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「山の達人」

四月の話だ

JR柏原駅から鈴鹿山脈の一峰である、霊仙山へ登った。当初は醒ヶ井駅からの登山を計画していたけれど、林道で土砂崩れがあり、ルートを変更して登山可能な日を待つ事にした。

ようやく天候と休日が噛み合い迎えた登山日。
駅から今日も一人黙々と歩いていると、後方から熊除けの鈴の音が聞こえてくる。自分のぶら下げているおまけみたいなのではなく、ちゃんと良い具合に響く鈴。
それが少しずつ近付いてくる。ああこれは、自分より歩くペースの速い人だな。直追い抜いて行かれるだろう。ここは道がまだ広いから、取り敢えず歩いてたらいいかなと思った。

案の定距離は縮まり、追い抜かれる前に挨拶を交わした。
それがきっかけで、ここはヒルがもう出るかなとちらり質問された。自分が登山に使っているヤマレコというアプリの山行記録を読んだ限りでは、まだ出なかったということだったので、ここは初めてなのでわかりませんが、昨日登った人の話ですとまだ出ないようです。とありのままをお答えした。
すると、帰りはこの辺りは出るかな・・・と仰る。

自分は登山初心者なので、こうして山行中に行き会った先輩方がぽんっと教えて下さる話を毎回登山の学習にしている。
「ありがとうございます」と口にした。気温も上がるしこの湿度だものな、油断大敵だと肝に銘じる。

みるみる遠ざかる先輩の背中。足運びが身軽で、なんだか重力を感じさせない。今日は体が重いなと思いながら力任せに進もうとする自分とは大違いなのだ。

だから、先輩の背中はあっという間に見えなくなるはずだった。

ところが、付かず離れず、初めて霊仙にやってきた自分が困らない程度に、先輩の背中が完全には消え去らないのだ。雨が多かったからか、雪解け水なのか分からないが、足場の悪い林道で、元々渡渉箇所があるのは知っていたけれど、それ以外にもちょろちょろ水が流れていて滑りやすく、泥濘だらけの道だった。ここを渡って良いものか、右か左か、初心者だけに確認が必要で、慎重を期する場面の連続だった。しかしそういう場面や、登山道の分岐地点では、先輩の姿がしっかり視界圏内にあって、ちらっとこちらを振り返られる。何も仰らない。私は頷く。先輩は進んで行かれる。

そんな具合の登山が、三合目まで続いた。三合目の標識の前で汗を拭いておられた先輩は、自分が追い付くと、
暑い。と。
暑いですね。 
この会話を最後に先輩は本来のペースで歩き出され、あっという間に見えなくなった。

重力が、あそこだけないんじゃないかな――

本当にそう思った。どれだけ歩いたらあんな風に肩の力を抜いて登れるんだろう。

きっと最初の会話で・・いや、後ろから歩く姿を見ておられただろうから、或いは初めから、自分が山の初心者だと気付かれて、三合目まで様子を見て下さったんだと思う。登山中、無暗に話しかけられるとルートを間違えたり標識を見落としてしまって怪我や道迷いに繋がる。実際にそんな経験もした自分は、こんなふうに程よい距離を保ちながら背中で教えて下さったことが貴重な経験で、ありがたかった。嬉しかった。

一人だけど、一人じゃない。山での出会いは一期一会。そんな時間を大切に、また山を歩きたいと思う。

山の大先輩、その節は大変お世話になりました。ありがとうございました。

あの人はきっと、山の達人

こういった場所が渡渉箇所


山頂付近 標高1000m越えは世界が変わる


お山の天気は目まぐるしく変わる



                          文・いち


※これは ヤマレコアプリにて公開した日記をもとに書き下ろしたエッセイです

お読み頂きありがとうございます。「あなたに届け物語」お楽しみ頂けたなら幸いにございます。