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「月光に溺れる」 1


     


 冷たい雨が降っていた。晩秋の短い陽の完全に落ちた街。街道は真っ直ぐ一本に、世間をひた走る真面目なランナーのように伸びている。しかし綻び迄は繕いきれない。例えばあそこのビル。端の方、崩れかけのコンクリートが路肩にさらされている。外気に汚された雨水を吸い込んで、不様な色で転がったまま、幾日も、野晒し。

 例えばあそこの店の屋根、風雨に耐えて、不経済に耐えて、とうとう草臥くたびれた。みっともなく色褪せて、それで尚、晒し者である。

 空は淀んだ雲へ墨を滲ませて、いつまでもぼとぼとと零す。重たい滴を吸い続けて、愈々いよいよ濡れそぼる街。ビル壁をつたって濁る足元の水溜りが、雑然と街を乱反射させている。こちらの風は冷たくて、さもしい。手首から、胸元から、ありとあらゆる隙間を突いて、さもしい風が無遠慮に我が痩身をなぶる。

 紀ノ貫之きのつらゆきはこの冷たい雨の中、靴の裏に銀杏の葉を踏みつけにしたまま、街道を歩いていた。

―あなたのそう云う所、良くないと思うわ―

 これを言ったのは何時いつの女だったか。誇らしげに腕を組み、恰も賢者のような様相で、気持ちだけは善良な民を気取って、瞳に含ませていたのは聖母の慈しみかそれとも憐れみか、蔑みか。もうどれとも忘れてしまったが、兎に角また浮かび上がってきた、あの一言、あの顔。しつこく胸に現れる灯火が、いつまでも憎らしい。

 街道の銀杏並木はこの街のシンボルである。ここだけでなく、街の至る所へ植わっている。並んでいる。勇壮である。先日から一斉に黄葉が見頃を迎えて、道行く人が立ち止まっては、上を見上げてぼうとしていた。そうして大抵が手元のスマートフォンへ収める。右も左も上も撮る。昼日向の安住を映し出すように、競ってそうしていた。

 紀ノはそう云うありふれた行為に抗う様に、楯突く様に、舞い落ちた鮮やかな一枚々々の重なって仕上がる黄色い絨毯を、これ見よがしに踏みつけて歩いていた。暗い街、足元から返す埃混じりの水もズボンの裾へこびり付いた。どうせ今夜のこの雨で、おさらばの黄葉だと思った。みんな落ちていく。容赦なく落とされると分かり切っている。踏みつけて何が悪いかと思う。先刻さっき擦れ違った自転車にも轢かれていた。あそこのあいつは蹴散らして行った。わざわざ集めて捨てる奴もいる。

 切なくなった。途端に切なくなった。可哀そうに、折角せっかく生まれたのに、もう落ちたんか。と同情する。だがそう思いながらやっぱり踏みつけている。ええい構うもんかと又思い出す。雨が上から叩きっつけて来る。ぼたぼたとみっともない音を立てる。

―あなたの奇麗な所って、名前だけね―

 あの女に言われた言葉だ。これもやっぱり、女だった。先月まで付き合っていた女が、そう言って、出て行った。最後の最後に格好つけて、どうでも良いことを、格言のようにひけらかして出て行ったのだ。出て行ったと云って、別に一緒に住んでいた訳じゃ無い。勝手に来て、勝手に出て行ったのだ。誰も頼みもしないのに、夢でも見たのか、居座って、一人で幻想に浸かって、急に目を醒まして、出て行った。さようなら。

 紀ノは真っ直ぐ歩いている積りだが、体は少しゆらゆらしている。右足を出すと世界は十五度軸を傾ける。おっとと思い左足を差し出すと今度は左に二十三度傾く。正面が段々曖昧になっていく。口角が無暗に上がって、口からふふと、奇妙な声が漏れる。寒い雨が身に堪えてくる。風が吹いているのかと気が付く。こんな夜にわざわざ、俺の為に、俺の身を愈々堕落させるために、わざわざ、吹き込んで。また弱気が出て来る。

 俺だって少しくらい、それは人よりも少なかったかも知れないけれど、それでもちょっぴりは、良い所を持って生まれて来た積りで、これでも二十年以上も、四苦八苦しながらだったけれど、どうかこうか、人らしく、四つん這いで彷徨わないで済むくらいには、真面目に、懸命に、汗を掻いて、時々は頭も下げて、自尊心も下げて、生きて来たのに、れを全部台無しにさせて、たった三ヶ月ぽっちの付き合いで決めつけて、笑いやがって、本当に、あいつは一体、何様だ!

 この時歩く紀ノの左脳を電撃のミミズが前触れ無しに暴れ回った。紀ノは左手で咄嗟とっさに頭の左側を鷲掴みにした。立ち止まって、暫し世界を中断する。痛みは予断を許さない。四六時中不意打ちに紀ノを襲った。激昂せずとも現れた。トイレの便座に座っている時に襲われたこともあれば、カップ麺前にして割り箸を割った瞬間に襲撃されたこともある。痛むのも右の事もあるし、額の時もあって、全部が全部襲われる日もある。全部はミミズどころの騒ぎではない。雷鳴が轟、ずどんずどん脳を攻撃してくる。そういう日は一切の理から線を引き、遮断して、遠ざけて、諦めて、侘しい布団の中に潜り込んでじっとして、只、世界が落っこちるのを待っていた。

 誰かの家の軒からぴちょんぴちょんと雨が落ちている。溢れてじょぼじょぼ落ちるのと混ざっている。車が車道をひっきりなしに通る。ばしゃばしゃ雨を弾く。傘の先から滴るのもぽつんと落ちて、天から垂直に大地へ落下させられた雨滴はまとまってぼとぼとといわす。それら全部を立ち止まる己の耳に取り込んだ紀ノは、この街は今、水に溺れているのだと思い出した。無機質なビル看板と屋根と、路傍の屑と、足元に埋め込まれたブロックの歩道と、行き交う傘と。知らず知らず沈んでいくのだ。まるで池の中の鯉である。呼吸するには天辺を目指して藻掻くしかない。今度は通りの向こうから傘が二つ現れた。大きいのと低いのだった。一つは機械的足音で迫って来る。もう一個はか弱い。遅い帰り道か、大きいのからひたすらに、急げ急げ、早く。急かされている。

 小さい長靴が暗い中から紀ノの視界に飛び込んだ。小振りな傘と雨合羽に、長靴。足音が覚束無い。けれども懸命に、歩いている。冷たい雨が睫毛に散って目を瞬きながら、口を縛って、両の手で傘の柄握り締め、歩いている。可愛いな。自分の足で歩いて、偉いな。頑張れよ。負けるな。子どもは紀ノの横を歩いて通り過ぎて行った。


 ミミズが巣穴へ隠れ去った。息を吸いこみ、存分に吐き出してから、紀ノはまた歩き出した。出掛けに布団の上で呷って来た悪い酎ハイが脳と体と、思考に反映されている。たった一本を作用させて、正気をあやふやにしようとする。銀杏の葉を磨り潰しながら、更に幾枚分か、足裏に刻んだ。

 紀ノが今着こんでいるのは、一着切りのセットアップスーツである。目立つ処の無い、ありふれた紺色の生地で、裏地は無い。内側には白のワイシャツを一枚。これもありふれた型通りの、微かにストライプがかったボタンダウンシャツである。ネクタイはしていない。そこまでは必要ないだろうと思ったから着けて来なかった。心情としては幾ら濡れたって構わないのだが、汚せない訳があって、仕方なく右手で色褪せた黒い折り畳み傘を差し向けている。図体に似合わず、折り畳みが小物だから、結局滴が防ぎきれていないけれど、紀ノは然し傘をその一本きりしか持ち合わせなかった。いつかコンビニで買い求めた紳士サイズのビニールのジャンプ傘が、玄関の辺りにおそらくあったのだが、いつの間にやら失くなってしまった。何処かに置き忘れたのか、あの女か或いは別の女が持ち出してそれきりなのだろう。紀ノはもう感心さえなかった。

 歩く紀ノの右足が、足元の水溜まりを掠めた。危うく靴下まで水浸しにされるところで、そうなるとさすがに気持ち悪くて嫌であった。この浸る夜に似合わず、彼の足元は革靴を決め込んでいた。車のヘッドライトに雨粒の煌めいて、革靴の表も時折鈍く光を放つ。立派を装ってはいるものの、実際ははりぼてである。みすぼらしいのは隠せていないだろうと、紀ノは努めて目を逸らしていた。更に逸らした目先は、自分の何処へも向けられないとさえ思う。頭の毛穴から、首筋から、脹脛ふくらはぎを巡って果ては足の指先からも、五臓六腑を巻き込んで、己の体のあらゆる所から荒んだ物が染み出しているのだ。匙を投げた時点で、取り繕いようもないことは明白であった。

 天の理を無視してひたすら前へ歩みを進めている最中、信号待ちで、立ち止まると、隣へ人の気配がした。傘の中から視線を下へ地面をなぞるように運び、パンプスの足元で女だとは分かった。自分の方へ体を向けているらしい。後は知らん振りを決め込む。然し案の定声なんぞ掛けて来た。通り向こうの赤信号が忽ち憎らしくなる。

「今、幸せですか?」

 労わるように、憐れむように、偽善の刃で包み込むように、己の善意を擦り付けようと、さもしい瞳を向けて、そう問いかけて来た。紀ノは傘を傾けて一寸顔を上げた。無暗に大きな花柄の、陽気な傘を差した婦人であった。それだけを認めると、相手の顔の真面まともに見えぬうちに再び傘で遮断した。

 うるさい!あっちへ行っていろ!そう怒鳴りつけてやったら、もう俺は、終わりだろうと思う。社会から烙印押されて、永久追放だ。女を殴るなんて最低だなんて、屹度きっと寄って集ってお説教で、手も足も出せないまま、蹲って、畏まって、惨めな気持ちで、一方的に、弁解の余地なく頭を下げて―。でも言わせてくれ。俺にだって、口がある。情けないけど頭も在る。惨めだろうと心も在るんだ。だから、云うぞ。

 こんな時だけ男女の別を主張しやがって。いいか、良く聞け、男だって、男だってな、振り上げられて嬉しい拳なんか、無いんだ。

「―無いんだよ」

 婦人を置き去りに信号を渡り切った紀ノは、暗い歩道の中でぽつんと立ち尽くしていた。雨音が段々と耳を占領し始めて、外界との区別が付き難くなっている。傘を支える五指が冷たい雨風を浴び続けた為に、湿り気を帯びて強張っていく。己の方が荒んでいる事は、それでも端から整然と理解していた。敵何て存在しないことは幾ら太陽が昇っていなくとも、明らかであった。日が昇って焼かれるのは、寧ろ己の方であるという、述懐であった。

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過去に連載致しました「月光に溺れる」再登場です。長編小説をお楽しみ頂ければ幸いです。「生きること。命とは、死とは」巡り合わせた人々と共に少…

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