見出し画像

短編「乙女と春の桜餅」

 春になった。あの子の事を語らねばなるまい。そう、黒髪の乙女の事を。
 私は断言する。春と云う季節がこれ程までに似合う後ろ姿も早々ないのではあるまいかと。先ずは聞いて欲しい。春は、花粉症と戦うのでも無ければ、寝惚け眼と戦う季節などでも断じて無い。春は、麗しいもの、崇高なものを愛し、或いは遠くから愛でて、心の平和を満たす愛おしい季節なのである。かく云う私も、黒髪の乙女を眺める一人である事を今ここに白状しよう。
 私は純粋に眺める。あの子の笑った拍子に零れる左頬のえくぼを。私は眺める。溌剌と歩道走り回る幼子の短い手足を見詰める微笑ましいあの子の横顔を。私は眺める。あの子が桜木へ持ち上げた睫毛の儚い数ミリを。私は眺める。赤いポストの前で立ち止まり、徐に自分の腰へ手を当てて肩で息吐き出したあの子の、露わにされた体の線のしなやかさを。否、一体何が在ったのかしらん。私は純真であるから、あの子が右向けば右向いた理由を知りたがるし、あの子が下向けば下向いた理由がそれはもうとても気になる。視線の先は後で良い。いや矢張り多少は気になるが。

 ここ迄語ってみたものの、黒髪の乙女と聞いてお気づきの方も居るであろう。私は「夜は短し歩けよ乙女」を愛読書とする数多の読者の中の一読者に過ぎない人間である。そして彼の作中に登場する「先輩」と比べても遜色ない健全男児であると思われる。そして私は、春の夜に窓際で彼の本を広げては、黒髪の乙女に夢を見た一人でもあると正直に言ってしまおう。そんな春を、私は幾度数えただろうか。

 それがどうだ、この春になって、私の目の前に本物の黒髪の乙女が現れたではないか。背中に緋鯉は背負っていないし、未成年だから酒も嗜まん。夜の先斗町を彷徨う気質も恐らく無いだろう。がしかし、紛れもなく彼女は黒髪の乙女なのである。達磨では無くフルートを抱えた乙女なのである。高台にある校舎へ歩いて通う乙女なのである。教室から音楽室までの道のりで迷子になる乙女なのである。そういう乙女に、私は一目で胸を焦がしてしまった。彼女こそが、私にとっての春、麗しいあの子に外ならん。私は神の采配に感謝した。坂の上へ建つ校舎に感謝した。一つ先に生まれるべく取り計らってくれた父母へ感謝した。だが万事緩やかに私の味方をするようでいて、その実私の眼前には重要課題がのさばっておった。

 私は元来が憶病な生き物である。立派な慎重派であると云っても良いのだが、その所為で春は刻々と過ぎてゆくのに、二人の近付く気配が無いのがどうにも心苦しいのである。私がこうして日夜己の影の前で立ち往生して居るのにけしからん輩が黒髪の乙女へほいほい気軽に近付く様子に憤慨しているのである。それが表へおくびも表されないのは私の寛大なる温情であって、内なる炎は盛んに燃え上がっている事を、彼等は知る由も無いだろう。仮にも私は先輩であるからして、迂闊な言動は控えねばならん。学年の同輩へも無論のこと、下級生の模範となってこそ堂々と先輩の肩書を胸に誇れるのであって、下等な群衆に成り下がってはそれこそあの子へ合わせる顔さえ自ら潰す事となる。考えるだに恐ろしく、本末転倒、人生一寸先は闇となる。後快晴などと、小説でもあるまいに中々そう能天気に上手くはいかないものだと、そこのところは重々心得ている。

 私は誓おう。決して他者を見縊らず、奢らず、清い心を保つよう心掛け、無理な駆け引きには挑まず、只厳かな心持ちであの子を眺めては、一人静かに噛み締めると。だがらどうか、強引な力に拠らず、ほんの些細な事で良いから、偶発的な何かが起こりはしないだろうかと、私は今日も放課後の街を彷徨っている。その名も外堀活動と、呼ばせてもらうものである。大変安寧且つ清い活動であるのは言うまでもない。なにせ例の、わたくしの尊敬して已まない先輩に倣って、私が自発的に始めた活動であり、至って真面目なものであるのだから。

 彷徨える私の身体は、商店街の入り口にある老舗の和菓子屋の前で足を止めた。臙脂に染め上げられた暖簾が美しく軒下へ下がっている。春の穏やかな風に時折揺られて如何にも風情がある。断っておくが私はスイーツ男子ではないが団子男子ではある。祖父の影響で和菓子には目が無いのだ。縁起でも無いが祖父は糖尿病を患っている。最早治りそうもない。縁起でも無いが私はそれを肝に銘じておる。断っておくが乳脂肪よりもあんこ文明の方が断然健康生活であると私は固く信じている。生涯を通じてそれを証明することもやぶさかでない。

 和菓子屋に話を戻そう。今も古いガラスの引き戸の奥で、ショウケースに並べられた愛らしい春が幾つも慎ましく、こちらを和やかに誘って来るではないか。私は口の中も頭の中も忽ち和菓子愛で一杯になった。こうなるともうその他のことは考えにくく、どうかして私が暖簾を潜るだけの正当な理由を誂えたくて堪らなくなる。二本の足も辛抱強く私の決断を待っておる。そうだ、少し頭を使い過ぎた私は、脳が断然甘味を欲している。これを早々認めてやらねば日夜酷使強いられる脳味噌も大概かあいそうと云う物である。私は満足気に頷いて、遂に足を暖簾の奥へ、魅惑の和菓子屋へと踏み入れた。
 気取らぬ店内の香りからして先ず満足であった。通りからガラス越しで見るよりも並ぶ和菓子は一層可憐である。どうしても美味そうである。私は颯爽と、そしてさも平静を装って、桜餅を二つ、紙の小さな折箱へ詰めて貰った。花見団子、薯蕷饅頭、おはぎ、月餅。何しろ誘惑の多い店であるから、長居はできん。身を亡ぼす前に、軽やかな餅を二つで手を打った。これを早々家に持ち帰り、折箱を開けて桜葉の塩漬けのほのかに香るのを鼻腔に思う存分吸い込むのが待ち遠しくて堪らん。

 ガラス戸を後ろ手に閉めて暖簾をかき分け通りへ目線を運んだ時、私は危うく今買ったばかりの物を落っことす所であった。あの子が目の前に現れたのである。視界の端ではない。見守る位置でもない。目の前へである。
「や、やあ」
「先輩。先輩も和菓子を買いに?」
「ん、ああ、春だからね」
「そうですね、春です!」
 と云って黒髪の乙女が街の安穏へ顔持ち上げた時、私の心の臓は愈々飛び出しそうであった。そよぐ後れ毛がこちらの瞳を焼き尽くす。いつの間に束ねたのだろう。
「よし、これをあげよう。桜餅だ」
 黒髪の乙女は麗しい眼を私の顔へ運んだ。少しく驚かせてしまったようである。だがもう私も後には引けん。
「たった今買い求めたばかりだから、健全だ。安心したまえ」
「いいんですか」
「ああ」
「桜餅、好物です。嬉しいです」

 その途端緩んだあの子の頬の柔らかさを、目の前でその顔と向き合わされた私の衝撃を、どうか察して頂きたい。差し出された両手に、私は恐る恐る小さな紙袋を渡した。触れまいとして、右手の人差し指の第二関節があの子の手の甲に触れてしまった。
「ありがとうございます」
「いや、大したことは――たまたま、出くわしたものだから」
 黒髪の乙女はにこりと笑んで、もう一度礼を述べるとぺこりとお辞儀して、和菓子屋の前を遠ざかっていった。
 あの子の姿が完全に視界からいなくなってから、私はその辺りに散らばらしてしまった己の自尊心と勇気と建て前と本音を拾い集めて、家へ帰った。

 春は、全体春と云う物は、朝から晩まで油断のならない季節である。私の陳腐な活動もなにも構いなしに、唐突に世界は息吹を上げて断然猛烈に回り出すのだ。昼間の陽射しでほのかに暖められた自分の部屋の、ベッドの上へ胡坐をかいて、私は己の人差し指の健全であるかを、先程から幾度も確認する作業に追われている。なにしろじんじんする。それと共に脈が激しくなる。体を巡る血管には、私の血と他にも何か蠢くようで、どうやらそれが、私の指のじんじんするのと鼓動のざわつきとに深く関係しているかの様に思われる。妙に落ち着かん。私はこれから部活へと後輩を誘惑する、否勧誘するためのビラ作りもやらねばならんが、どうにも机に向かっておられないので、一旦座を離れ、こうしてベッドの上へ移動してみたものの、これはこれで何だか邪心があるような無い様な、全く落ち着かない夜であった。
「はあぁ」
 私の大きな溜め息が、春の夜と溶け合ってゆく。私は遂に布団の上へ仰向いた。天井のシーリングライトが眩しい。右手を翳してみる。私の五指は細く長い。それに少し白くて、周りから見るとどう映るだろう。貧弱だろうか。あの子は、どう思ったろう。
「―先輩」
 私は猛然と起き上がるとベッドを飛び出し、机に齧り付いた。

 さて、私がこうして日夜修練を積む間にも、春は瞬くように移ろいゆくであろう。大変結構である。私に遠慮はいらん。春の次には夏があるのだ。夏も、良いものだ。そうだ、ここ迄御付き合い給うた読者方々へ、あと一つ、折角の御縁と語らせて頂こう。

「夜は短し歩けよ乙女」に恋した人へは、夏に是非とも「宵山万華鏡」に出会う事をおすすめするのである。私は、開いてみて欲しいのだ。自らの意志によって、あなたの手の内で、思うままに。もしも本に惹かれて文字の狭間へ飛び込んだなら、気付けば屹度、あなたは祇園の只中へ立ち尽くしておられることだろう。

 御一同、ありがとう。乙女、万歳。

                    おしまい

画像1


画像2


森見登美彦先生へ、勝手に小説の題材にしてごめんなさい。でもありがとうございました。おかげで美味しい春に巡り合う事ができました。  いち


※お読み頂きありがとうございます。この物語には対になる物語があります。合わせてお読み下さると、一層お楽しみ頂けます。   いち


お読み頂きありがとうございます。「あなたに届け物語」お楽しみ頂けたなら幸いにございます。