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「KIGEN」第五十五回



「同じだよ。源さんも基源きげんも、先代の名から一字貰ってるんだ。俺の場合は少し特殊なもらい方をしたがな」

「え?」

「その四股名しこなは源さんと俺とで知恵を絞って考えたんだよ」

「親方!ありがとうございます」

「いや、ええとな、黙っとけって言われたけど、実は源さんが漢字と響きを考えて付けてくれたんだ。俺は提案に賛成しただけだ」

「はいっ。それじゃちょっと御礼を伝えに行ってきます!」

 バネでも仕込んでいるようにくるんと向きを変えた途端弾むように走り出した基源を慌てて呼び止める。

「やめろやめろ。近所じゃないんだから。せめてこっちにしておけ」

 親方は耳に手を当てて電話の真似をした。基源は又弾むように引き返して来てはいと快活に返事した。これでまた源三郎に叱られるなと覚悟した垣内親方は、四股名を胸に御機嫌な基源を横目に、いまだにごつごつとして肉刺まめの並ぶ手で顔から頭を手荒く擦った。


「ねえかなた、私はもういちごうじゃない?」

 メンテナンスの為に合流した奏へ四股名を披露した基源が尋ねた。奏はどことなく心細さを含んだ声の主を見た。目が合うと、まるで子どもに抱っこをせがまれている気分がした。もしも自分に弟がいたらこんな体験をするんだろうか。思わず笑みが零れる。

基源一剛きげんいちごうだから、いちごうもちゃんと入ってるじゃない」

「・・・そうか」

「それにね、きげんは、起源とも関係してるんじゃないかな。物事の始まり。つまりいちごうと同じ意味だよ。全ての基となり、源であり、はじまりの人。基源に新たなる歴史を紡いで欲しい。源三郎さんたちはそんな願いを込めたんじゃない?」

「うん、女将さんも同じような説明をしてくれた」

 奏はそうでしょうという具合に頷いて笑った。

「立派な四股名を付けて貰って、君はもう誰に遠慮する事無く、堂々と力士だって言えるんだ。夢の一歩を踏み出して、僕は君を本当に尊敬するよ。でもね、僕にとってはいちごうだよ。たとえ相撲の道を突き進む基源であっても、いちごうはいちごうだよ。忘れないで」

「奏」

 基源は奏と肩を並べた。

「背伸びたね」

 言われて始めて気が付く。知らぬ間に二人の身長差が縮まっている。嬉しそうな奏を見て基源もにっと歯を見せた。立派な歯が並んでいる。

「よし。もう子どもはおしまい。ここから先は基源として相撲道を猛進する」

 奏は身長差以上に彼の大きさを感じていた。自ら道を決めて、努力を惜しまずどんどん世界を広げていく。それが嬉しい反面、自分だけ取り残されはしないかという心細さもある。寂しいと言えば寂しい。でも。

「頑張れ」

 それでも精一杯背中を押したい。その想いが何にも勝る正直な気持ちだった。



 いちごうが角界入りを決めて相撲人生を歩み進める一方で、進学した奏の高校生活が怒涛の勢いで過ぎ去ってゆく。空に重たい灰色の雲が乗っかっていると思えば梅雨入りしていた。古都吹家の慎ましやかな庭の内で一番見事な咲きっぷりを見せるのが、一株だけの紫陽花だ。雨を乞うように広げた葉の表へ、天の恵みが粒を落として鮮やかだ。この雨を冒してやって来た矢留世やるせ三河みかわは、リビングで奏と向かい合ってソファへ座るなり、早速本題に入った。

「奏くん、今日は君にお願いがあって来たんだ」

 差し出されたのは一通の書状だった。A4版の普通のコピー用紙だが、JAXAのロゴが印字されている。奏は受け取って手元で文字を追い掛けた。飛び込んで来たのは、古都吹奏へのJAXA特別研究員就任要請だった。これまでチームの一員に名を連ねていると言っても契約が交わされたわけではなく、ただの肩書に過ぎなかった。だがいちごうを世に生み出したのは奏で、彼のロボット工学における知識とセンスは卓越したものがあることは周知の事実だ。いちごうの身に起きたことがレアケースだったとしても、基盤となるAIロボのいちごうが誕生しなければ、運命の歯車は噛み合わなかった。生みの親である奏の存在は研究の継続に欠かせない。これは要請というより勧誘に近かった。

 奏は未成年である為、契約交渉には父の渉が同席した。正式な所属は、JAXAの生態系本部・通称JAXAe-syの特別研究員で、矢留世や三河など、現チームの人員も多数所属している部である。合言葉は、

「地球の隅々から宇宙まで、生きとし生けるもの全ての命を守る部門」。

 そこに人工知能ロボの生命も含めて考える本部の理念が、奏に面白かった。奏は快く要請を受け入れた。


 こうして現役高校生兼JAXAe-sy所属の特別研究員として、引き続き基源いちごうのバックアップ、メンテナンス、システムの向上を担い、更にはこれまでに培ってきたロボット研究の知識をチームと共にまとめ、JAXAと共有し、今後のAIと人工知能ロボットの開発、宇宙開発に役立つ研究を継続することが彼の役目となった。

 正式契約を結んだ夜、奏は一人ガレージの研究所を訪れた。その全ての始まりを迎えた作業台にそっと手を触れる。外はまた雨が降りだした。明日も傘が手放せないんだろう。制服のズボンの裾が汚れると母さんの小言が続く。そっか、母さんの手を煩わせなくても雨土で汚れた衣服が奇麗になるマシンを作ればいいのか。

「・・・衣服手洗いロボット」

 呟いてみてふっと笑った。ネーミングセンスがなさすぎる。いちごうの名も実は思い付かなかった代わりのいちごうだった。奏はスリッパを翻して自室へと引き上げて行った。雨はさあさあと降り続く。屋根を打ち、樋を伝い、いつまでも優しく耳に響いた。

 後日基源に電話で報告を入れると、音声が割れる程の大声でおめでとうと叫ばれて、奏は一瞬耳がどうかしたかと思った。「夢に又一歩近付いたね」「お互い頑張ろうね」と基源は喜びを露わにして通話を終えた。


第五十六回に続くー


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ようこそいち書房へ。長編小説はお手元へとって御自分のペースでお読み頂きたく思います。

「AI×隕石×大相撲」 三つの歯車が噛み合ったとき、世界に新しい風が吹きました。 それは一つの命だったのか。それとももっと他に、相応しいも…

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