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「KIGEN」第五十八回
大相撲は年に六場所行われる。そして合間の期間で巡業といって、全国へ出向いては土俵を作り、地方興行が催されるのが一年の大まかな流れだ。
日々稽古を積み励んで来た基源は、序の口で挑んだ七月場所で見事七戦全勝優勝を決めて序二段へ上がっていた。九月場所でも七つ白星を並べれば優勝決定戦でも無い限り順当に上へ上がる事が出来る。
基源は今場所も初日から気合十分で、立ち合いも怯むことなく真正面から相手に向かっていった。どんと体当たりした時の衝撃に負けじとぐっと腰を落とす。おじいの四股を思い出して、自らで体現する。足腰が安定していれば当たり負けしない。相手の勢いを殺せば、後は止まらず足を動かして土俵外まで押し出していくのみ。途中で相手が諦めて力を抜く事もあり、そんな場合は駄目押しにならないよう注意が必要だが、反対に油断して転がされないように気を付けなくてはいけない。前にそれで基源の方も力を抜きかけて、上手投げを喰らいそうになった事がある。その日は親方に叱られた。相手が土俵を割るまで手を緩めるな。いつだって挑戦者の気持ちで厳かにいけ。心が調子に乗るから油断するんだとぴしゃり言われ、すっかり反省して教訓を頭に叩き込んだ。同じ失敗はしない。毎日そう心に決めて会場入りする。
九月場所四日目となった。実はデビューとなった五月場所でも全勝していた基源だが、同じく全勝で並んだ力士が居た為に優勝決定戦が組まれた。そこで基源は惜敗した為一場所で序二段へ上がれなかったという経験があった。四日目の取組相手はその一足先に序二段へ上がった力士だった。基源と同じく既に四股名を名乗る力士で、天秀峰と言う。部屋の兄弟子たちからはあいつはきっとライバルになると言われている。全国高校生相撲のチャンピオンだそうだ。入門も同時期らしいが、基源は中卒で角界入りした為歳は向こうが上だ。
「勝って来いよ」
兄弟子たちの激励を受けて、気合十分で土俵へ上がった。仕切の前に目が合うと、天秀峰の黒目は燃えているのかと見紛う程赤い。怯んだ。だが打ち消した。そんな自分は自分じゃないとすぐさま打ち消して仕切線に手を着いた。負けたくない思いに必死になった基源は理性に欠けた。組み合って、互角に見えたが相手の手の位置が絶妙だった。基源はまわしを掴んで離すものかと腕に力を込めたが、気付くと体が動かされていた。足で粘り、まわしから手を離さないでいたが、体は浮き上がる。傾いで、片足で粘って、耐えようと思った矢先に、目の前に土俵が見えた。
基源は顔面から土俵へ飛び込むような形で転がされて負けた。先場所では当たらなかった。だから五月場所と続けて二度負けた。鼻血を流しながらおでこへ瘤を作りながら花道を下がって、兄弟子の姿が見えると悔し涙が加わった。勝ちたかった。痛かった。負けたくなかった。悔しかった。そうだ、何よりも悔しくて悔しくて、悔しかった。
「基源、鼻血を――」
拭けよ。とティッシュを渡してくれようとした兄弟子の腕を払い除けた。そのまま土まみれの手で自分の目元を隠して擦った。汚れた腕に赤迄混ざって涙で伸ばされて、何が何だかぐちゃぐちゃの顔で引き上げた。払い除けたのにいつの間にか背中に当てられていた手のひらが温かくて余計に泣いた。
自らの出した鼻血に観客がどよめいているとは全く気がつかなかった。
明らかに、稚拙に、容赦なく、機嫌斜めだった。零れたしょっぱいのが落ち着くと、今度は自分の不甲斐なさに腹が立った。しかしそれを言葉で表すのは無様な気がして黙っていると、落ち込んでいると思うのかやたらと声が掛かる。心配してくれているのかも知れないが、同情されるのは嫌で、分かった様な口を利かれても癪に障る。結局どう触れられても今の基源は受け入れられないのだ。相撲のことなど考えたくなくて、部屋の弟子たちと顔突き合わせているのも苦痛で、食事の後片付けもそこそこに立ち去ろうとした時、後ろから追い掛けて来た兄弟子の一人が基源を呼び止めた。
「あんまり引き摺る事無いからな。最後まで粘ったんだ、顔の傷なら誇りに思えばいい」
思いやりだった。やるべき事を投げだして行こうとする基源を怒るでもなく、単純に今日の取組を褒めてくれたのだ。だからめげるなと励ましてくれたのだ。だが基源はふんっと鼻で笑って、事もあろうに兄弟子に向かって生意気な口の利き方をした。
「あなたに何が分かるんですかっ!」
「止めなさいっ」
これから自分の言い分を募ろうとした時、兄弟子の後ろからおかみさんが小走りにやって来て一喝した。兄弟子を労うように腕へ軽く触れて、食事場所へ戻る様に指導すると、三角にした目を基源に向けた。内心慄いて、しかし意地になって口をへの字にしていると、案の定叱られた。
「基源、子どもみたいにいつまでも引き摺るんじゃありません。親方が今日の取組であなたを叱ったりした?何も言わなかったでしょ。兄さんが言ってくれた通りよ。あなたは今日負けたわ。でも最後まで勝ちを諦めなかった。勝機を探ってまわしから手を離さなかった。ケガを恐れるより勝ちへの執念を見せた。親方はそれを評価しているの。度胸があるって。中々できることじゃないわ。でも負けて褒めたんじゃ示しが付かないし、あなたがこんなところで調子に乗っても困るから何も言わないの。
いい?悔しかったら強くなりなさい。これから長い相撲人生、負けなんていくらだってあるわ。相撲だけじゃない。人生には黒星が付く事の方が多いかも知れないの。それでもみんな頑張るのよ。夢があるから、苦しみながらでも前を見るの。あなたも相撲で上を目指す覚悟があるなら、後数時間で―今日中に乗り越えなさい。これ以上周りの人たちに八つ当たりするんじゃありません」
「・・・」
「わかったの」
「・・はい」
第五十九回に続くー
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