的に暴走する」
「共存を脅迫するのがAIの使命」
「人類は脅かされる一方」
「K氏は体を張ってこうした実験を長年繰り返して来たらしい。まさに命懸け」

 見兼ねた第三者が擁護する意見を出すと、そこに畳みかける別の誰かがいる。その繰り返しだった。ネット社会が普及して随分時間が経つが、規制強化は相も変わらず現状に追い着いていない。誹謗中傷の闇は常態化している。巻き込まれた人間が身を守るには、不要な情報社会をいち時期でも遮断して暮らすことだ。


 基源からAIを切り離す事は技術的には可能だが、人間的思考とのバランスが崩れる懸念があった為、生命維持に必要なプログラムとそれ以外に振り分けて情報収集を制限し、謹慎期間を過ごす事にした。これで不用意に誹謗中傷に触れる心配は無くなった。


 基源は垣内部屋の中では、これまでと変わらず笑顔も見せて穏やかに過ごした。土俵へ上がることは出来ないが、基礎稽古を欠かさず行い、筋力トレーニングも精力的に行った。十両以下の弟弟子らが担う雑用も、彼等に混じって行った。体を動かしている方が気が楽だから気にせず一緒にやらせてくれと言って、恐縮する弟弟子らを巻き込んで手を動かした。だが人気のない時は恐ろしく静かだった。どう生きれば良いかと迷う程に気が塞がる。しかしそれを口に出すのは自分のわがままだと考える。胸の内に押し寄せる虚無感や不安を誰に打ち明ければ良いのか分からなかった。基源は今、かつて嵌った事の無い暗い渦の中に居た。そして、そんな彼の闇に気付かぬ親方とおかみさんではなかった。


第七十一回に続くー


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