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「KIGEN」第五十四回



 真っ直ぐJAXAの研究所へ行ければ良かったが、先日の会見の中で理事の十勝がJAXAとの関係性を一旦はぐらかした為、古都吹家に一度向かってから渉の車でJAXAへ行く、二段階移動に決めてある。十勝の真意は周囲に不明のままだったが、もしもあの場でJAXAの関わり迄明らかになっていたら、今よりもっと面倒なマスコミ対応を迫られていたかも知れない。「取り敢えず助かった」というのが周囲の見解だった。

 慣れない集団生活を軸に、何事もひた向きに、真摯な姿勢で取り組むいちごうの姿に、一旦臍曲げた兄弟子たちもまた少しずつ態度を和らげて、他の弟弟子と区別なく関わる様になっていった。それでもいつまでもいちごうのみ理不尽な扱いをする兄弟子には、更に上の兄弟子が庇い立ててくれた。親方も案外いちごうを気に掛けて、口の不愛想なのは変わらなかったが、他の弟子たちと同様に指導にあたってくれた。

 周囲の理解を徐々に得て、他の弟子たちと同じように相撲道を進んでいくかに思えたいちごうだが、その生活ぶりをつぶさに見ている訳ではない世間にとって、彼はいまだにAIを伴った未知なる存在であり、土俵へ立たせることへの懸念が強く残されていた。その影響で、いちごうのみ、三月場所の新弟子検査で合格したにも関わらず、従来通り三月場所で前相撲を取ることは叶わなかった。落ち込まなかったと言えば嘘になるが、協会は引き続きいちごうへの理解を得られるよう、理事長の定例会見や巡業で談話を発表する等して活動を続けた。そうする内、いちごうの角界入りを疑問視する声は徐々に減り、遂に五月場所で前相撲を取る事になった。


 協会からの通達として親方の口から一報を聞いたいちごうは、場に居合わせた兄弟弟子たちと喜びを分かち合った。

「師匠、本当ですか!?私は、土俵に上がる事が出来るんですか」

「冗談言ってどうする。なあ有馬」

「はい。師匠は相撲には正直な方だから。いちごう、良かったな」

「はい!とっても、とっても嬉しいです。有馬兄さんありがとうございます」

「おい、相撲にはとはなんだ、師匠に向かって」

 いちごうおめでとう。弟子たちが口々に発する祝福の言葉に、垣内親方の愚痴はかき消された。

「二つ勝って一番出世決めてこい」

「はい!」

 与えられた使命は一つ、相撲に勝つ事。いちごうは稽古で培った足腰を武器に、そして親方はじめ部屋の兄弟たちの激励をプレッシャーどころか心強さに変えて前相撲に挑んだ。その結果――

「勝った、あなた、いちごうが勝ったわよ」

 客席から見るなんてとんでもない、負けるかも知れないのに。と先ず否定から入る奏の母智恵美は、一旦拒否しながら結局渉と奏と共に会場入りし、客席からいちごうの土俵デビューを見守った。いちごうが相手に向かってどんとぶつかった時、小さく悲鳴を上げて周囲を驚かせたが、押し出しを決めると人一倍手を叩いで喜んだ。隣で奏も拍手と声援を送る。鼻を啜る渉に顔向けて、苦笑した。

「父さん、早いよ」

「分かってる、分かってるけど奏、やっとデビュー出来たんだよ。うちのいちごうがやっとデビューしたんだ。早過ぎるんだけど、今日までのいちごうの苦労を思うとさ、出て来ちゃうんだ。弱ったな」

 智恵美がハンドバックからハンカチを出して渡してやると、渉は手荒く目元を拭って上を向いた。

 いちごうはこの日二番取って二勝し、親方の指令通り一番出世を決めて部屋へ帰った。出迎えてくれた兄弟弟子と女将さんの笑顔が、いちごうの目に色濃く焼き付いた。

 元はガラス製だったいちごうの瞳だが、血管の巡る体内において、人と同じ瞳が形成されるのは必然だった。或る夜眼窩に違和感を覚えたいちごうは奏にすぐさま異常を訴え、夜の内に緊急手術を受けた。包帯で閉ざされたいちごうの目は、翌朝になると人の目に進化を終えていた。硝子体から水晶体、角膜、それに外眼筋と呼ばれる六つの細やかな筋肉も整い、それらを支配する神経に至るまでが見事な出来栄えだった。これには執刀医もチームの研究員たちも驚きを隠せなかった。いちごうはその瞳で視力検査を受けて、両目共に一・五以上を貰い喜んだ。

 生まれ変わった瞳で見る世界はより鮮やかで、麗しく、現実的で、泥臭く、混濁したり、研ぎ澄まされたりして、知識よりも繊細だった。美しいばかりではないこの世という世界。入門前にそんな世界を手に入れた自分を幸運であると思った。素晴らしき瞳の御蔭で、目の前の光景は自分次第、目を背けなければありのまま熱を持って体の中へ注ぎこまれてゆく。脳に刻まれるものが重厚である程に、内々の喜びは何百倍にもなって己の心へ反響した。「豊かさ」というのは、これではないだろうかといちごうは思うのだった。


 稽古で培った物を存分に発揮して溌剌とした相撲を取り一番出世を決めたいちごう。翌場所に行われる新序出世披露を前に、待望の四股名が付けられた。呼ばれて垣内親方の前へ出て行くと、今日から「基源一剛だ」と言われた。基源、名前に源の字が入っている。

「それが私の名前ですか」

「そうだ」

「ありがとうございます」

 奏の与えてくれたいちごうを残してくれた。そこに漢字が付いた。そして源の字。毛筆で書かれた新たな名を手元でしみじみ眺めているいちごう、改め、基源であるが、はにかむ頬の端から、一抹の寂しさが滲み出すようだ。垣内親方は現役時代・元横綱源海であったから、そこから一字与えて貰ったのだろう。師匠の名から一字貰えるなんて光栄な事だ。

「ありがとうございます」

 手元へ視線を落としたまま、もう一度礼が零れる。親方は見兼ねて咳払いした。


第五十五回に続くー


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