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「KIGEN」第四十九回




「おじいは横綱にまで登り詰めた立派な方です。そんな冗談で私をからかわないで下さいよ」

「冗談じゃないって。じゃあなんで親方になってないんだよ。立派な人間なら、今頃一門を背負って立つ親方でもおかしくないだろ?それがあんな田舎で暮らしてんだぜ、おかしいだろ」

 力を入れる程に泡が弾けて、ごしごしと擦る音が浴室内へこだまする。泡立ちが良くてスポンジを握る自分の拳も段々見えなくなって来る。立ち昇る爽やかなレモンの香りが不釣り合いだ。

「お前ちゃんと聞いた事無いのか?なんで相撲辞めたんですかって」

 古い風呂場だが日々の掃除の賜物か、床も壁も清潔に保たれている。ただ浴槽の一部が欠けているのは気になるな、誰が何をぶつけたんだろうと思う。黙々と手を動かしているが、さっきから同じ場所を擦っている。そこに擦っても擦っても取れないシミがあるのだ。泡立てて、力任せにごしごしやるが、全く消えそうにない。しつこい汚れだ。

「おい、何とか言えよ、お前なら話してくれんじゃないか、相撲辞めた本当の理由を。まあ、辞めさせられたんだろうけどな。うわあっ」

 いちごうがいきなり立ち上がった為、傍へしゃがんでいた兄弟子は圧を受けて尻餅をついた。

「何だよ」

 下から睨みつける兄弟子を置き去りにして、いちごうは風呂場を飛び出した。


 サンダルのまま夜を駆けた。一歩駆け出すごとに、まくり上げていたジャージの裾が乱れて落ちて来る。両手に泡がついたままで、走りながら気が付いてTシャツで拭く。ほんの少し走っただけで汗が滲んだ。蒸し暑い夜が、ひたすら走り続けるいちごうへレモンの残り香と共に纏わりついて、しばらく離れそうになかった。


「おじい!」

 夜遅くにいきなりやって来たと思えば、廊下を突き進みながら源三郎を呼ぶ。カエデさんがどうしたんだと聞いても答えないで、ひたすらおじいを探した。他の誰でもなく、おじいの口から直接聞かなければならないと思った。

「おじい!何処に居るの!?おじいー」

 とうとうおじいが普段過ごす四畳半の居室の前までやって来た。襖は半分開いており、いちごうは部屋の前で声を掛ける。

「騒々しいな」

「おじい、お話があります、入っても良いですか」

 待ち切れない右足が敷居を跨いで畳に一歩踏み込んでいる。源三郎はいちごうの粗相を注意する気も失せて、ふんと鼻を鳴らすと仕方なくいちごうを招き入れた。電燈の下へ出て来たいちごうは、額に大粒の汗を浮かべていた。整える暇さえ惜しんだか、まだ肩で息をしている。源三郎に座るよう促されて、いちごうは一つ頷くと、大人しく膝を折った。立て続けに深呼吸する内、どうにか息が整ってきた。いちごうのただならぬ様子を心配したカエデさんは廊下を追いかけて来たが、彼が部屋に招き入れられたのを見届けてから一度台所へ引き取った。冷たい麦茶と源三郎のお茶を急須に用意して再び四畳半を訪ねようとした時には、襖の向こうでいちごうが興奮気味に質問を重ねていた。

「私はおじいの弟子です。相撲部屋から悉くことごとく爪弾きにされた私に相撲の基礎と、相撲道の神髄を教えて下さったのはおじいです。おじいには心から感謝していますし、信頼しています。ですが今日、兄弟子から思い掛けない事を言われました。私にはとても信じられない話でした。けれど部屋を持たずに引退しているおじいの事が謎でもあったんです。私は人工知能ですから外から情報を得ることは容易い事です。でもおじいの口から直接真実が知りたいのです。真実が知りたくて、今夜走って来ました」

「――そうか。だがとんだ無駄骨だったな。話すことは無い。今すぐ部屋へ帰れ」

「おじい!何故です!不正な拳は良くない、暴力は最低な行為だと説いたのはおじいなのに、おじいは力で人を傷付けたの?!本当に他所の部屋の親方を殴ったの?!」

 いちごうが言い募った時、居室の襖がさっと引き開けられた。お茶の盆を持ったままのカエデさんが立っていた。

「いちごう!一方的な感情はよくないよ。あんたの目におじいはどう映ってるの?」

「カエデさん・・・」

 源三郎に食らいつく勢いで迫っていたいちごうは、第三の目が登場した事で冷静さを取り戻し、熱を上げて己の感情のままに発言した事を謝罪した。向かいでいちごうが取り乱しても、カエデさんが登場しても、源三郎は口を閉じ目を閉じて貝になっていた。二人の間へ挟まる御膳へそれぞれのお茶を用意したカエデさんは、源三郎へ膝を向けた。

「きちんと話してやったらどうですか。いちごうはおじいを慕ってここまで走って来たんですって。たった一人の弟子だもの、大切にしても損は無いわ。ねえ?」

 と言っていちごうに茶目っ気な視線を送る。いちごうはだがたった今一喝されたばかりだから神妙な顔で首を縦に振って待つ。手を膝頭に置いて、耳で聞く壁時計の秒針が世界を細やかに刻んでゆくのを数えている。それでも目線は正直に源三郎へ注がれている。段々前へ傾ぐ体が気持ちを代弁していて分かりやすい。聞きたくて堪らない気持ちを隠しきれない若者の視線を浴びせられ続けて、源三郎はふんと鼻を鳴らし腕を組んだ。カエデさんはお盆を抱いたまま襖の傍へ正座して、この顛末を見届けるつもりだ。出入り口を塞がれて最早逃げることもできなくなった源三郎は、微笑みを絶やさず知らん顔のカエデさんを第二の目で恨めし気に見て、もう一度ふんと鼻を鳴らした。



 ―源三郎は三十九歳になっていた。中卒で始まった相撲人生を横綱迄上り詰めて、三十八歳十一か月で引退した。横綱在位三十一場所。決して早咲きの優等生ではなかった。だが着実に突き進んだ相撲道だった。力士にしては小柄だったが体格差は負けん気の強さで跳ね飛ばし、技を磨いた。御蔭で四つに組めば敵なしとまで言われ、実際技の繰り出しが上手かった。横綱大航海が土俵上でがっぷり四つに組むと、待ってましたと館内が沸く。当時三人居た横綱の中でも人気が高く、ケガが元で引退を余儀なくされた時も、惜しまれつつ土俵を降りた。順風満帆に現役を終え、何度も囁かれながら周囲を煙に巻いて来た源三郎も、未来を見据えてそろそろ所帯を持つだろうと期待されていた。そしてこれからは親方として後進の育成と相撲界の発展に貢献してくれる筈との期待も大きかった。理事会入りなど既に決定事項も同然のような空気が相撲協会にはあった。

 源三郎の人生が暗転したのはそんな時だった。


第五十回に続くー


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